なぜ「ホームレスを異文化扱いしてはだめなのか」?

公開日 2020/11/23 20:51,

更新日 2020/11/23 20:57

無料記事 / オピニオン / 編集長より

今月11日、「ホームレスを3年間取材し続けたら、意外な一面にびっくりした」という記事が大きな話題を集めた。記事そのものの問題点に加え、同記事が掲載されたプラットフォームであるcakesから「cakesクリエイターコンテスト2020」優秀賞を受けていることからも、批判を集めた。 1

記事の問題点は、NPO法人もやいの大西連理事長による指摘に丁寧にまとめられている。しかし同時に注目を集めた「ホームレスを異文化扱いしてはだめなのか」という記事では、ホームレス記事を批判する人々に対しての、反論が示されている。

再反論記事の筆者・池澤あやか氏は、インターネットTV番組『ABEMA Prime』においても、「炎上するほどかと思うし、“上から目線だ”という意見についても、どこがそれに当たるのかは分からなかった」と述べた上で、「結局はその話題をタブー化してしまうことに繋がる」と主張している。

池澤氏の主張には問題があると思う一方、こうした議論における典型的な反論であるため、その問題点を整理して考えることに一定の意義があるだろう。

果たして、池澤氏による主張の問題とは何であり、なぜ「ホームレスを異文化扱いすること」は問題なのだろうか

「色んな意見があること」は多様性ではない

まず大前提として、池澤氏は「ポリコレ棒飛び交う中でも、少数派が口を閉じないような多様性は大切だ」と述べているが、ポリティカル・コレクトネスや多様性への理解として不適切だろう。

たしかにインターネットにおいて「ポリコレ棒」と呼ばれる、言葉狩りのような現象があることは事実だが、本来のポリティカル・コレクトネスは「綺麗事」や「正義」でもなく「規範の調停」である。

問題を含んだ主張Aと、それを批判する主張Bが存在した時、Aを擁護することはポリティカル・コレクトネスではない。今回のホームレス記事には、大西氏が主張するように幾つかの問題点が存在している。そのため、その擁護はポリティカル・コレクトネスの範疇外だろう。

多様性という用語についてもミスリードだろう。たとえば、「黒人は暴力的だ」や「女性の能力が低い」という主張は、科学的な議論であっても、非常に慎重に行われる。もし、こうした主張を不用意に行った場合は、社会的に強く批判を浴びるだろうが、これは決して多様性の毀損ではない。

様々な意見の存在は擁護されるが、その言説が問題含みであるならば当然批判を受ける。使い古された言い方だが、言論の自由と他人を攻撃するような言論は、緊張関係にある。池澤氏がホームレス記事を擁護する自由もあるが、そうした主張は危うい一線の上にある。

極論だが、「ホロコーストは存在しなかった」や「慰安婦はいなかった」などの主張をした上で、その批判者に対して「ポリコレ棒で殴ってくる」と述べる自由があったとしても、それが「多様性」の誤用であることは明らかだ。

「過去の蓄積」の尊重

「黒人は暴力的だ」や「女性の能力が低い」のような極端な主張に比べて、「ホームレスを異文化扱いすること」は、多様な言論に含まれるのではないか?という指摘があるかもしれない。

もちろん前者に比べると、後者には議論の余地があるだろう。しかし個人的には、こうした主張であっても慎重にすべきだと考える。なぜなら、多くの議論には「過去の蓄積」が存在するからだ。 ポリティカル・コレクトネスや多様性の議論については、過去に様々な研究が存在している。

なぜある呼び名が問題視されるのか?なぜある表現が批判を浴びるか?といった議論には、大抵理由があり、決して批判者が闇雲に「ポリコレ棒」を振り回しているわけではない。

医療や公衆衛生の専門家のアドバイスよりも、素人が直感的に考えた「コロナは温かい水を飲めば治る」という思いつきを重視する人は少ないだろうが、ポリティカル・コレクトネスや多様性であっても、過去の蓄積(=研究)を尊重することが大事だ。

