メディアにおける「良いコンテンツ」について

メディアの議論になると、こういう話が出ます。

「良いコンテンツを届けたい」「良いコンテンツをつくれば読者に届くのか?」「質の低いコンテンツが増えた」などなど…。

しかし、ここでいう「良いコンテンツ」とは何でしょうか?この問題に答えを出さないまま、こうした議論ができるのでしょうか?

今回は、テキスト・コンテンツに限って、この「良いコンテンツ」とは何か?という問題について考えてみたいと思います。

4種類のコンテンツ

僕の考えでは、「良いコンテンツ」とは2種類に分けられるのではないかと思います。1つは「大衆が支持するコンテンツ」、そしてもう1つは「アプリオリに良いコンテンツ」です。

この2つのコンテンツについて説明する前に、まず、コンテンツには4つのパターンがあることを確認しましょう。それは以下の4つです。

  • 質が高く、多くの人に読まれるコンテンツ
  • 質が高く、あまり多くの人に読まれないコンテンツ
  • 質が低く、多くの人に読まれるコンテンツ
  • 質が低く、あまり多くの人に読まれないコンテンツ

このうち、後半部分はわかりやすいです。

もちろん、そもそも「コンテンツが掲載される媒体のリーチ力」や「言語」、「その話題が多くの読み手にとって関係のあるものか」などの要因によって、リーチし得る人の絶対数は変わってきます。

例えば、英語で書かれたものと日本語で書かれたものであれば、圧倒的に前者のコンテンツの方が、多くの人に届く可能性を秘めているわけです。

しかしとはいえ、同一媒体に限ったり、同じ言語、同じ環境(ネットか紙か、など)で比較するなど、変数を統制すれば、相対的な数は比較することができます。

その意味で「多くの人に読まれるコンテンツ」と「あまり多くの人に読まれないコンテンツ」が存在することは、ある程度まで合意できる事実ではないでしょうか。

「大衆が支持する判断するコンテンツ」

冒頭で述べた2つのうち、「大衆が支持するコンテンツ」はこの「多くの人に読まれるコンテンツ」を指します。

すなわち、「多くの人が読む(支持する)んだから、きっとそれはニーズに応えているのだろう、だから良いコンテンツなんだ」といった具合です。

この論理を少し乱暴だと考える人もいるかもしれませんが、僕は一定の説得性があると思います。ネットにおいて、多くの人に読まれるというのは、例えば Google などの検索上位にあったり、Facebookなどのソーシャルメディアでバズったりする結果です。

まず前者については、「結局アルゴリズムによって決められたコンテンツにすぎない」と思われるかもしれませんが、そのアルゴリズムには様々なシグナルが含まれています。

Googleのいう「ユーザーのためになるコンテンツ」が具体的に何を意味するかは難しい問題ですが、多くのユーザーが無価値と感じて、すぐにページから離脱するようなコンテンツや、誰も紹介せずにバックリンクも貼られないようなページが上位にあり続けるとは考えづらいです。

またソーシャルメディアでのバズも同様です。多くの人が話題にしていたり、友人に進めるコンテンツは、一定度の評判に裏付けられているわけで、あまりにも退屈で、誰の関心も呼ばないコンテンツがバズるとは考えづらいです。

そのため僕は、「大衆が支持するコンテンツ」を「良いコンテンツ」として定義することに、一定度の説得性を認めているのです。

「大衆が支持するコンテンツ」のパラドックス

ではなぜ僕は、「一定度の説得性を認めている」という曖昧な表現を用いるのでしょうか。それは、この「大衆が支持するコンテンツ」が、パラドキシカルな問題を抱えているからです。

そのパラドキシカルな問題とは、「大衆が支持するコンテンツ」が「結果論に過ぎないもの」だという事実です。

すなわちここで述べているのは、「大衆が支持するコンテンツ」は「良いコンテンツ」だ ということで、「良いコンテンツ」は必ず「大衆が支持する」と述べているわけではないのです。

例えば、僕が「良いコンテンツ」だと思ったものをつくれば、それは必ず大衆に支持されるわけではなく、コンテンツをつくった結果、それが大衆に支持されれば、結果的にそのコンテンツが「良いコンテンツ」だと気付く、ということです。

