ポリティカル・コレクトネスの時代とその誤解:なにが「ポリコレ疲れ」を生んでいるのか?

公開日 2016年11月28日 11:34,

更新日 2022年09月15日 10:40,

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アメリカ大統領選挙でドナルド・トランプが勝利したことは、全世界で多くの衝撃を持って受け止められている。

なぜトランプが勝利したのか?あるいは、なぜ事前調査で優勢と見られていたヒラリー・クリントンが敗北したのか?という問いは、これから数多くの論考が出てくるだろうが、分析の中で「ポリティカル・コレクトネス」が注目されている。

一体、ポリティカル・コレクトネスとは何なのだろうか?

トランプ勝利は「ポリコレ疲れ」?

ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)に疲れた人々が、トランプを支持した」という分析は、トランプ勝利と併せて急速に語られ始めた。

例えば、ネットで著名な個人投資家・山本一郎は以下のように語っている

とりわけ、アメリカの行き過ぎた人権主義、ポリティカルコレクトネスといった概念は、アメリカの地方(田舎)に住む有権者からすると、息苦しく、言いたいことも言えない世の中で、気の合う人たちとだけ地域やネットで交流するという、文字通り分断されるアメリカを体現するようなバックグラウンドになっているのかもしれません。
(略)
これから多くの論考がこの大統領選を巡って出てくるかと思いますが、どうも直近では、理想を実現しようとした共産主義が行き詰まって
ソビエト連邦が崩壊したのと同じく、異なる立場の人たちを融合しようという理想を掲げて人権やポリティカルコレクトネスを追い求め、世界の標準になろうとしたアメリカのリベラリズムを行き詰まらせてしまったのかもしれません。

あるいは、ブロガーの池田信夫は以下のように語る。

今度トランプさんが当選した一つの背景として、こういうポリコレの行き過ぎがあるといわれています。(略)ポリコレを悪用する人も多いので、言葉狩りはやめるべきだと思います。こういうことがいえるのもアゴラだけですが、困ったものです。

またTwitterでも、以下のようなつぶやきの様に、クリントンの敗因をポリティカル・コレクトネスと結びつける主張が見られる。

今回のクリントン敗北の要因の一つはポリティカル・コレクトネスによる言葉狩りが典型で、普段「和解」とか「融和」と言いながら、リベラル側が決めた枠にハマらない人達に対する言論封殺やヘイトスピーチ全開のリベラル達の非寛容さの偽善に多くの米国民が拒否反応を示したからだと思う

トランプ勝利とポリコレの関係は不明

結論から言うと、トランプ勝利とポリティカル・コレクトネスの関係は明らかではない。(”関係ない”のではなく、”明らかではない”)

トランプが、人種やジェンダーに関して差別的な考えを持っていることは事実だが、人々がそのことを支持したのか、彼の経済・外交政策を支持したのか、あるいはクリントンへの嫌悪感から票が流れたのかは、今のところ分からない。

投票前におこなわれた各種調査は、いずれもクリントン勝利を前提としており、こうした不十分なデータから、トランプ支持の基盤を予想することは望ましくない。現時点で、「ポリコレ疲れ」とトランプ勝利を結びつける評論は、無責任だと言える

とはいえ、僅かな期間で「ポリコレ疲れ」というワードが、急速に注目を集めてきたことは事実である。

ポリティカル・コレクトネスの時代

例えば以下は、過去2004年から現在までの「political correctness」のGoogle検索ボリュームを表したものだ。

2005年に大きな山が見られるが、再び2015年の夏頃から検索ボリュームが増えていることがわかる。

一方でこの現象は、日本では全く異なる様相を呈している。2004年からほとんど検索されてこなかった「ポリティカル・コレクトネス」というワードが、今年に入ってから急上昇しているのだ。

端的に言って、我々はかつてないほどに「ポリティカル・コレクトネス」という言葉に直面している。

数多くの事例

そして実際、今年に入ってからも「ポリコレ」と結び付けられるような炎上騒ぎは、数多く見られた。

例えば2016年5月には、『東大美女図鑑』という写真誌に出演した学生が、旅行客の隣に座りながら、それぞれの得意分野を教えてくれるという企画を旅行会社H.I.Sが計画。大きな批判を受けて、企画は中止になった。