では、過去の蓄積はなぜ「ホームレスを異文化扱いすること」を問題視しているのだろうか

なぜ「ホームレスを異文化扱いすること」が問題になるのか

まず、池澤氏は

  • わたしは「誰でもホームレス状態に陥りうる」と考えているからこそ、彼らの知見に尊敬の念を抱いているし、知りたいと考えている
  • ホームレスの方々のクリエイティビティがもっと評価されても良く、それは差別意識ではない

と主張している。その是非はさておき、おそらくこの主張は、「ホームレスを異文化扱いすること」の批判者と、かなりの程度すれ違っている。

これはハラスメントについて「自分にはハラスメントの意識はない」と主張する加害者と、ハラスメントが生じる「権力的な構造」を問題視する批判者とのすれ違いに近いものがある。 問題は差別意識がある/ないではなく、その構造的な不正義だ。

ポストコロニアリズム

構造的な不正義に関する過去の蓄積として、ポストコロニアリズムがある。 その古典は、エドワード・サイードによる著書『オリエンタリズム』だ。サイードの言うオリエンタリズムとは、西洋に対しての東洋(オリエント)という単なる地理的な意味合いではなく、西洋人が植民地支配の過程で生み出した、東洋や東洋人に対してのイメージである。

エキゾチック、熱帯林、奔放な女性、非論理的、ロマン、異国趣味・・・など「オリエンタル」なイメージは、今でも我々に残っているかもしれないが、こうした「西洋人によってつくられたイメージ像」が、多くの問題に繋がっていくことをサイードは批判的に検討していく。 乱暴に言えば、こうした非西洋人に対してのイメージが、白人至上主義や優生学の考えへと繋がっていく。またウジェーヌ・ドラクロワが描いた『アルジェの女たち』のような絵画によって、オリエンタリズムのイメージは強化されていく。

西洋人が、東洋人に対するイメージを持つことが、なぜ問題なのだろうか?非論理的や非文明という否定的なイメージならば問題かもしれないが、エキゾチックやロマンは肯定的な意味でも使われるはずだ。

それは、肯定的なイメージであっても否定的なイメージであっても、それらが非西洋社会を「遅れた世界」とみなす見方を強化し、人々や文化をそのイメージに当てはめて理解させ、経済的・文化的など構造的に搾取する大きな原因となったからだ。

ハリウッドとオリエンタリズム

こうしたオリエンタリズムは、ハリウッドにおいて長い歴史を持っている。アジアやアラブ諸国の文化は控えめに言ってごちゃまぜにされ、しばしば不気味な悪役として描かれてきた。こうしたイメージは、西洋社会における「東洋」像を強化する上で十分だった。

たとえばディズニーがテーマパークなどで提示する、楽観的でエキゾチック、ロマンに溢れた世界観は、オリエンタリズムの名残を感じさせるものがある。いまでは「怒りっぽく、野蛮な先住民」が描かれることはなくなったが、「明るく、人当たりのよい先住民」が描かれ、好印象ではあるものの、思慮深さや知性とは距離のあるイメージが付与されている。

映画『ポカホンタス』のように、ネイティブ・アメリカンの女性キャラクターの描写が批判を集めたこともあれば、 映画『アラジン』においては、その野蛮なアラブ人像に批判が集まった。(実写版についてもオリエンタリズムに関連する議論がある)。

それがネガティブなイメージであろうが、ポジティブなものであろうが、オリエンタリズムが歴史的に商品化され、西洋社会にとって都合の良い道具として使われてきた経緯があるからこそ、こうしたイメージには慎重になる必要がある。

ポストコロニアリズムとホームレス問題

オリエンタリズムは、「人々を”中心”と”周縁”に分けて、周縁に追いやられた人にイメージを付与し、その関係性に不平等や非対称性を生み出す」ものとして批判されてきた。つまり西洋社会を”中心”として、非西洋社会を”周縁”とみなすような見方だ。