3つの問題

このパラドックスには大きく3つの問題が含まれています。

(1)

1つ目は、わたしたちが「良いコンテンツ」を永久に知ることができないという問題です。これはなんだか哲学的な問いに見えますが、重要な問題です。

僕はそもそもこの議論を『「良いコンテンツ」とは何でしょうか?』という疑問とともに出発させました。その答えが、結果論に過ぎないということであれば、この問い自体が成立しなくなってしまいます。

少なくともこの議論においては、結果論を提示することは、無意味なのです。

(2)

2つ目は、あくまでも「多くの人に読まれるコンテンツ」と「あまり多くの人に読まれないコンテンツ」という比較は、相対的なものにすぎないということです。

最初の議論を思い出していただければわかると思いますが、もし「絶対的に、より多くの人に読まれたコンテンツが良いコンテンツだ」と言い切ってしまえば、「日本語よりも英語が優れている」という話になってしまいますし、例えば大量の広告を投下して、多くの露出をしたコンテンツが良いコンテンツだ、という話にもなります。

つまり極論を言えば、より多くの資本を投下して、英語に翻訳し、露出をおこない、リーチ力のある媒体に掲載されたコンテンツこそが、良いコンテンツであるという話になってしまうのです。

この辺りは、ドゥルーズ=ガタリを経由して1本くらい論文が書けそうですが、そうでなくとも、直観的に違和感がある結論だとは思います。

あくまでも、いくつかの変数を統制して、相対的な比較をおこなった上でしか、「良いコンテンツ」を定義できないのです。

(3)

3つ目は、「大衆が支持した」過程はブラック・ボックスだということです。先ほど、Google や Facebook のアルゴリズムを擁護しましたが、ある意味では、これらのアルゴリズムは、コンテンツそのものの価値とは無関係であるとも言えます。

例えば、日本で一時期流行ったバイラル・メディアは、数多くのデマが含まれていました。「感動話」や「思わず笑ってしまう話」は、その出典が不明で、あたかも事実のように書かれていても、全くの事実誤認や創作であるケースが、しばしば見られました。

しかし、多くの人はその裏取りをしないままにシェアしていました。

もちろんその是非を問うことは大事ですが、ここで問題なのは、それが結果的に広まれば、Facebook での評判が高まり、Google のシグナルにも影響を与えているという事実です。

なぜそのアルゴリズムが、そのコンテンツを支持したのか?という過程をトレースできない状況においては、「大衆が支持するコンテンツ」を全面的に擁護することはできません。

小括

さて、こうした問題を踏まえてもう1度言うならば、

「大衆が支持するコンテンツ」を「良いコンテンツ」として定義することは、一定度の説得性がある。しかし、それは十分ではない。

ということになります。

ここで冒頭に出てきた「大衆が支持するコンテンツ」と「アプリオリに良いコンテンツ」という2つのうち、前者については、一定の見通しが生まれました。

では、後者についてはどうでしょうか?

「アプリオリに良いコンテンツ」

まず、コンテンツの4パターンについて振り返りましょう。

  • 質が高く、多くの人に読まれるコンテンツ
  • 質が高く、あまり多くの人に読まれないコンテンツ
  • 質が低く、多くの人に読まれるコンテンツ
  • 質が低く、あまり多くの人に読まれないコンテンツ

僕たちはこれまで「多くの人に読まれるコンテンツ」と「あまり多くの人に読まれないコンテンツ」について考えることで、「大衆が支持するコンテンツ」を考えてきました。

つまり今回は、「質が高い」と「質が低い」が問題になるわけです。

しかしこれはより厄介な問題です。定性的な価値について、どのように定義すれば良いでしょうか?

結論から言ってしまうと、これには複数性が認められるはずです。より正確に言うならば、「欲望に基づいた複数性が認められる」と言えます。

欲望に基づいた複数性

例えば、MERYというサイトがあります。「女の子の毎日をかわいく。」というコンセプトを掲げたこのサイトでは、女性のための様々なコンテンツを見ることができます。

コンテンツは、MERYのライターがオリジナルに書いたコメントもありますが、他サイトのテキストや画像を使用しているものもあります。

では、オリジナルに書かれたコンテンツが少ないことから、MERYは「質が低い」と言えるのでしょうか?

