Osaka(Ice Tea) , Illustration by The HEADLINE

釜ヶ崎(新今宮)とは何か?木賃宿から日雇い労働者の寄せ場、福祉の町まであいりん地区の歴史

公開日 2021年05月04日 19:57,

更新日 2023年09月19日 19:39,

有料記事 / 社会問題・人権

4月7日、大阪市の「新今宮エリアブランド向上事業」の一環として、ライターのしまだあや氏が電通関西支社から依頼を受けた記事「ティファニーで朝食を。松のやで定食を。」を公開した。しかし本記事は批判を集め、しまだ氏は謝罪記事を公開して、今後の対応を検討中だと明らかにした。

今回問題となったのは、大阪市西成区に位置する通称「釜ヶ崎」と呼ばれるエリアだ。この地域を訪れたしまだ氏は、大衆酒場の男性から奢ってもらったことで、街に「借りを返す」ために、様々な人と出会う様子が描かれる。

記事の問題点については様々な指摘があり、例えば「ホームレスとデートの記事の残酷さ~貧困消費と感動ポルノ~」や「『新今宮のホームレスとデートする』記事は何が問題なのか」などがあるが、そもそも発注者側の行政やPRを請け負った電通側の姿勢こそが問題化される必要があるだろう。

どんな人も排除しない街?

しまだ氏の記事に限らず、今回行政によっておこなわれたPR案件(本事業)は幾つかの問題をはらんでいる。その1つに、本事業により釜ヶ崎という空間が、行政と市民社会、NPOなど民間セクターとの緊張関係の中で存在し続けてきた事実が見えづらくなることが挙げられる。

しまだ氏の記事やウェブメディア「ジモコロ」のPR記事には、新今宮(釜ヶ崎)について「新今宮という街は、『助け合いの街』で、そして、『信じる力が潜む街』だった」や「どんな人も排除しない町」、「多様性と包摂的なまちづくりをとっくにやってた」などの記述がある。これらは一面的には正しいかもしれないが、今回のPR費用の出し手である行政が、歴史的に排除と周縁化を続けてきた経緯を見えづらくする危険性が強い。(*1)

こうした問題を念頭に置きつつ、新今宮(釜ヶ崎)という空間を理解することは決して容易ではない。釜ヶ崎とは、そもそもどのような空間であり、何が議論となっているのだろうか。

(*1)これは水野阿修羅氏ら西成を案内した人々ではなく、メディアや編集側の問題であると考える。メディアとして本空間を扱う場合、特に行政から費用を受けてコンテンツを作る際には、そのことに自覚的になる必要があるだろう。

釜ヶ崎、あいりん地区、西成区

現在、大阪には「釜ヶ崎」という行政区は存在しない。この地域を「あいりん地区」と呼ぶことがあるが、いずれも行政区としては大阪府大阪市にある「西成区」に該当しており、特に同区萩之茶屋の一部をこのように称する。

そもそも釜ヶ崎とは、1922年(大正11年)まで存在していた行政単位であり、大阪府西成郡今宮村に存在していた。その頃には、木賃宿が立ち並び、貧民が暮らすエリアだった。町名変更によって、釜ヶ崎の名前が無くなった後も俗称として残り、現在まで続いている。

またあいりん地区とは、この土地で生じた暴動などによるイメージ低下を受けて、1966年(昭和41年)に大阪府・大阪市・大阪府警の「三者連絡協議会」が、釜ヶ崎に代わって決定した地区の名称だ。行政と報道機関もこの名称を使用することとなり、現在でも「釜ヶ崎」と「あいりん地区」が併記されることもある。

本記事では便宜上「釜ヶ崎」に統一するが、必要や文脈に応じて「あいりん地区」を使用していく。

基本データ

まず釜ヶ崎についての簡単なデータを確認しておこう。前述したように、大阪府大阪市西成区の一部地域をこのように呼ぶが、西成区についての基本データは以下のようになっている。(いずれも令和2年12月末時点、推計)

  • 人口  10万5,586人
  • 65歳以上人口 3万9,995人(37.8%)
  • 世帯  7万2,602世帯
  • 面積  7.37平方キロメートル

下記の地図の中央に位置するのが西成区であり、市の南西部に位置しており、天王寺区や浪速区、阿倍野区などと隣接している。


画像中央に位置するのが西成区(Google Map

前述したように、このうち萩之茶屋1丁目・萩之茶屋2丁目の一部を釜ヶ崎と呼ぶのが一般的だ。萩之茶屋1丁目は、人口3,751人・3,671世帯で、2丁目は人口3,308人・3,279世帯となっており、両者をあわせると7,059人・6,950世帯となる。ただし後述するが、釜ヶ崎には歴史的に日雇い労働者や野宿生活者など流動性の高い生活者が多く、国勢調査で補足できない人が相当数いる。

また生活保護受給者が多く、2019年の平均としては西成区で受給者数は2万5,007人・2万3,159世帯で受給率は23.00%となっている。これは大阪府の保護率の5%程度や全国平均の1.64%を大きく超えており、4人に1人が生活保護を受けている状態だ。

ホームレスの人々も、釜ヶ崎周辺に多く暮らしている。厚生労働省の調査では、全国に3824人のホームレスの人々が確認されているが、大阪府は990人となっており、東京都の864人を上回って全国最多だ。このうち西成区周辺に暮らす人々は多いと考えられており、コロナ禍においても「衛生環境の悪さから医療関係者は深刻化を懸念」している状況だ。

進む再開発

この地域は、繁華街のすぐ側にある。たとえばあべのハルカスまでは車で10分もかからない場所であり、周囲には通天閣や天王寺動物園などが位置する。天王寺駅までは電車で2分ほどだ。


