フェミニズムとは何か?:なぜ女性の権利ばかりが主張されるのか

公開日 2019年05月05日 18:12,

更新日 2022年09月15日 10:53,

無料記事 / ジェンダー

わたしたちは、フェミニズムの時代に生きている。

フェミニズムを時代性やブームのように捉えることに異論はあるかもしれないが、#MeTooムーブメントや韓国の書籍『82年生まれ、キム・ジヨン』のベストセラー、今年の東京大学入学式で上野千鶴子氏がおこなった祝辞が話題を集めたことなど、世界中でかつて無いほどフェミニズムへの関心が高まっているのは間違いない。

しかし、ある概念・言説が”よく知られていること”は、必ずしも”よく理解されていること”と同義ではない。フェミニズムも例外ではないどころか、これほど誤解され、単語が独り歩きしているケースは珍しいかもしれない。

そこで今回は、フェミニズムとは何か?というシンプルでありながら、難しい問いに応えていく。

フェミニズムについて専門的な理解を深めるためには、優れた研究者による概説書を読むことが最も適切であり、効果的である。しかしフェミニズムに関する混合玉石な言説がネットに飛び交っている現在、手軽にアクセスできる叩き台が存在するに越したことはない。

そのため本論は、フェミニズムの概説的な説明ではなく、直接的な疑問に立ち入っていく。とはいえ、前半部では概略的な説明が必要となるため、下記の直接的な疑問について関心がある場合は、「理論としてのフェミニズム」という見出しから読みはじめてほしい。

本論が応えていくのは、

「フェミニズムが、女性の権利を擁護してきた運動であることはわかった。でも法的な男女平等は、ほとんど実現しているじゃないか。もちろんセクハラは大きな問題だ。でもそれは、一部の問題ある男性の仕業で、男性だからという理由から自分たちまで石を投げられるのは間違っている。フェミニストたちは、いま何をしたいんだ?男女の対立を煽るだけじゃないか」

という疑問だ。もっと直接的に言うならば、

なぜいま、女性の権利ばかりが主張されるのか?

という、ネットでしばしば見かけられる疑問だ。

また冒頭に1つ付け加えるならば、インターネットにおけるフェミニズムを擁護する記事の中には、的はずれなものも多い。本記事は決して通り一遍のフェミニズム擁護をおこなうわけではなく、むしろ”純粋な社会構築主義”のような立場には反対であり、男女差についての科学的な見解やエビデンスを積極的に擁護するべきだと考えている。

一体、フェミニズムとは何なのだろうか。

「フェミ」とフェミニズム

ポリティカル・コレクトネスと並んで、フェミニズムは藁人形論法の標的にされやすい。フェミニズムについて非難する人や擁護する人、居心地の悪さを感じる人、なにか一言物申したい人まで、多くは理解が曖昧なまま語ることを余儀なくされている。

ネットのスラングで「フェミ」と呼称される場合、それは否定的なニュアンスで用いられるが、多くがフェミニズムへの誤った理解・一面的な知識のまま、実態の伴わない「フェミニズム」に批判を向けていると言っても過言ではないだろう。それはロクサーヌ・ゲイが、

フェミニストと呼ばれたとき、私の耳に聞こえていたのは、「おまえは怒りっぽい、セックス嫌いの、男嫌いの、被害者意識でいっぱいの気取り屋」だという声。

と表現するような、ステレオタイプに近いかもしれない。

今回、ネットにおける「フェミ」言説には触れないが、そうした言説が生まれる背景の1つとして、フェミニズムへの無理解があることは間違いない。人々を混乱させ、怒りと困惑を招き、そして時には断絶すら生む。良くも悪くも、それがフェミニズムだと理解している人は少なくない。

運動か、理論か、ムーブメントか

フェミニズムの理解が難しい要因として、それが運動であるか、理論・思想であるかが分かりづらい点が挙げられる。

例えば、批判者が「フェミ界隈は〜」と言った場合、フェミニズム概念そのものを批判しているのか、フェミニズムに基づいた考え方を主張したり、運動によってフェミニズムに関する諸概念を広めようとする人々を批判しているのかは、おそらく当人も無自覚である。

フェミニストとは女性の権利を擁護する人なのだろうか?それとも「完全なる男女平等」を目指す人々なのだろうか?セクシャル・ハラスメントに声を上げる人々なのだろうか?