批判を受けた資生堂「インテグレート」

また資生堂「インテグレート」が企画した、女優・小松菜奈が演じる女性に、男性上司が仕事ぶりを評価しつつも「それが顔に出ているうちはプロじゃない」と外見を指摘するCMは、ネットの声を受けて中止となった。

他にも、東京メトロの公式キャラクターである「駅乃みちか」のコラボ絵について批判が集まったり、昨年末の事例ではあるものの、三重県志摩市の公認・海女キャラクター「碧志摩(あおしま)メグ」が公認取り消しとなった事例もある。

異なる種類の問題としては、イベントでアイドルグループ欅坂46が着用した衣装について、「ナチスドイツの軍服と酷似している」として批判を浴びて、謝罪に至ったケースがある。

批判を受けた欅坂46の衣装

これらの事例は、それぞれ固有の問題を抱えているものの、いずれも「ポリコレ」という言葉と合わせて理解されていた。

すべてが「ポリコレ」の問題?

しかしながら、複数の事例を一括りに「ポリコレ問題」とまとめてしまうべきではない。なぜなら、一口にポリティカル・コレクトネスと言っても、問題の内実は全く異なるためだ。

上記の例であっても、セクハラだと批判を浴びたものから、歴史認識への欠如を批判されたものまで、多岐にわたる。それらを一括りにすることは、それぞれの問題に対する批判を隠蔽してしまう。

これらの事例を「ポリコレ問題」と括るべきではないもう1つの理由は、ポリティカル・コレクトネスの範囲を定めることは、それほど容易ではないからだ。

例えば、資生堂のCMについては、男性上司が「それが顔に出ているうちはプロじゃない」として、女性の仕事ぶりではなく外見について指摘をおこなう点が批判を集めた。

これは「男性と女性」「上司と部下」という二重の権力関係によって、女性を抑圧しているCMではあるものの、同時に本件は、これまで資生堂が担ってきた社会的な役割からも批判されてきた。

そうした指摘は、以下のようなツイートで見られる。

インテグレートのCM、セクハラだから問題じゃないんだよなぁ。セクハラだのクソフェミが抗議したからだのって言ってる人は問題の本質を理解してないよ。メインターゲットの女性にルッキズムを押し付ける価値観が問題なんだよ。自分のために化粧しろって言ってきたのが資生堂なんだよ。それがこれだよ

資生堂は、国連のグローバル・コンパクトにおける「Women’s Empowerment Principles (WEPs)」に参加するなど、これまで女性のエンパワーメントに向けた活動を長きに渡って進めてきた。

その資生堂が、「化粧は他人のためにするもの」と取られかねないメッセージを出したことへの失望も含まれており、単純なポリティカル・コレクトネスの関係だけでは、捉えきれない問題が見られた。

ポリティカル・コレクトネスとは何か?

すべての問題をポリティカル・コレクトネスとしてまとめることは避けられるべきだが、同時にこうした炎上の結果を「ポリコレ疲れ」と説明する人は少なくない。

このことは、「ポリティカル・コレクトネスとはなにか?」という根本的な問題への理解が進んでいないことを示唆している。そこで本論では、ポリティカル・コレクトネスが何であるかを説明した上で、なぜ「ポリコレ疲れ」という現象が語られるのかについて、1つの仮説を提示する。

それは、ポリティカル・コレクトネスがしばしば1つの規範として理解されているものの、その性質は「規範の調停」にあり、このポリティカル・コレクトネスに関する根源的な理解の差異が「ポリコレ疲れ」を生んでいるという仮説である。

そもそもポリティカル・コレクトネスとは何であり、あるいは何ではないのだろうか?

ポリティカル・コレクトネスとは"何ではない"のか?