西洋社会と非西洋社会、白人と非白人、文明と非文明、そして中央と周縁という二項対立的な構造は、近代の価値観として非常に支配的なものとなり、それが人種主義や植民地支配など様々な問題へと繋がっていく。この二項対立は、非西洋世界や非白人を「他者」としてみなし、彼らを差別し、迫害し、時には教育したり、救済する言動へと結びついてきた。

ポストコロニアリズムは、こうした視点への反省的な立場から生まれてきた。

では、なぜポストコロニアリズムの問題が、今回の問題へとつながるのだろうか?

ホームレスの人々の文化を尊重し、彼らの生き方について学ぼうという姿勢は、露骨な差別意識ではないだろうが、オリエンタリズムに向けられてきた批判を想起させるからだ。

西洋人が非西洋人を「他者」とみなした上で、「彼らの文化にも学ぶべきところがある」とする主張は一見すると真っ当なものに見えるが、そこには周縁化と不均衡が存在する

そもそも、中央と周縁は不均衡な関係だ。「彼らにも学ぶべきところがある」という視点は、「基本的にはあまり学ぶ必要のない相手だが」という枕詞が隠れている。他者を差別・迫害するのではなく、教育・救済する理由もここから来ている。どれだけ肯定的な関係であったとしても、非西洋人に知識やリソースを提供するのは、彼らが遅れた非文明的な人々だからである。

また不均衡があると、そもそも異文化理解が難しくなる問題もある。他者を理解するためには

  • 対象者が、観察者の期待に応えるために意図的な振る舞いをしておらず
  • 対象者の言動について、観察者は自身の枠組みに押し込めて理解しておらず
  • その文化が、対象者との接触によって新たなものに変容していない 2

などの条件が必要になるが、人を対象とする限り、そこには解釈や価値判断が入ってくる。

西洋人の期待に答えるために、非西洋人が「非文明国らしい振る舞い」をしたり、彼らの行動を「遅れた野蛮な人々だから」と自らのフレームワークで理解することは、十分な異文化理解に至っているとは言えない。 こうした問題を抱えているからこそ、「ホームレスの人々の文化を尊重し、彼らの生き方について学ぼう」という姿勢がいかに悪意のないものであったとしても、慎重に扱われる必要がある。

サバルタン

今回の問題とポストコロニアリズムを結びつけることは、こじつけのように聞こえるだろうか。

では、今では多くの人々が関心を持つフェミニズムも、ポストコロニアリズムと無関係ではないと言えばどうだろうか? 例えばドラクロワの『アルジェの女たち』は、退廃的で官能的な女性像を描いているが、これはまさにオリエンタリズムと女性に対するステレオタイプ的な見方の2つが組み合わさっている。

「女性らしさ」や「女性ならではの感性」という言い回しに違和感を感じる人は多いだろうが、こうした言葉も「男女を”中心”と”周縁”に分けて、周縁に追いやられた女性にイメージを付与し、その関係性に不平等や非対称性を生み出」している。

「女性ならではの感性」は、肯定的な文脈で使われることもあるが、「女性は非論理的である」ことの裏返しでもある。男性の周縁に位置づけられた女性像に異議申し立てをすることがフェミニズムであれば、ポストコロニアリズムと無関係でないことはよく分かるだろう。

こうした議論を牽引したのは『サバルタンは語ることができるか』で知られるガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクだ。スピヴァクは、周縁の地位に置かれた「サバルタン」のうち、女性が声をあげることの困難性を指摘している。

「サバルタン」の女性たちは、植民地支配の構造の中で声を奪われただけでなく、ジェンダー不平等を通じて、被植民地である自国においても声を奪われている。 スピヴァクは、夫を亡くした妻が、夫を火葬する炎に飛び込み自殺を図るヒンドゥー社会における「寡婦殉死」という制度を例に上げながら、この問題を説明する。植民地の支配者である白人は、「寡婦殉死」を野蛮な女性差別と見なすが、ヒンドゥー社会の男性たちは、女性の意思だと主張する。両者は声を上げて女性の死を議論するが、その時、女性自身の声はかき消されている。