もし、彼ら/彼女らが「完全なる男女平等」のようなものを実現したいのであれば、その理論的根拠はどこにあるのだろうか?理論的根拠がないのであれば、フェミニストはハラスメントに抗議する運動家なのだろうか?

運動としてのフェミニズム

フェミニズムが、歴史的に運動からはじまったことは間違いない。

18世紀にフランスで人権宣言が掲げられた時、女性の存在は完全に抜け落ちていた。メアリー・ウルストンクラフト『女性の権利の擁護』や、オランプ・ド・グージュ『女性および女性市民の権利宣言』など、女性の権利を擁護する思想はこの頃から萌芽を見せたものの、大きな潮流にまでは至らなかった。

メアリー・ウルストンクラフト

19世紀に入ると、第一波フェミニズムと呼ばれる動きが生まれる。アメリカなどで奴隷解放運動に携わった女性たちが、女性の参政権や財産権を求める運動をはじめたことで運動が広まっていった。1893年のニュージーランドで、世界初となる国政選挙における女性参政権が実現するなど、この動きは少しずつ成果を結んでいく。

第二次世界大戦によって女性の権利を求める動きは足踏みを余儀なくされ、再びその流れが第二波フェミニズムとして広がりはじめたのは1960年代だった。

シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、戦後すぐに出版した著作『第二の性』において、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という著名な文句によって、「女」という概念が社会的に構築されたものであることを主張した。またケイト・ミレットは、その著作『性の植民地』において「個人的なことは政治的なこと」という有名な言葉を表した。

個人的なことは政治的なこと

このスローガンは、第一波フェミニズムなどを通じて、少しずつ法的な男女平等が成し遂げられてきた一方、人々の意識や慣習が不平等を温存・再生産させているという鋭い指摘を投げかけ、フェミニズムの議論に新たな地平を切り開いた。

これまで個人や家庭の問題だとされていた家事労働や育児、女性の就業環境、「女らしさ」といった概念こそが、問題の根源にあることが明らかにされたことで、わたしたちの社会にある様々なジェンダー不平等が問題化され始めた。

その後、フェミニズムに関する運動や理論は幅広い展開を迎える。ラディカル・フェミニズムやマルクス主義フェミニズム、リベラル・フェミニズムなど様々な理論が生まれ、運動の主張・形態も多様化していく。同時に1980-90年代にかけて、フェミニズムは「バックラッシュ」と呼ばれる反動運動を経験していく。(日本では2000年代前半と言われる)

80-90年にかけてのフェミニズムの動向が第三波、そして現在が第四波フェミニズムと呼ばれることはあるものの、具体的な時期や運動の特徴について、統一した見解はない。いずれにしても、19世紀からはじまったフェミニズムの波は、ソーシャルメディアの興隆などを通じて、新たな展開を迎えている。

古い議論の焼き直し?

運動の歴史を見ていくと、第一波フェミニズムが参政権を中心とした基本的人権に関わる権利擁護の運動であったのに対して、第二波フェミニズムはジェンダーとしての「女性」概念を問い直すことで、女性が押し付けられてきた役割や抑圧された構造を批判的に明らかにする運動であった。

そこから気づくのは、現在ネットで展開されるフェミニズム批判の多くが、第二波フェミニズムなど過去に乗り越えられてきた議論であることだ。第二波フェミニズム以降の議論は、人種や社会階級において多様化した「女性」の存在や、LGBTなどセクシャリティの問題などへと向かっていく。そのため、セクシズムやジェンダー差別に関する異議申し立ては、それ自体が目新しい議論ではない。

言わば、#MeTooムーブメントは決して新しい問題を持ち出しているのではなく、”相変わらず”女性の権利擁護を展開している。”相変わらず”というのは否定的なニュアンスに聞こえるかもしれないが、差別やセクシズムを無くす運動は、未だ道半ばにあることを意味している。

1つの運動が50年以上も続いている事実は、意外に思えるかもしれない。そのことが人々に困惑と驚きを呼び起こしているのかもしれないし、「フェミニストは、女性の権利を擁護する以上の何かを達成しようとしてるのではないか」と感じる人が出てくる理由になっているのかもしれない。

誤解を恐れずに言うならば、フェミニズムは100年前と変わらず女性の権利擁護を目指した運動だ。その運動は男性の権利侵害を目指しているわけでもなければ、生物学的な性差をなんとしてでも乗り越えた世界を実現しようとしているわけではない。

理論としてのフェミニズム

では、フェミニズムという運動が一貫して女性の権利擁護を目指しているのであれば、なぜこれほど賛否両論が吹き荒れているのだろうか?