ポリティカル・コレクトネスという概念を考えていくためには、まずそれが「何ではないのか」を考えていくことが分かりやすい。

ポリコレ≠綺麗事

橋下徹前大阪市長は、ポリティカル・コレクトネスについて以下のように語っている

過度な政治的きれいごと、ポリティカルコレクトネスが、論理矛盾を引き起こし、有権者との信頼関係を崩していく。安全保障上、核兵器が必要なら、広島で核廃絶のかっこつけ演説などしてはならない。トランプ氏は核兵器の必要性を真正面から宣言。

実際に、ポリティカル・コレクトネスを綺麗事であると考える人は少なくない。しかしその考え方は、端的に言って間違っている。

例えば、「お互いを理解し合えば、戦争はなくなる」という主張は(誰が、どこまで理解し合うというのも、そもそも曖昧であり)、綺麗事の範疇に入ると言えるだろう。

しかし、こうした主張はポリティカル・コレクトネスの領域ではない。

後の検討で明らかになっていくが、綺麗事は理念や理想に近いものだが、ポリティカル・コレクトネスは真逆の存在だと言える。

「核兵器を根絶するべきだ」という主張が綺麗事であるとは思えないが(白人と黒人が同じバスにのるべきだという主張も、綺麗事だと思われていた時代がある)、少なくともそれは1つの理念である。理念は、政治的な目的や規範として表現されるが、それらはポリティカル・コレクトネスと明確に区別される。

ポリコレ≠正義

また一方で、ポリティカル・コレクトネスを「正義」であるかのように語る見方もある。

「ポリティカル・コレクトネス」って「政治的に正しい表現」と訳されるけど、「一つの政治的正しさで世界を染め上げる事」は全体主義じゃないの?正義ってそんなに信頼できる不動のものじゃないんだから、常に疑義や補修、あるいは逆転の可能性が必要な、緊張感あるものでなければならないのでは?

こうした見方は、「ポリコレ棒」という言葉にも垣間見える。ポリコレ棒については、ネットメディア「ねとらぼ」は以下のように説明している。

「ポリティカル・コレクトネス」に少しでも反論するとすぐにたたかれることから、「まるでポリコレは人をたたくための棒だ」といわれるようになり、日本では「ポリコレ棒」と呼ばれるようになりました。

2つのポリティカル・コレクトネス観は、あたかもそれを1つの正義であるかのように扱っている所に特徴がある。

ポリコレ棒を振りかざす人々であろうが、それに批判的な人であろうが、最大の誤りは、ポリティカル・コレクトネスを絶対的な正義だと考えている点だ。ポリティカル・コレクトネスは正義ではないどころか、それは1つの規範ですらない。

ポリティカル・コレクトネスとはなにか?

ポリティカル・コレクトネスが「綺麗事」や「正義」、あるいは「規範」ですらないとすれば、それは一体何なのだろうか?

ポリティカル・コレクトネスの歩み

ポリティカル・コレクトネスを明確に定義することは、それほど容易ではない。

20世紀半ばまでスターリニズムの教義として使用されたり、共産主義者の用語であったポリティカル・コレクトネスは、1970年代のニューレフト運動が盛んになっていたアメリカで、主に大学キャンパスの論争として沸き起こってきた。

マルクス主義からポストモダンへと思想の潮流が移り変わる中で、マルチカルチュラリズム(多文化主義)とポリティカル・コレクトネスは、人種やジェンダー、あるいは少数民族の問題を考えるキーワードとして注目を集めていった。

1991年にはジョージ・H・W・ブッシュ大統領が、ポリティカル・コレクトネスについて「もともとはセクシズムやレイシズム、憎悪を追い払うために生まれた賞賛すべきムーブメントであったにもかかわらず、それは特定の表現・トピック・ジェスチャーを追い払うだけのものとなり、逆に新たな偏見を生んでいる」と批判的に言及している。

この頃からポリティカル・コレクトネスは、新聞や雑誌などにも登場する言葉として広く知られるようになり、現在の私たちにも馴染み深い論争が、大学の知識人らを超えて展開されはじめた。

すなわちポリティカル・コレクトネスが現在的な意味で使われ始めてから、アメリカでも僅か20年ほどしか経過しておらず、その意味や用法は決して定まっていると言えない。

社会的変化のための"戦略"

曖昧に定義づけられているポリティカル・コレクトネスではあるものの、その見方は大きく2つに別れると考えられる。

1つは、ノーマン・フェアクローが述べるように「広範な社会的変化の契機となる、文化的変化」を目的としたポリティカル・コレクトネスの使用だ。

これは政治文化を重視する見方でもあり、言語によって文化的変化を起こし、それを社会的・政治的変化へと繋げていこうという戦略的なものである。政治文化や言語の影響を大きく見ることからも分かるように、こうした見方はポストモダン的思想の延長線上にある。