フェミニズムもポストコロニアリズムも、当人に差別意識があるか否かは問題ではない。重要なことは、なぜその構造がうまれているかであり、我々が周縁化や不均衡の構造、すなわち構造的な不正義を再生産していないかを考えることだ。この視点は、今回の問題を考える上でも決定的に重要だろう。

これは、「ホームレスの人たちはサバルタンだ」とか「まるで現代の植民地主義だ」ということが言いたいわけではない。ポストコロニアリズムや構造的な不正義に関する過去の蓄積を忘却したまま、「差別意識はないのに、ホームレスを異文化扱いすることの何が問題なのか?」と無邪気に問うことはできない、ということだ。

なにが問題なのか

ところで、こうした頭でっかちな議論にどのような意味があるのか?と思う人もいるはずだ。

実際に、池澤氏も「たとえ興味本位でもボランティアや話し相手にもなって、それを3年継続していることは批判できるものではありません」と述べており、直感的に「文章に問題はあるのかもしれないが、実際に行動している人が偉い」と思う人もいるだろう。

もちろんそれは事実であり、「著者に、ホームレスの人たちに対する悪意のようなものがあるとは思わない。文体は優しく率直で、3年間も継続して関わっていくなかで書かれた内容であり、ホームレスの人たちとの信頼関係も築かれているのだと思う」と大西氏が指摘する通りだ。

ではなぜ問題点を指摘する必要があるのだろうか。

1つは、生活保護やホームレス、貧困など様々な困窮する立場に置かれた人たちの状況を「異文化」として形容することで、問題の構造そのものを隠蔽するリスクだ。彼らの生活が「知恵」や「アイデア」の宝庫として描写されることで、問題の所在が見えなくなる懸念は大きい。 ホームレスという状態を積極的に選択した人もいるだろうが、多くの場合は選択せざるを得ない状況になったからだ。これは社会問題であり、生き方やライフスタイルの話ではない。

もう1つは、ホームレスの人たちを「他者化」することへの危険性だ。池澤氏は「誰でもホームレス状態に陥りうる」と主張するが、それは事実だ。しかし、もしそうであるならば、我々は彼らの生活を「異文化」として捉えるべきではない。

それは、「尊重すべき他者の文化」ではなく、「我々のなかの誰かが陥っている状態」だ。問題は「彼らから何を学ぶか」ではなく、「なぜ我々自身が、こうした社会を生み出してしまったのか」だろう。”中心”と”周縁”の構造を生み出さないために、こうした表現には注意深くなる必要がある。

最後に、他者の人生や生活をコンテンツ化することの権力性(暴力性)である。基本的には、調査や研究、取材などによって誰かの人生を描いたり、コンテンツにする場合、かなりの慎重さが求められる。なぜなら、対象者の尊厳を傷つけたり、人間関係や生活に危害を生み出すリスクがあるからだ。

たとえば、性犯罪の被害者を研究・取材する時、その対象者が特定されることは二次被害のリスクが考えられるし、取材の過程で忌まわしい記憶が蘇る可能性もある。その研究・取材がいかに社会全体の利益に資するものであったとしても、直接的に被害者を傷つけるリスクは、常に負っているのだ。

また、直接的な被害がなかったとしても、他人の人生や生活を「語ること」そのものに、何かしらの権力性・暴力性は存在する。対象者の意図や記憶とは異なる形で、その人生が再構成されることは、描かれる側を弱者へと追いやる。

そのため、こうした問題を避けるための原理原則は、文化人類学や社会学におけるフィールドワークのガイドラインや研究倫理、あるいはジャーナリズムにおける報道倫理という形で厳しく明文化されている。 ホームレス記事の筆者は、研究者やジャーナリストでもなければ、そのように振る舞う義務があるわけでもない。ホームレスの人たちとの信頼関係が築けていれば、それらは必要ないのかもしれない。

