2020年12月15日、選択的夫婦別姓制度の導入をめぐる議論が大きく後退する旨が報じられた。
政府が策定する第5次男女共同参画基本計画の最終案から、「選択的夫婦別姓(氏)」の文言が削除されるなど、言及がトーンダウンする見通しとなったためだ。朝日新聞の報道によると、自民党内の保守系議員の反発が根強かったという。
選択的夫婦別姓導入の議論は、2020年9月の菅義偉首相の就任後から活発化した。菅首相はかつて選択的夫婦別姓を推進する立場で議員活動をしており、国会でその点を指摘された際にも、「政治家として申し上げてきたことには責任がある」と発言するなど、議論に前向きな姿勢を見せてきた。
伝統的な家族観を重視する立場を堅持していた安倍晋三前首相は、選択的夫婦別姓の導入にも慎重な立場で、7年8ヶ月の長期政権下で具体的な議論は進まなかった。そのため、自民党内でも保守層の反対が強かったが、近ごろは推進派が勢いを増しつつあった。2020年10月に早稲田大学と市民団体が合同でおこなった調査でも、全国で7割以上が選択的夫婦別姓について「賛成」と回答するなど、世論の後押しもあり、選択的夫婦別姓の導入への機運が急速に熱を帯びてきていた。
しかし、今回の会合では反対派が大きく巻き返した形だ。最終案の了承後、慎重派の高市早苗議員は、基本計画について「5年間内閣を拘束するもの」だと指摘。「最高裁で違憲判決が出たら、これは有無を言わさず内閣も変えないといけない」としながらも、議論の長期化を示唆した。菅首相も、11日のインターネット動画中継サイトの番組で「なかなか難しい。党内で大激論のため、まず国民の様々な意見に耳を傾けながら対応する」と語るなどトーンダウンしている。
紛糾した議論が続く選択的夫婦別姓制度だが、そもそも日本において、夫婦別姓にまつわる議論はどのような経緯をたどってきたのだろうか?
夫婦別姓制度をめぐる歴史
日本における夫婦の姓にまつわる制度の成り立ちを見るにあたって、戸籍制度は切っても切り離せない。
保守派議員が「加えさせた」第5次男女共同参画基本計画案の改定案の記述中にも、「戸籍制度と一体となった夫婦同氏制度の歴史を踏まえ」という文言がある。これは明治以降の近代戸籍制度が、夫婦同姓の原則を持つ現行法にも影響を与えていることを示している。
しかし歴史を踏まえるのであれば、日本は慣習的に夫婦別姓であった期間のほうが長い。夫婦同姓が制度化された時期は1898年(明治31年)であり、近代以降の話だ。そして、夫婦同姓の制度化は、当時の政府が目指す身分登録システムに基づいておこなわれた経緯がある。
そのシステムとはどのようなもので、当時の明治政府はどのような意図でその実現を目指したのだろうか?
この問いに答えるため、まずは姓と戸籍にまつわる歴史、なかでも「明治民法」が制定される過程で生まれた夫婦間の姓の扱いに関する議論を概観していく。
1875年:戸籍制度の確立と苗字の強制
そもそも姓を全国民が名乗るようになったのは、1875年(明治8年)以降のことだ。
江戸時代には、武士や庄屋・名主など、特別な地位にある人物に特権として苗字(当時は「氏」や「姓」ではなく「苗字」という表現を使用していた)を名乗ることが認められ、庶民は苗字の公称を禁止されていた。
しかし明治政府は1875年、
- 苗字を必ず名乗ること
- 苗字がない場合には新たに設けること
を指示する布告を出し、全国民に苗字を強制するようになった。
苗字強制のねらい
苗字の強制に先立って、明治政府は1872年より戸籍法を施行し、日本初となる全国民を対象とした戸籍制度を用意していた。これは、施行年の干支から壬申戸籍(じんしんこせき)と呼ばれる。
その背景にあるのは、明治政府による国民統治の意図である。古くは律令の時代から庚午年籍(こうごねんじゃく)などがあったように、戸籍制度は為政者による支配の手段として用いられ、壬申戸籍も国民の現況を把握することで統治の安定化を目的としていた。
当時の明治政府は、欧米列強に肩を並べる近代国家の建設を目標としていた。そのために富国強兵に努め、維新の三大改革として、教育制度では学制、兵制では徴兵令、税制では地租改正を進めていた。これらの改革実現に向けて、明治政府は国民の名前や住所、年齢、家族構成、職業、資産などを把握する必要があった。
そして、こうしたデータにもとづき国民を統一的に管理するため、同じ戸=家に所属するものには同じ姓を名乗らせる(同戸同姓の原則)ことが求められたのである。
1876年:夫婦別姓の採用
ただし、同戸同姓の原則を基本としながらも、夫婦の姓については別姓が指示された。これは1876年(明治9年)の太政官指令によるもので、妻に対して「所生ノ氏」(生家の姓)を用いるべし」と記されている。
ここで夫婦別姓制が指示された理由は、夫婦同姓が日本の慣習”ではないから”だ。太政官が指令するにあたり参考にした法制局議案には、「今急に制度を変えて妻にも夫の姓を名乗らせるようにすると、これまでの慣習と異なり混乱を生じることになるので、生家の姓を称するのがいい」と記載されている。
すなわち法制局は、日本の慣習として妻は生家の姓を名乗ることが一般的だと認識していることが分かる。
現在の選択的夫婦別姓の議論でも、夫婦同姓を擁護する根拠として「伝統」が挙げられることが多い。しかし、明治期よりも以前には「夫婦別姓こそが伝統」と認識されていたのだ。
江戸時代からの慣習
実際、江戸時代は慣習として夫婦別姓が用いられていた。男子の家督跡取を産むという名目の元で、本妻の他に側室を置くことが一般的であった武士社会では、子を産む女性の地位にも区別を設けることが当然で、苗字はその女性の出所・血統を示すために使われていたからだ。このように、女子の氏も父系の氏を受け継ぐという慣習は、平安時代に定着したとされる。
また、武士以外の地位にある庶民が、苗字の公称を許可されて使用したり、苗字を勝手に私称して共同体内での通称として使うこともあった。社会的な活動を認められていない妻にとって、苗字は基本的に無縁のものであったが、名乗る場合は夫婦別姓、または夫との関係から「〇〇女房△△」「〇〇内儀△△」とすることが多かった。
では、なぜ伝統的に夫婦別姓が用いられていた日本で、明治期以降に夫婦同姓が制度化されていったのだろうか?