そうではないでしょう。メディアの質を判断するのは(主に)ユーザーですが、このサイトを訪れる女性にとっては、MERYで「かわいいコンテンツに出会えたり」、「暇な時間をつぶせる」ことが価値なわけです。

彼女たちは、新聞やテレビのように「オリジナルな画像・映像」が見れたり、速報性や正確性を求めて、サイトを訪れているわけではありません。

そのため、MERYはこうしたユーザーの欲望に応えており、「質が高いコンテンツを提供している」と言えるのです。

(僕にとっての)良いコンテンツの3つの条件

しかしながら、大事なポイントは「欲望は単一ではない」ということです。

例えば僕にとっては、良いコンテンツとは

  • 事実に基づいた記述がしてあり
  • その事実を元に因果的推論がなされており
  • かつ、その推論の結果がcounter-intuitive(カウンター・インテュイティブ)なもの

という条件を満たすものです。これはおそらく、MERYをおとずれるユーザーが、コンテンツに求めているポイントとは異なる条件でしょう。

しかし僕は、上記3つの条件によってコンテンツの「質が高い」「質が低い」を判断しています。

そのため、そのコンテンツがどれほど可愛かったり、暇をつぶせたとしても、事実に基づかない記述が含まれていれば、そこから誤った因果的推論が導かれていれば、「質が低い」と判断します。

欲望は相互に排除しない

すなわち、コンテンツの質とは、人々の欲望に基づいて、複数の基準で高い・低いが決められるものだと言えます。

複数性があるならば、それはその人にとって「アプリオリに良いコンテンツ」と言う他ありません。僕がどれだけ「質が高い」と考えても、それは僕にとって「アプリオリに良いコンテンツ」に過ぎず、一方でMERYをおとずれる女性にとっては、分かり合えない基準かもしれません。

もちろん、この複数性は対立するものでも、相互に排除するものでもありません。僕が良いと思うコンテンツをMERYユーザーが良いと思うこともありますし、その逆もしかりです。

その意味では、コンテンツの良し悪しを定める複数性は、欲望に根ざしていますが、それは個人の中でも並列する複数の欲望だと言えるでしょう。

小括2

ではここまでの内容をまとめてみると、以下のようになります。

「アプリオリに良いコンテンツ」とは、欲望に基づいた複数性が認められる。ある個人や状況、価値観が持つ様々な欲望を満たすコンテンツは、その欲望に対して、「良いコンテンツ」であると言える。

これは少しだけズルい結論にも見えます。いわゆる「なんでもあり」な結論に陥ってしまう可能性があるためです。しかしこれについては、現時点でこのように答えるしかありません。

僕の考える「良いコンテンツの3条件」こそが「良いコンテンツ」の絶対条件だ、というならば、例えばMERYのユーザーが持つ欲望を否定する論理を用意しなくてはいけません。

「そのコンテンツが社会のためになるか?」という補助線を引くことで、その論理を引けないこともないでしょうが、とりあえず今回は、この曖昧な結論を受け入れておくことにしましょう。

「大衆が支持するコンテンツ」と「アプリオリに良いコンテンツ」の関係

さて、ここまでの議論で「良いコンテンツ」とは、「大衆が支持するコンテンツ」と「アプリオリに良いコンテンツ」の2種類があることが分かったでしょう。

では最後に、その関係について見ていきましょう。

まず最も重要な点は、両者は無関係だということです。すなわち、「アプリオリに良いコンテンツ」だとしても、大衆が支持しないこともあれば、大衆から支持を集める場合もあります。

逆に、大衆が支持したとしても、それは「アプリオリに良いコンテンツ」とは限らないのは、これまで見てきたとおりです。

ではそれらを4種類のコンテンツに合わせて整理すると、以下のとおりになります。

  • 質が高く、多くの人に読まれるコンテンツ
    =「大衆が支持するコンテンツ」&「アプリオリに良いコンテンツ」
  • 質が高く、あまり多くの人に読まれないコンテンツ
    =「アプリオリに良いコンテンツ」
  • 質が低く、多くの人に読まれるコンテンツ
    =「大衆が支持するコンテンツ」
  • 質が低く、あまり多くの人に読まれないコンテンツ
    =いずれにも当てはまらないコンテンツ

