President Barack Obama awards the 2010 Presidential Medal of Freedom to Congressman John Lewis in a ceremony in the East Room of the White House February 15, 2011.(White House, CC BY 3.0

『風と共に去りぬ』とジョン・ルイスから考える、公民権運動とBlack Lives Matterのつながり

公開日 2020年07月27日 08:45,

更新日 2023年09月19日 15:23,

有料記事 / 社会問題・人権

1960年代にキング牧師らと共に公民権運動を率いた「ビッグ6」の1人として知られ、33年間ジョージア州選出の下院議員を務めたジョン・ルイスが、2020年7月17日に膵臓がんで亡くなった

その9日後にあたる26日、第一次大戦中の東京で生まれた女優オリヴィア・デ・ハヴィランドが亡くなった。彼女は映画『風と共に去りぬ』への出演で知られるが、同作は南北戦争下のアトランタを舞台に、アメリカ南部白人の貴族的な文化を描く中で、人種差別問題や奴隷制が描写されている。こうした描写は、Black Lives Matter(以下、BLM)の高まりの中で批判されることとなった。2020年にはアメリカのケーブルテレビ局HBOがスタートした動画配信サービスでは、同作の配信が一時停止され、専門家による解説を加えてようやく配信再開となった。

オリヴィア・デ・ハヴィランド(1945年ごろ)
オリヴィア・デ・ハヴィランド(1945年ごろ)(Silver Screen, Public domain

現代において、なぜ南北戦争時代の奴隷制や人種差別を描いた作品が批判を受けるのだろうか。それは南北戦争後の人種差別への抵抗運動が公民権運動に、そして公民権運動がBLMにつながっているからである。では、これら一連の人種差別への抵抗運動はどのようにつながっているだろうか。

南北戦争後の人種差別政策

『風と共に去りぬ』の題材でもある南北戦争を経て、終戦後の1865年以降に制定された合衆国憲法修正第13条・第14条・第15条によって、奴隷制の廃止や有色人種への公民権・参政権の付与がなされた。多くの企業や地方自治体が6月19日が「ジューンティース」を休日とするなど、南北戦争の終結と奴隷解放は米国にとって重要な意味を持っている。

しかし、その後の南部再建期に連邦政府からの干渉が少なくなったこともあり、アメリカ南部の諸州では、有色人種に対して公共施設や公共交通機関での利用を制限する人種隔離法、通称「ジム・クロウ法」が次々制定されていった。また、1883年の公民権裁判では、私人による人種差別が最高裁で認められる結果となった。加えて、ジム・クロウ法を憲法違反としてニューオリンズでおこなわれた、1896年の「プレッシー対ファーガソン裁判」では、「分離すれども平等Separate but equal」という原理のもと、公共施設における有色人種の分離を認める判決がなされた。これらの結果、南部諸州を中心にアメリカでは人種差別が合法化され、黒人をはじめとする有色人種の公民権が剥奪されることとなった。

その後、1909年の全米黒人地位向上協会/全国有色人種向上協会(NAACP)設立や1910年代以降のアフリカ系アメリカ人の北部への大規模な人口移動など、人種差別に対抗するさまざまな動きがあったものの、依然として人種差別は温存され続けていた。

こうした背景をふまえて、ジョン・ルイスが実際に関わった公民権運動について見ていくことにしたい。

公民権運動とジョン・ルイス

マーガレット・ミッチェルによって『風と共に去りぬ』の原作小説が書かれたのは1936年、映画版はその3年後の1939年に公開された。ジョン・ルイスは、さらに1年後の1940年に南部のアラバマ州で生まれた。『風と共に去りぬ』、そしてルイスの誕生は、まさに南北戦争から続く人種差別とこれに対する抵抗のただなかにあったと言える。『風と共に去りぬ』はベストセラーとなり数々の賞に輝きながら、奴隷制に基づくプランテーションやKKKといった人種差別的な白人の栄華を温存する作品として、今日まで批判を受け続けている。では、同時代に生まれたジョン・ルイスは、こうした状況下でどのように反人種差別運動に関わっていったのだろうか。

小作人の家に生まれたジョン・ルイスは、宗教伝道者を目指すような子どもであり、6歳になるまでほとんど白人と接することなく育った。やがて彼は家族と街に出かけた際に見た、図書館や劇場に設置された有色人種と白人とを分ける看板で、差別に直面することとなった。1955年、ラジオでマーティン・ルーサー・キングJr.の演説を聞いたことをきっかけに、ルイスはランチ・カウンターで白人用のスペースを占拠するシットインやバス停での人種隔離をボイコットするなど、非暴力的な学生運動家として活動をスタートした。1960年代からは学生たちのリーダーとして、1963年のワシントン大行進や1965年のセルマの行進に参加した。ワシントン大行進では最年少の講演者として演説をおこなった。


ワシントン行進のメンバーたち(ジョン・ルイスは右から2番目)(U.S. National Archives and Records Administration, Public domain

また、セルマの行進では「血の日曜日事件」と呼ばれるほど、デモ隊に対する州兵や警察官の凄惨な暴力がおこなわれたが、ルイス自身も棍棒や催涙ガスなどによる暴行を受けて頭蓋骨を骨折する大怪我を負った。

こうした人種差別や暴力に対する抵抗の経験を経て、ルイスは人種平等を支持する財団や地域評議会、有権者教育や登録作業をおこなう団体での仕事をおこなったのち、下院議員への道を進むこととなった。一見すると、彼のキャリアは社会運動の現場を離れたようにも思われるが、ルイスの議員在職中に起こったBLMは、彼が主導的な役割を担った公民権運動とどのように結びつくのだろうか。

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✍🏻 著者
法政大学ほか非常勤講師
早稲田大学文学部卒業後、一橋大学大学院修士課程にて修士号、同大学院博士後期課程で博士号(社会学)を取得。専門は社会調査・ジェンダー研究。
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