すなわちこの場合のポリティカル・コレクトネスとは、その利用自体に意味があるわけではなく、その利用が目的達成において効果的だと考えられていると理解することができる。

こうした見方を支持する人々は、ある規範や目的を達成するための手段として、ポリティカル・コレクトネスが存在すると考えている。たとえば、「人種差別やジェンダー不平等をなくす」という目的のために、「差別的な言葉や振る舞いを批判する」という手段を用いているのだ。

米国の新しいアイデンティティ

一方で、ポリティカル・コレクトネスを新しいアメリカのアイデンティティだと考える人々もいる。例えばマーティン・E・スペンサーは、アメリカ社会の新たなヴィジョンが第二次世界大戦後に生まれたとして、その最新のムーブメントは多文化主義とポリティカル・コレクトネスによって表現されていると述べている

これは、有色人種など歴史的に排除されてきたグループを含めて、アメリカ社会の新たなアイデンティティを構築しようという、道徳的な動きなのだという。

ポリティカル・コレクトネスをアイデンティティとして捉える見方は、それを規範そのものであり、目的であると定義している。こうした見方は、ポリティカル・コレクトネスという手段を使って何らかの目的を達成するのではなく、その考え方や振る舞いが広がることそのものが目的である、と位置づけている。

この見解は「アイデンティティ・ポリティクス」という概念と深い関係を持っている。

資本主義と共産主義の対立が薄れ始めた1960年代以降、それまでマルクス主義にもとづいて経済的不平等を批判していた左派は、多文化主義やポリティカル・コレクトネスの問題に目を向けるようになっていた。これまで経済的不平等こそが、政治運動の主題となっていたが、7-80年代にかけて、社会における不平等や不公正の犠牲になっているジェンダーや少数民族、人種的マイノリティーなどの特定のアイデンティティを有する人たちの声を代弁することに、政治の目的を移していった。これが、アイデンティティ・ポリティクスだ。

このため、アイデンティティ・ポリティクスをおこなう人々にとって、ポリティカル・コレクトネスは政治の目的そのものであり、この考え方を広めることこそが、意味を持っていると言える。

2つの見解は、ポリティカル・コレクトネスを手段として捉える前者に対して、後者がその目的として捉えており、対極的な位置にあると言える。

両者の限界

しかしながら、両者の見方はポリティカル・コレクトネスの一側面に過ぎない上に、それは限界を有している。

なぜならば、ポリティカル・コレクトネスが手段であろうが目的であろうが、両者はいずれも左派(リベラル)イデオロギーの範疇から逃れられていないからだ。

ポリティカル・コレクトネスを目的として捉える場合はさておき、手段として捉える場合であっても、それが目指す社会的変化は、ほとんどの場合が多文化主義のようなものだろう。

多文化主義は普遍的理念のように見えるが、決してそうとは言えない。リベラリズムを基盤とする国家は世俗主義を採用しているため、宗教的理念を何よりも優先される人々の規範は、制限せざるを得ない。たとえば、ある宗教の戒律が国家の法律よりも優先される宗教の信者が、法を逸脱してでも宗教の戒律を守った場合は、法によって裁かれてしまう。

これはポリティカル・コレクトネスが重視する多文化主義という価値観に限界があることを表している。

また国家の一員としてのアイデンティティを重視する人々にとって、ポリティカル・コレクトネスが同性婚や夫婦別姓を要請してくることは、文化や共同体、伝統への攻撃だと見なされる。それが本当に歴史的経緯を持っているかは別として、そうした価値観を奉じることが国家の一員としてのアイデンティティを築き上げていると信じる人々にとっては、ポリティカル・コレクトネスはあくまでも異なる価値観の押し付けに過ぎないのだ。

ポリティカル・コレクトネスを規範として扱ったり、それに類する規範の達成を目指す手段として扱うことは、こうした衝突に直面してしまう。

規範の「調停」

では、この衝突を避けながらポリティカル・コレクトネスを普遍的なものとして扱っていくためには、その性質をどのように考えればよいのだろうか。

その答えは、ポリティカル・コレクトネスが規範そのものではないことを受け入れ、その本質が「規範の調停」にあることへの理解だ。

ポリティカル・コレクトネスを「規範の調停」と考えるためには、以下の3つの説明がふさわしい。

(1)ポリティカル・コレクトネスは、規範自体の是非を議論するのではなく、あくまでも表現・言説的な調停によって合意を図り、
(2)その合意(=コレクトネス)は、時代状況や規範の修正によって常に見直しが迫られる暫定的・政治的なもので、
(3)その調停は、功利主義的な観点から正当化されている。