しかし、それでも他者を研究・観察対象にして、彼らを物語ることへの権力性に自覚的になる必要がある。

言葉や表象が問題になるとき

「言葉」や「表象(イメージ)」は、フェミニズムやポストコロニアル理論の問題だ。 例えばフェミニズムでいえば、「萌え絵」や「過剰に性的なフォルムで女性を描くこと」などは、しばしば議論の対象となるになる。東北学院大学の小宮友根准教授が述べるように、それは「女性」に担わされる意味付けが、イラストや写真などによって表現されることの問題があるからだ。

小宮氏によれば、女性が頻繁に容姿評価に晒され、その化粧がマナーとされ、「美人すぎる○○」が話題になることは、「女性の身体は鑑賞の対象」という意味づけにもとづいている。また、職場で来客にお茶を出したりゴミを捨てたりといった「職場内家事」が女性の仕事とされ、「赤ちゃんはママがいいに決まっている」という発言を政治家がおこない、サラダを取り分けることが「女子力」と呼ばれることは、「ケア労働は女性の仕事」という意味づけにもとづいている。

この意味づけをイラストや写真などで再現することの問題点は、さまざまだ。例えばこれらを見た人が「女性の身体は鑑賞の対象だ」という意味づけを刷り込まれ、その意識に基づいたハラスメントをおこなう可能性もある。あるいは、逆に女性自身が「ケア労働は女性の仕事」という意味づけが刷り込まれることによって、夫と家事を分担することに罪悪感を感じるかもしれない。

表象と同じように、言葉(言語)も同様の効果がある。ホームレスの人たちに「異文化」という言葉を与えることで、彼らを他者として捉え、その存在を理解し得ないものとして意味づける人が現れるかもしれない。あるいは、彼らを排除する行政の様子を見て、「文化の衝突だから仕方ない」と感じる人も出てくるかもしれない。 ポスコロ理論がしばしば問題視してきたように、「彼らの文化を守ってあげよう」として、一見それを尊重するような振る舞いを見せつつ、内実は権力関係があることに無自覚なまま、彼らに憐れみの目を向ける人々もいるかもしれない。

こうしたテキストや言葉、そして知識そのものが権力性を持つことは、ミシェル・フーコーなど数多くの論者によって指摘されてきた。 いまやグローバル化の中で「異文化理解」は当たり前のように行われ、その重要性はますます増している。だからこそ、改めて「文化」に対する眼差しが、歴史的に様々な批判を浴びて、数多くの研究の蓄積をもたらしてきた事実を思い起こす必要がある。

こうした過去の蓄積を無視したまま、批判される余地のある言説を披露することは、決して「多様性」ではない。むしろ、多様性とはその蓄積を土台として、他者への理解を深めるため、自らの前提や思い込みを更新していくことだろう。

[脚注]

1. たとえば、「おじさんたちを取材する理由を、過酷な状況でも前向きな彼らに生き物としての強さを感じると綴っていて、ここも興味を惹かれます」など受賞理由が記されている。
2. メアリー・ルイーズ・プラットが著書『帝国のまなざし』で取り上げた「コンタクト・ゾーン」という概念がある。これは、植民地宗主国と被植民国が「接触」することで、文化や言語がぶつかり、混ざり合う空間のことを指す。「コンタクト・ゾーン」では、新たな文化や人々の振る舞いが生まれるため、そこで「発見」した文化を理解したとしても、それは当初の被植民国の文化とは異なるものになっている。

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著者
The HEADLINE編集長。株式会社マイナースタジオを創業後、2015年に東証一部上場企業に売却。早稲田大学政治学研究科修士課程修了(政治学)。関心領域は、メディア論や政治思想など。Twitter : @ishiken_bot
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