すなわち、最後の「質が低く、あまり多くの人に読まれないコンテンツ」以外は、いずれも「良いコンテンツ」になり得るということです。

最後の項目が「良いコンテンツ」と言えないのは、直感的にもわかりやすいでしょう。それぞれの欲望に照らして、誰も「アプリオリに良い」と感じていないので、当然のことながら、大衆が支持するわけはないのです。

一方で、論争的なのは3番目の項目です。例えば、コピペやデマだらけのバイラル・メディアのコンテンツがバズると、直感的に「良いコンテンツ」だと言うには抵抗があるかもしれません。それが「大衆に支持されている」という理由だけで、「良いコンテンツ」と言えるのかは、もっとも受け入れがたい命題であるように思えます。

結論に変えて

ここまで、「良いコンテンツ」には、「大衆が支持するコンテンツ」と「アプリオリに良いコンテンツ」があることを見てきました。

ではこの立場に立って、改めて「良いコンテンツ」と「メディア」の関係について、暫定的な結論を出してみることにしましょう。

まず1つは、「良いコンテンツ」があったとしても、それは必ずしも大衆に受け入れられるわけではない事実を直視しなくてはいけません。

例えば、僕の考える「アプリオリに良いコンテンツ」には3つの条件がありました。これは限りなく、「優れた学術論文」に近しい定義です。しかし学術論文というのは、仮にどれほど優れたコンテンツであったとしても、大衆に受け入れられるものではありません。

もちろん、学術論文の成果と一般社会の理解を架橋しなくてはならない、という要請はありますが、一般的にそれらが常にうまく両立するわけではありません。

これは逆に言えば、大衆から支持されているメディアが常に「アプリオリに良いコンテンツ」を生産しているわけではないということです。

もちろん彼らは「大衆が支持するコンテンツ」という意味で、「良いコンテンツ」をつくっていると言えます。しかしそれが、各々にとっての「アプリオリに良いコンテンツ」と合致するわけではないということです。

そしてもう1つは、(これは逆説的に聞こえるかもしれませんが)「アプリオリに良いコンテンツ」についての議論を深める必要がある、ということです。

さきほど、「アプリオリに良いコンテンツ」は「なんでもあり」な結論になってしまう可能性があると述べました。しかしこれは、「なんでもあり」を許容する態度とは異なります。むしろ、それぞれが有する「アプリオリに良い」という基準の差異から出発して、議論を深める必要があるのです。

僕は、この「アプリオリに良いコンテンツ」とは何か?という議論が深まらないままに、「質の高い/低いコンテンツ」という議論が進んでいくことを危惧しています。

例えば、MERYのユーザーにとって「アプリオリに良いコンテンツ」と、僕にとっての「アプリオリに良いコンテンツ」は違いますが、この差異によって、互いを「質が低いコンテンツ」だと断罪してしまうことは、非常に不毛な水掛け論です。

むしろ、ある人はどのような定義によって、それを「アプリオリに良いコンテンツ」だと認識し、そのコンテンツが増えることで、個人や社会にどのような意義をもたらすのか、という問題を議論してこそ、メディアとコンテンツの関係について、より生産的な議論が生まれるようになるはずです。

メディアの議論はこれまで、マネタイズやフォーマットなどいわゆる「ガワ」の議論が多かったように思います。もちろんそれらは大切な議論ではありますが、同時に、その中身となるコンテンツの良し悪しについても、議論が深まる必要があります。

メディアにおける「良いコンテンツ」を考えるというのは、単なるビジネス・モデルを超えて、そのアイデンティティーを定義する端緒となるのではないでしょうか。

AUTHOR

石田 健

石田 健

株式会社マイナースタジオ代表取締役CEO。同社を創業後、2015年に株式会社メンバーズ(東証一部)に企業売却。早稲田大学政治学研究科修士課程修了(政治学)。Twitter : @ishiken_bot