「Black」の変化

具体的な事例を念頭に考えてみると、その輪郭が見えてくるだろう。

ポリティカル・コレクトネスの代表的な例として、過去に黒人を「Black(ブラック)」と呼んでいたものの、それらが侮蔑的な意味を持つ歴史があったことから「African American(アフリカン・アメリカン)」と呼ぶべきだという動きが盛んになった。

しかしながら、これらは大きな問題をはらんでいた。黒人の中にはすでにアフリカにアイデンティティを感じていない者や、中南米に奴隷として贈られた後、アメリカへ移民として渡ってきた者など、実際には各々が複雑なアイデンティティを有していたからだ。

こうした点から、黒人がふたたび自身を「Black」として呼称し、「The Black Power Salute(ブラックパワー・サリュート)」のように、ブラックという呼び名を積極的に掲げていくケースも見られる。

「Black」と「African American」のどちらが適切な呼び名であるのかは現在でも議論があるものの、ここから明らかなことは、「Black」という呼び方を「African American」に変えることは、あくまでも限られた議論にすぎないということだ。

黒人差別の歴史を理解することや、差別の原因や在り方、そしてその解決を考えることは、非常に時間がかかり、膨大な労力を必要とする。

すべての人々が、この問題に膨大な時間をさけるわけではないからこそ、議論の内実は一旦置いておき、一律に「African American」と呼ぶことで、気付かないうちの差別や不必要な摩擦・争いを避けようというのが、ポリティカル・コレクトネスの考え方だ。

こうした点から、「(1)ポリティカル・コレクトネスは、規範自体の是非を議論するのではなく、あくまでも表現・言説的な調停によって合意を図るだけである」という考えが見えてくる。

また、議論が深まるにつれて「African American」という呼称の限界も指摘されるとともに、「Black」にポジティブな意味合いが付与されるようになった。こうした経緯は、まさに「(2)その合意(=コレクトネス)は、時代状況や規範の修正によって常に見直しが迫られる暫定的・政治的なもの」であることを示している。

便宜上のツールとしてのポリティカル・コレクトネス

繰り返しになるが、「Black」を「African American」と呼ぶことは、その議論の内実を知っていようがいまいが、無用な摩擦を避け、「Black」という語が持つ歴史的な意味を知らない人であっても、気付かぬうちの差別を避けるためのものだ。

このことはある意味で、差別の構造を知らなかったり、議論自体に関心がなくとも、「便宜上その単語を使うだけ」である。

言うなれば、「この単語を使うこと(=コスト)が、無用な摩擦を避ける(=ベネフィット)ならば、使っておこう」という考え方にすぎない。この意味で、ポリティカル・コレクトネスはあくまで功利的な考え方から成り立っており、リベラリズムの本質からはかけ離れている。

「ポリコレ棒で殴りかかってくるリベラル」という言い方が、論理的には的はずれであることが分かるだろう。

社会的公正を重視し、正義を厳格に運用しようとするリベラリズムに対して、あくまでもポリティカル・コレクトネスは「(3)あくまで功利主義的な観点から正当化されている」にすぎないのだ。

規範ではなく「規範の調停」

ポリティカル・コレクトネスが規範そのものではなく、その調停であるという問題を別の事例から考えてみよう。

フランスで起きたシャルリー・エブド襲撃事件については、現在も記憶に新しい。イスラム過激派を揶揄する風刺画を描いた雑誌『シャルリー・エブド』本社に、武装した犯人が押し入って計12人を殺害したのは2015年1月のことだった。

凄惨な事件である一方、『シャルリー・エブド』誌がイスラム教のムハンマドを風刺した作品を掲載するばかりでなく、今年起きたイタリアの地震に際して、被災者をラザニアなどに見立てた風刺画を掲載するなど、度を過ぎた表現をおこなっていたことから、世界中で議論が巻き起こった。