その理由として筆者は、多くの人々がフェミニズムを運動として捉えており、その理論的な側面について十分な理解が広がっていないからだと考える。冒頭の問いについて、改めて確認してみよう。

Q.「フェミニズムが、女性の権利を擁護してきた運動であることはわかった。でも法的な男女平等は、かなり実現しているじゃないか。もちろんセクハラは大きな問題だ。でもそれは、一部の問題ある男性の仕業で、男性だからという理由で自分たちまで石を投げられるのは間違っている。フェミニストたちは、いま何をしたいんだ?男女の対立を煽るだけじゃないか」

フェミニズムの理論は様々であり、全てを取り上げることはできない。

そこで、筆者が関心を持つ政治哲学およびリベラリズムという思想に軸足を置きながら、理論としてのフェミニズムを見ていくことで、上記の問題に応えていこう。

自由と平等という価値観

わたしたちが生きる社会は、自由と平等を基本的な価値観としている。現代の政治哲学者が考える問題のほとんどは、自由と平等が、どうやって万人に保証されるかに関わっており、プラトンやアリストテレス、ジャン=ジャック・ルソーに至るまで、あらゆる哲学者がそのことを模索してきた

フランス革命や市民革命を経て、わたしたちの社会は、王侯貴族であれ一般市民であれ「1人を1人としてカウントする=身分や地位によって身体や生命に重み付けをしない」というアイデアを獲得した。この「基本的人権」と呼ばれるコンセプトは、平等・自由に関するアイデアの1つの到達点だと言える。

「基本的人権」というコンセプトが生まれてから、哲学者たちはどのようにそれを万人に適用できる制度・ルールがつくれるか、また、そうした社会を実現するにはどのような条件が必要かを検討してきた。

ロールズ『正義論』の登場

なかでも、20世紀以降の政治哲学において、最も大きな貢献を果たしたのがジョン・ロールズという政治哲学者による『正義論』である。

ロールズは、個人が「善」と呼ばれる多様な生き方・価値観を追求するべきだと考えると同時に、ただしそれらは中立的な「正(正義)」によって制約を受けると考えた。いわゆる「善に対する正の優越」だ。少し専門的な話になるが、なるべく簡潔に「善」と「正」について見ていこう。

「善」とは

「善」と聞くと、なんとなく「道徳的に優れている」というイメージを持つかもしれないが、そうではない。児玉聡は、以下のように説明する。

たとえば、あるプロ野球選手が大リーグに行くことを決めたとする。その場合、彼にとっては、大リーグに行かずにプロ野球選手として一生を過ごすよりは、成功するにせよしないにせよ大リーグで自分の力を試す人生の方が優れていると考えたからそうするのであって、大リーグで活躍する人生が道徳的に優れた人生だと考えたからではないだろう。

また児玉は自身のサイトで、以下のように説明する。

各人はそれぞれが善き生について自分なりの意見を持っている。(略)つまり各人の人生設計のことである。 哲学者として冥想して生きていこうとか、 バクチで身を立てようとか、 安全な人生を歩むために公務員になろうとか、等々。

自由主義社会においては、善の構想の複数性(多元性)を認め、 政府は「これぞ最高の善の構想です。これを目指して生きなさい」 というような押しつけはしてはならないと考えられている。 すなわち、各人は、他人の自由を侵害しないかぎり、 自分の善の構想を追求することが許されている。

つまり、ここで言う「善」とは、各々にとって理想の生き方や幸福、人生の目的などを定めて、それを自由に追求することに近い。「金持ちになりたい」という善を追求する人もいれば、「田舎でのんびり暮らしたい」という善を追求する人もいるだろうし、「道徳的により良い人になりたい」という善を追求する人もいるかもしれない。