例えばイランでは、『シャルリー・エブド』誌の風刺画に対抗して、ホロコーストに関連した風刺画のコンテストが開催されている。

この問題の背景には、表現の自由や世俗主義の優位というリベラリズムの規範と、偶像崇拝の禁止やイスラム法の優位を解くイスラム的な規範の対立が横たわっている。また、信仰や人種を問わない平等を求める規範と、表現の自由を認める規範という、リベラリズム内の規範が対立しているとも言える。

ポリティカル・コレクトネスは、こうした規範の衝突に対して具体的に踏み込むことはしない。

あくまでポリティカル・コレクトネス的に言えば、「イスラム教を揶揄・侮蔑するような表現はおこなうべきではない」というだけであり、どちらの規範が優先されるべきか(あるいは正統性を持つのか)という立ち入った議論はおこなわれない。

以上の点を考えても、やはりポリティカル・コレクトネスが規範そのものではなく、対立する「規範の調停」として役割を担っていることが分かるだろう。

非理念性

ここで改めて、ポリティカル・コレクトネスは「何ではないか」という問いに立ち戻ろう。

まずポリティカル・コレクトネスは、規範それ自体を検討する役割を持っていないからこそ、むしろ綺麗事とは対極的な存在であるといえる。なぜなら、それは理念を語るのではなく、現実に起こりうる対立に蓋をするだけだからだ。

綺麗事は政治的理念であると前述したが、ポリティカル・コレクトネスはある規範の優位を指摘したり、その規範の実現を要求しないという意味において、まったくもって非理念的な手続きである。

「政治的」調停

またポリティカル・コレクトネスは規範を調停するものの、その調停は平等な理念に基づいておこなわれるわけではない。

興味深いことに、「イスラム教を侮蔑するべきではない」というポリティカル・コレクトネスの重みとは対象的に、ホロコーストを風刺するような表現は、例えばドイツであれば明確に罰せられる。

規範の衝突に対して、常に厳密な査定を加えるわけではなく、社会的・政治的な文脈・風潮に則った上で判断を下すことが、ポリティカル・コレクトネスの特徴であると言える。

同義反復となってしまうが、この意味でポリティカル・コレクトネスは、常に「政治的な」存在なのだ。だからこそ、ホロコーストに関連するポリティカル・コレクトネスは、ドイツとアメリカ、あるいは日本でそれぞれ異なる運用がされている。もしそれが理念であるならば、国によって制限される振る舞いや罰則はそれほど変わらないはずだ。(例えば、戦争や殺人をおこなってはいけないという理念は、国を超えて共有されている)

社会的公正や正義が、常に普遍的な理論として要求されるのに対して、ポリティカル・コレクトネスは国や時代、あるいは言論状況によって異なる適用方法が許容されている

各々の功利的な振る舞いが、個人や国家、あるいは時代によって異なることを考えれば、「規範の調停」として功利主義的な観点から正当化されるポリティカル・コレクトネスは、その空間や時間の文脈に沿って存在しているはずである。

ポリティカル・コレクトネスが、「コレクトネス」ではなく「政治的なコレクトネス」であることは、まさにそれが正義(=規範)とは異なることを示している。

ポリティカル・コレクトネスの課題

規範を調停するものというポリティカル・コレクトネスの性質が明らかになれば、自ずとその課題も見えてくる。

ポリティカル・コレクトネスは、大きく3つの課題に直面していると言える。

(1)議論の隠蔽

1つは、ポリティカル・コレクトネスに関連する様々な議論を隠蔽する可能性である。

例えばクリス・マーティンによる「イデオロギーは社会学の知見をいかに妨げたか」(原文)などで挙げられているように、「人間の道徳心や倫理観に、人種的な差はない」というポリティカル・コレクトネス的な教えに、社会科学は時として真っ向から挑戦することがある。

しかしこうした挑戦をおこなうことは、アカデミックな場であったとしても大いに勇気がいることで、しばしば誤解した批判を受けやすい。「人間の道徳心や倫理性に、人種的な差はない」というポリティカル・コレクトネス的な命題に、科学の正当な手続きをもって疑いを投げかけることは認められているものの、それは大いなる茨の道へとつながっている。

規範によって議論にフタをすることは、社会の運用を考えれば合理的な側面もある。しかしそれは、真理を探求するアカデミックな場にまで波及するべきではない。

社会的なコストを考えれば、不適切な手続きや非科学的な論理から生まれる差別的主張に対して、ひとつひとつ答えることは非効率である。

しかしそのことは、「真理を探求する如何なるアプローチですら封じるべき」という主張とは異なる。ポリティカル・コレクトネスの運用を誤った時、わたしたちの社会は、科学的な思索ですら困難になってしまうだろう。

(2)言論・表現の自由との抵触

もう1つは、議論の隠蔽と深く関係しているが、ポリティカル・コレクトネスは時に、リベラリズムが重視する表現の自由と強く抵触する。イランで開催されたようなホロコースト関連の風刺画コンテストをドイツでおこなうことは、まず不可能だろう。

どこまでが風刺であり、どこからがホロコーストの否認であるかを線引することは容易ではないが、ポリティカル・コレクトネスはリベラリズムが掲げる理念を脅かす可能性すらある。

ホロコーストを研究することは、その非倫理性を明らかにすることや、その異常性を糾弾することに限らない。ナチスが何をしたのか?あるいは何をしなかったのか?という事実を明らかにするプロセスで、時として彼らを擁護するように聞こえる説明があるかもしれない。

しかし、それが事実を明らかにしようとする試みである限り、その自由は保証され続けなくてはならない。

その点で、ポリティカル・コレクトネスを「言葉狩り」として非難する人々が、概して差別主義者であるとは言えない

明らかな差別的で、偏見をはらんだ発言・行動ではないものの、そうとも取れる微妙な言動をマイクロアグレッションと呼ぶ。

マイクロアグレッションの被害者が声を上げる権利は保証され続ける必要があるものの、その加害者を大勢の人々が一丸となって叩きのめすような社会が望ましいとは思えない。

ポリティカル・コレクトネスは、リベラリズムの理念との絶妙な関係によって成り立っているからこそ、その運用に最大限の注意が払われなくてはならない。

(3)異議申し立ての困難性

最後の1つもまた「議論の隠蔽」問題と不可分であるが、ポリティカル・コレクトネスの性質を考えれば、それに対する異議申し立ての困難性が見えてくる。

ポリティカル・コレクトネスが規範そのものではなく、その調停に本質があるとすれば、そこには不断の修正が要求されて然るべきだろう。

先程、ポリティカル・コレクトネスは、ある空間や時間の文脈に沿って存在している「政治的なもの」だと述べた。だからこそ、それらは常に修正する要求に開かれている。

しかし同時に、ポリティカル・コレクトネスが持っている合意を修正するためには、膨大なコストがかかる。

社会的コストを考えて、個別の議論や審議をなるべく避けようとして生まれたポリティカル・コレクトネスであるからこそ、その修正に多大な労力を生むことは想像に難くない。

この異議申し立ての困難性は、ポリティカル・コレクトネスがうまく機能していることの証明ではあるが、それは同時に、ポリティカル・コレクトネスがあたかも教義のように扱われる危険性を引き寄せている。

「ポリコレ疲れ」はなぜ起こるのか?

ここまでポリティカル・コレクトネスの性質と、その課題を考えてきたが、明らかになった一連の特徴は「ポリコレ疲れ」という現象への仮説を提示する。

その仮説とは、しばしばポリティカル・コレクトネスが1つの規範として理解されているものの、実際にはそれが「規範の調停」であるというイメージと実態の差異が、「ポリコレ疲れ」を生み出しているというものだ。

すでに述べた通り、たとえば国家の一員としてのアイデンティティを重視する人々にとって、多文化主義に制限が伴うことは当然である。左派は多文化主義を主張し、右派は単一国家の一員としてのアイデンティティを主張するが、この際にポリティカル・コレクトネスを規範そのものとして扱ってしまえば、議論は混乱に陥ってしまう。

実際には、多文化主義を実現するためのルールとしてポリティカル・コレクトネスは存在しており、様々な文化的背景を持つ人々を単一国家に統合する上でも、そのルールは欠かせない。この意味において、「規範の調停」としてのポリティカル・コレクトネスが威力を発揮するが、このことに気づかなければ議論は平行線を辿ってしまう。

ポリティカル・コレクトネスの必要性を訴える人が、その「規範の調停」という性質を強調できないまま1つの規範のように主張してしまうならば、そこに対して反論が投げかけられることで、相手を差別主義者として認識してしまう。