「正義」とは

各々がこうした「善」を追求する社会は素晴らしい。しかし、そこには問題がある。たとえば、「金持ちになりたい」という善を構想する人が、他人を欺いたり蹴落とすことで、その「善」を追求したら問題だろう。また、裕福な家庭に生まれたA氏と、貧しい家庭に生まれたB氏が各々の「善」を追求した結果、とてつもない大きな格差が生まれたらどうだろうか。

こうした問題を避けるために、ロールズは「正義」という概念を導入する。これは2つの原理(「正義の二原理」)から成り立っている。

  1. 様々な自由について、できるだけ平等に享受できること
  2. 社会的・経済的な格差は、できる限り最小化されていること

つまり、各々は自由に「善」を追求することができるが、その結果として誰かの自由が侵害されたり、経済的な格差が広がることは許されないのだ。

たとえば現在の社会において、「金持ちになりたい」という善を追求することは、至極まっとうな要求だ。しかしその結果として、格差が著しく拡大すれば、ロールズ的にはある程度の是正が求められるだろう。

こうした考え方は、現代において自由と平等を考える上で、重要な出発点となっている。しかし、『正義論』はフェミニズムの立場から批判も集めてきた。

フェミニズムからの批判

その批判とは、ロールズが想定する「正義にかなった社会」は、「自律した」成人男性のみを想定しており、家族内部における不公正や、女性や子供、老人などの存在が忘れられているというものだ。この「自律」は「自立」と異なり、自らの自発的な意思によって他人から制限を受けずに行動・思考することを指す。

ロールズは「自律した個人」であれば、各々の「善」を自由に追求することができると想定する。しかし本当にそうだろうか?

たとえば先程、「プロ野球選手が大リーグに行く」という例が挙げられた。この男性は、自らの「善」を追求しているが、その妻はどうだろうか?

夫が大リーガーになるのであれば、妻は喜んで一緒に渡米すると思うかもしれない。しかしそれは全くもってステレオタイプ的な見方だ。実際に、2021年に米大統領に就任したジョー・バイデンの妻は、ノーザン・ヴァージニア・コミュニティ・カレッジで教員の仕事を続けることとなっている。「夫の仕事に付き従うのが当たり前」という考えは、女性の「善」の追求を無視している。

しかし現実世界では、まだまだ女性が夫の仕事を優先して育児をしたり、仕事をセーブするケースは多い。あるいは、介護によって仕事の制限を受ける女性もいる。もちろんそれが必ずしも女性ばかりとは限らないが、少なくとも男女の間で不均衡は見られるだろう。彼女たちは「自律した個人」である前に、様々な制約からそれを阻まれている。

「自律した個人」像?

加えて、この問題はなにも夫婦間に限らない。

たとえば、障害をもつ人はどうだろうか?子どもはどうだろうか?介護を必要とする人はどうだろうか?それらをケアする人はどうだろうか?すべての人が幼少期と終末期、そして時には病床期などケアが必要になる時期を経験することを考えれば、人生のうち「自律した個人」である期間はどれほどあるのだろうか?

すなわち、ロールズが構想する「正義にかなった社会」を構成する「自律した個人」など、ほとんど存在しないのだ。

ところが、ロールズはこの問題にほとんど踏み込んでいない。

これほど重要な問題であり、一般社会に存在する普遍的な光景について、ロールズは無意識に「健康な成年男性ばかりの社会」を想定することで忘却していたのだろうか?これは専門的な議論になるため、詳しくは踏み込まないが、少なくともフェミニズムから投げかけられた批判は、大きなインパクトを持っていた。

もう1度確認しておこう。

前述したように、わたしたちが生きる社会は、自由と平等を基本的な価値観としている。その前提とされているのは、男女に限らず「自律した個人」像だ。誰かの自由を侵害したり、社会・経済的な著しい格差が生まれない限り、彼らは各々の「善」を追求することが許される。

しかし、ここに大きな疑義が投げかけられたのだ。もしわたしたちが「自律した個人」ではなく、誰かからのケアを必要としたり、誰かをケアしなくてはならない存在であるなら、ロールズが構想する「正義にかなった社会」には、そもそも無理があるのではないだろうか?