一方で、多文化主義がもたらす弊害を主張したい人であっても、ポリティカル・コレクトネスというルールから逸脱していることだけを理由なしに指摘され続ければ、それが息苦しい規範であるかのように錯覚してしまうだろう。

これは左派が、ポリティカル・コレクトネスをあたかも1つの規範のように扱っていることが原因であるとも言えるし、その矛盾に気付かないままに右派が批判を繰り返しているからだけだとも言える。

いずれにしても、このポリティカル・コレクトネスへの誤った理解が「ポリコレ疲れ」を生み出し、その運用の失敗によってますますポリティカル・コレクトネスへの誤った理解が引き起こされるという悪循環につながっているといえる。

「ポリコレ疲れ」と向き合う

ではわたしたちは、「ポリコレ疲れ」とどのように向き合えば良いのだろうか?

まず問題はポリティカル・コレクトネスそのものではなく、その運用にあると言うことだ。

ポリティカル・コレクトネスは、規範自体の是非を議論するのではなく、あくまでも表現・言説的な調停によって合意を図るだけであり、決して教義のように絶対的なものでなければ、ましてやリベラリズムのみが有する特権ではない。

むしろそれは、社会的なコストを考えてつくられた暫定的・政治的なものであり、適切に運用されることで初めて価値を持つ。

「ポリコレ疲れ」を差別の正当化に使うことは許されないが、少なくともポリティカル・コレクトネスを運用していく上で、我々は2つの責務を持つのではないだろうか。

1つは、こうしたポリティカル・コレクトネスの本来的な役割や性質を積極的に伝えていくことであり、もう1つは、もしそれでも人々が息苦しさを感じるようであれば、ポリティカル・コレクトネスの運用に何かしらの問題が生じているのではないか?と疑うことだ。

ドナルド・トランプの勝利やBrexitについてはまだまだ十分な分析が出ているとは言えないが、経済格差などを起因としたエリート主義への嫌悪を主張する人も少なくない。

こうした因果関係が事実であろうがなかろうが、もしポリティカル・コレクトネスの役割や性質を十分に伝えないまま、そこから逸脱した人々を「差別主義者」と糾弾し続けてしまっては、社会の分断は避けられないだろう。

リベラリズムの限界

加えて「ポリコレ疲れ」という現象は、リベラリズムの苦しい状況を示唆しているようにも思える。すでに述べたように、ポリティカル・コレクトネス自体はリベラリズム的な理念というよりも、功利主義的な性質を有している。

にもかかわらず、ポリティカル・コレクトネスの運用がリベラリズムに押し付けられているとすれば、そこには問題がある。保守主義者であろうが、リバタリアンであろうが、ポリティカル・コレクトネスの運用は、等しく社会において担っている役割のはずだからだ。

これは、リベラリズムが誤って理解されているともに、リベラリストがその厄介な運用を一手に引き受けようという、無謀な試みであるとも言える。

リベラリズムの主張が届いておらず、ポリティカル・コレクトネスですらリベラリズムの範疇だと考えられている現状、そしてこうした現状認識がエリート主義への反発や社会的分断を引き起こしているのだとすれば、リベラリズムはふたたび社会における立ち位置を見直す必要があるだろう。

冒頭に紹介した「トランプ勝利はポリコレ疲れ」という声は、少なくともネットにおいて無視できないほどに市民権を得ているように思える。

こうした主張に対して、「ポリティカル・コレクトネスを理解しない人々は無知な差別主義者」という応答しかできないのであれば、ポリティカル・コレクトネスが適切な運用される社会は程遠いだろうし、本来的な意味を超えて「ポリコレ疲れ」という現象が現実のものになってしまうかもしれない。

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✍🏻 著者
編集長
1989年東京都生まれ。2015年、起業した会社を東証一部上場企業に売却後、2020年に本誌立ち上げ。早稲田大学政治学研究科 修士課程修了(政治学)。日テレ系『スッキリ』月曜日コメンテーターの他、Abema TV『ABEMAヒルズ』、現代ビジネス、TBS系『サンデー・ジャポン』などでもニュース解説をおこなう。関心領域は、メディアや政治思想、近代東アジア、テクノロジー時代の倫理と政治など。わかりやすいニュース解説者として好評。
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