実際、ロールズは家庭内に「正義の二原理」を適用することに消極的だ。「正義の二原理」では社会的・経済的不平等の是正が求められるにもかかわらず、家庭内での問題は放置したままで良いのだろうか?ロールズが家庭内の問題に立ち入らない理由は幾つか存在するものの、フェミニズムは総じてその立場に批判的だ。(この議論を深く知りたい人は「近代的公私二元論」や「ケアの倫理」といったキーワードを抑えておくのが良いだろう)

確かなことは、自由で平等な社会という100年以上前から続く理念は、いまだ理論的にも不完全なのだ。

疑問への答え

ここで、先程あげた疑問の前半部に立ち戻ってみよう。

Q. 「フェミニズムが、女性の権利を擁護してきた運動であることはわかった。でも法的な男女平等は、かなり実現しているじゃないか。・・・」

たしかに法的な男女平等は、参政権や財産権が保証されていなかった時代に比べれば、かなりの程度まで達成された。しかしながら、法律が未だ想定しえない領域において、人々の平等な自由に疑問符がつく状況は存在している。

「自律した個人」が平等に自由競争をおこなった結果、ある程度の経済的な報酬が異なるならば問題ない。しかし、夫婦の間でも自らの「善」を追求できる夫と、何らかの制約を課される妻という違いが生まれている。彼らは2人とも「仕事で成功したい」とか「より良いキャリアを手に入れたい」という「善」を追求したいと思っていたが、子供が生まれたことで片方の「善」の追求に制限が生まれるかもしれない。

「仕事の成功」を生涯賃金とした場合、片方の生涯賃金を1として、制約を課された方の生涯賃金が0.5に下がったならば、片方が得るはずだった生涯賃金はどのように補填されるべきだろうか。

この夫婦は自由意志で結婚を選んだのだから、片方が補填するのは当然であるように見えるが、本当にそうだろうか?

またこの夫婦(仮にA, Bとする)と独身者(C)を比べればどうだろうか。たとえばBが制約を課されたことで生涯賃金が0.5になり、AとBがそれぞれを世帯所得として平等に分け合った場合、以下のような状況が生まれるとする。

  A B C
生涯賃金 1 0.5  1 
AとBが平等に
分け合った場合
0.75 0.75  1 

 

Cは結果的に、AとBよりも高い生涯賃金を得ることが出来た。育児労働の負担が少ないことで、こうした経済的報酬のちがいが生まれることは、どこまで許容されるのだろうか?

日本は少子高齢化が社会問題となっているため、AとBには国から何かしらの手当てが配られるかもしれない。これに対して、Cは不公正だと怒るのだろうか?

疑問は尽きないが、先ほどの疑問が持つ確からしさは大きく揺らいできた。

一連の議論は、第二波フェミニズムがおこなってきたように、社会的なジェンダーとしての「女性」が負わされてきた不公正であるものの、同時に男女間の平等な自由に疑問がつくという意味で、第一波フェミニズムが扱ったような根本的な問題ですらある。100年以上が経過しても、ここに答えが出ていないことに驚きを感じる。

後半部分も見ていこう。

Q. 「・・・もちろんセクハラは大きな問題だ。でもそれは、一部の問題ある男性の仕業で、男性だからという理由から自分たちまで石を投げられるのは間違っている。フェミニストたちは、いま何をしたいんだ?男女の対立を煽るだけじゃないか」」

理論的な問題を見てきたように、これは男女間の対立ではなく、個人の平等に関する問題である。セクハラやジェンダー差別という根源的な問題も広く残っているが、同時にわたしたち全体の問題なのだ。

(そうした人は存在しないだろうが)差別意識を持っていないと自認する人々であれ、セクハラをしたことがないと考えている人であれ、平等の問題から逃れられる人はいない。我々が「自律した個人」ではない限り、現状の社会は本当に自由で平等なものなのだろうか?

フェミニズムが掲げるアジェンダに、いまのところ共感できていない人は、これを「女性の権利擁護」ではなく、「"自律していない個人"の権利を考える議論」と読み替えてみてはどうだろうか?

自分が「自律していない個人」になる時、それは誰かの「善」の追求を制限しているかもしれない。逆に、身近な人が「自律していない個人」になる時、あなたの「善」の追求は制限されるかもしれない

フェミニズムは、女性が押し付けられてきた役割や抑圧された構造を批判的に明らかにしてきた。女性たちは、様々な理由によって「善」の追求を制限されてきたのだそれは構造的な問題だからこそ、見えづらい問題となっている。

しかし誰もが「自律していない個人」であるならば、いつどこで誰かの「善」の追求を制限することがあるかもしれない。このように考えると、決してフェミニズムは(それに共感しない人にとっても)他者の思想ではないだろう。

セクハラや女性への差別・偏見が跋扈するなか、こうした説明をすることは批判や誤解を招くかもしれない。しかし個人的には、フェミニズムの理論的側面を理解することが、自分自身にも大きく関わる思想だと理解する重要な契機となった。

男女平等は達成されたのか

フェミニズムを「自律していない個人」に関する問題と捉えることは、フェミニズムが突きつける根源的な問いを鮮明化させるために有効だと筆者は考える。しかし同時に、それはフェミニズムが運動として目指してきた、女性の権利獲得という大きな主題をぼかす危険性も持っている。

そこで最後に、ここまで無批判に使ってきた「法的な男女平等」という言葉や、「なぜいま、女性の権利ばかりが主張されるのか」という表現について、改めて考えてみよう。

「女」という概念が社会的に構築されたものとするボーヴォワールの主張は既に紹介したが、ジェンダーとしての男女と、生物学的な区分としての男女に違いがあることは重要である。生物的な男女差を研究する科学的・統計的な問題と、社会的に構築されたジェンダーの問題は区別する必要がある。

2005年、ハーバード大学の学長を務めていたローレンス・サマーズが、STEM(科学・技術・工学・数学)の突出した研究者に男性が多い原因について触れた発言が問題視され、学長辞任に至った。サマーズは、STEMの優秀な研究者に女性が少ないことについて、「男性に比べて女性が劣っているからだ」という紋切り型のセクシズム発言をおこなったわけではない。

むしろサマーズは、突出した女性研究者が少ない要因の仮説として女性の社会的・教育的な不利を挙げている。その上で、他の仮説としてSTEM研究に関わる能力の男女差において、男性の方が正規分布のバラツキが多いため、男性側に突出した能力を持つ研究者が出てきやすい可能性を指摘している。

平均的な知能として男性が高いという主張ではなく、男性の方が得意・不得意のバラツキが大きいという研究に注目しているため、これを差別的と言うのは非常に微妙だと思われるが、いずれにしてもサマーズの発言は本質主義的、そして差別的だと大きな批判を集めた。

本質主義と社会構築主義

本質主義とは、男女の間に生物学的・心理的な差異が本質的に存在するという立場であり、対義語として社会構築主義があり、ボーヴォワールの主張はまさに後者の考え方である。本質主義は、フェミニズムの立場から批判されることも多いが、実際には生物学的な男女差は存在している。

たとえば、身体的差異や男女のホルモン、生殖機能の違いは、生物学的なオスとメスを決定づけている。そのため、本質主義や構築主義について考える時、それがジェンダーについて述べているのか、生物学的な男女差について議論しているのかに注意する必要がある。

サマーズ発言には本質主義的であると受け取られる要素はあるが、同時に社会的・教育的な不利を挙げており、それは社会構築主義的な見方である。例えば、「女性は数学を学ばなくても良い」という規範を幼い頃から教育された結果、その女性が数学を不得意とするならば、生来的能力の反映ではなく社会的な規範によって構築された結果であると言える。STEM分野の突出した女性研究者が少ない理由に、男女の生物学的な違いが影響しているかはわからないが、社会的なジェンダー観が女性研究者の道を阻んでいることは確かだろう。

この前提を踏まえて、重要なことは2つある。1つは生物学的な男女差を無視したり、それによって導かれる科学的事実を歪めたりすることは間違っている。生物学的な男女差は存在しており、フェミニズムは生物学的な男女差を無くす運動ではない。

もう1つは、ある男女差が生物学的なものか、社会的に構築されたものかを見分けることは非常に難しいということだ。

例えば、STEM分野の成績において、男性の方が正規分布のバラツキが多い場合、男性の生物学的な特徴を表しているのだろうか?例えば、「女性は数学など学ばなくとも良い」という規範を教えられた女性が多い結果、突出した能力を持つ女性が生まれづらい社会環境が生まれているならば、それは社会のジェンダー間によって構築された結果である。

これらを考えると、男女間に本質的な差があるのか?すべての性差は社会的に構築されたものに過ぎないのか?という二分法は不適切であることがわかる。問題は、どこまでが生物学的な男女差であり、どこからが社会的に構築された差異なのか、という点なのだ。おそらく、本質主義と社会構築主義はグラデーションのように存在している。

両者の区分がグラデーションであるならば、「男女平等が達成された」と言うことが難しい理由も明らかだろう。これまで成人Aと成人Bの例を出してきたが、例に漏れず2人の生涯賃金差について、法的には男女の間に賃金差を設けることは許されていないが、実質的に子育てを担わされることが多い女性の賃金が低いのは、明らかに不公正である。男女の賃金差が、生物学的な男女差ではなく社会的な構造やジェンダー観にもとづいて生まれているのであれば、それはあきらかに平等の理念から外れている。

女性には子育て以外にも、職場での活躍や昇進に多くの見えない壁があると言われる。所謂「ガラスの天井」として知られる現象だが、総体的に男性よりも女性のほうが、社会的に構築されたジェンダー観によって不利を被っていることに多くの人が同意している。上の世代や慣習によって不公正を強いられるならば、法的な男女平等が達成されたとしても、問題は継承されたどころか、その所在が見えづらくなったという意味で厄介である。

運動としてのフェミニズムが目指してきた女性の権利獲得は、十分に達成されたわけではないことは強調されるべきである。

まとめ

フェミニズムとは何か?という問題に一言で答えることはできない。その複雑性や理論化出来ない多様な問題群こそが、フェミニズムの本質だと述べる論者も多い。

しかし敢えて単純化して言うならば、筆者は自由と平等に関する諸問題の1つだと考える。そして諸問題の中でも、リベラリズムにとって根源的な問いを突きつけるとともに、その理論的な危うさに対して真っ向から疑問を投げかけるクリティカルな存在だとすら考える。

もちろん現代の政治哲学において、フェミニズムやケアの倫理から批判を受けた正義論は洗練された修正を経ているし、近年復権を果たしつつある功利主義からも、フェミニズムと関連して論じられる興味深い議論も多い。

しかし重要なことは、フェミニズムが投げかけている問題は、決してある業界のある個人がおこなったセクハラの問題だけでなく、現代社会に生きる市民が向き合う自由と平等に関わる問題なのである。

わたしたちは、さまざまなアイデンティティを有している。あたかも自分が、健康で経済的・社会的にも自律した立場の人間であると仮定して、議論を進めてしまうことは多いが、「自律した個人」である瞬間は決して当たり前ではない。貧困や病気といった個人の状態、社会的なジェンダー、そして様々な権力関係の網目の中で、個人のアイデンティティは常に揺らぎにさらされている。だからこそ、自分が「自律した個人」であると確信を持つ人間にこそ、フェミニズムの重要性は色褪せていない。

「なぜ女性の権利ばかりが主張されるのか」というミスリーディングなタイトルを付与してしまったが、むしろ本記事を通じて、そうした問いが全くもって的外れだということが明らかになっただろう。

フェミニズムとはなにか?

それは、女性の権利擁護を目指す運動に限らず、わたしたちの権利擁護のための理論と実践なのである。

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この記事の特集

女性の権利を考える

✍🏻 著者
編集長
1989年東京都生まれ。2015年、起業した会社を東証一部上場企業に売却後、2020年に本誌立ち上げ。早稲田大学政治学研究科 修士課程修了(政治学)。日テレ系『スッキリ』月曜日コメンテーターの他、Abema TV『ABEMAヒルズ』、現代ビジネス、TBS系『サンデー・ジャポン』などでもニュース解説をおこなう。関心領域は、メディアや政治思想、近代東アジア、テクノロジー時代の倫理と政治など。わかりやすいニュース解説者として好評。
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