あべのハルカス(Oilstreet, CC BY-SA 3.0

その他にも、星野リゾートや南海電鉄、JR西日本、大阪市高速電気軌道(大阪メトロ)が連携した再開発が進む。釜ヶ崎には、JR大阪環状線と南海電鉄が乗り入れる新今宮駅があるが、その北側には星野リゾートによるホテル「OMO7 大阪新今宮」が予定され、南海電鉄などによる訪日客向け施設「YOLO BASE」もある。2031年春に向けて、駅南側を含む街づくりビジョンが策定される予定だ。

新今宮ワンダーランド

そして、釜ヶ崎および西成区のイメージを転換しようと生まれたのが、今回問題となった大阪市による「新今宮ワンダーランド」という事業だ。新今宮駅を中心とした半径約1キロメートルのエリアを「新今宮」と呼び、「来たらだいたい、なんとかなる。」というキャッチコピーとともに「イメージ向上を図る」プロジェクトを進めている。

同プロジェクトでは釜ヶ崎を「労働福祉の聖地・萩之茶屋」と位置づけて、町の象徴的な存在である、あいりん総合センター(あいりん労働福祉センター)について「半世紀にわたり労働者を支えてきた。建て替え予定なので今のうちに目に焼き付けておこう」と紹介している。

冒頭で述べたように、直接的に批判されたのはしまだ氏の記事であるが、本事業についても批判は根強い。なぜ、釜ヶ崎のイメージ転換を図り、そしてこの場所を観光地として消費することが問題なのだろうか?

釜ヶ崎前史

こうした問題意識から、以下では釜ヶ崎の歴史的位置づけ、および現在までの系譜を概観していく。その歴史を紐解くことは、「どんな人も排除しない町」や「多様性と包摂的なまち」という呼称の問題点、あるいは妥当性を明らかにしていくだろう。一体、釜ヶ崎とはどのような空間なのだろうか?

江戸時代から明治初期まで

現在の大阪市中央区と浪速区にまたがる町名となっている日本橋は、江戸時代には長町(ながまち、名護町とも呼ばれていた)と呼ばれていた。

元々は豊臣秀吉が大坂から堺へ通う便宜のため開発した町とされ、現在の西成区のすぐ北側に隣接する地域だ。江戸時代前期の寛文年間(1661-1673年)には、大坂と和歌山を結ぶ紀州街道の宿場町として栄えると同時に、貧民が集まり木賃宿(きちんやど)が立ち並ぶエリアとしての記録が残っている。

木賃宿とは、最低限の宿代である薪代(木賃)のみで宿泊できる江戸時代の宿を指す。巡礼や遍路、参詣、見物を目的とした旅行者のため街道沿いに立ち並ぶ宿でもあるが、都市の下層民(貧民)が暮らす空間でもあり、江戸から明治期にかけて広がりを見せ、明治期になると「ヤスヤド」や「アンパク」などと呼ばれた


現在の日本橋エリア、西成区のすぐ北側に位置する(Google Map

「江戸期から明治初期まで『貧民窟』として知られていた長町」だったが、「近代化とともに大阪の市街が膨張していく過程で」、「長町の南、かつては町はずれであった『釡ヶ崎』の形成と並行する、あるいは帰着する」と言われる。すなわちドヤ街としての釜ヶ崎の源流は、長町の木賃宿にある

江戸時代から100棟前後の木賃宿が立ち並んでいた長町だったが、その景色は明治10年頃まで変わらなかった。

1880年代(明治初期)

長町に変化が生じたのは、1880年代だった。その1つの契機となったのは、コレラの流行だ。

現在、先進国では稀な病気となったコレラだが、明治期においては世界や日本で幾度となく大流行が繰り返された。神奈川や神戸、長崎など外国人の流入が激しい地域で生じた1877年(明治10年)の流行に端を発して、1882年や1890年には全国で3万人以上の死者、1895年には4万人の死者を記録している。

このうち、大阪でコレラが猛威を奮ったのは1885年頃だった。この年、府内では1818名のコレラ患者死亡(致死率83%)が確認されており、翌年には1万9768名のコレラ患者が確認、うち1万6013名の死亡が確認されている。


当時の内務省衛生局がコレラ関連の記録をまとめた史料『虎列刺病流行紀事』(国立保健医療科学院, , CC BY 4.0

コレラの猛威に対して、明治政府は様々な対策を講じた。検疫や隔離など現代に通じる感染症対策が講じられたが、中でも衛生や感染症に関する民衆への啓蒙が重要だと考えられた。「誤解」や「妄説」を取り除き、同時に「自治衛生」への意識を高めるという、新型コロナ禍における現代の景色を見ているかのような取り組みが進められた。実務レベルでは、警察が中心となり隔離や消毒を実施して、それに対する反発などから各地で「コレラ騒動」が頻発した。

当時の国民には、まだまだ衛生観念は浸透していなかったが、政府レベルでは重要な感染症対策として位置づけられていたのだ。

この衛生観念の成立と、下層民(貧民)が暮らす「不衛生」な長町(日本橋)エリアへの眼差しが合わさり、「日本橋筋の住民=乞食=コレラの媒介」という図式が生まれる。こうして大阪府や警察などの公権力(行政)は、「貧民(貧戸)の大々的な移転計画」を推し進めようとする。

明治中期の下層社会への眼差し

補足をしておくと、明治25年から30年にかけての明治中期は、下層社会への注目が高まった時期でもあった。幸徳秋水『東京の木賃宿』、横山源之助『日本の下層社会』、松原岩五郎『最暗黒の東京』など当時のジャーナリストは、下層社会の実態を次々と良質なルポルタージュとして書き表していった。

世界的に見ても、『クリスマス・キャロル』や『二都物語』の作家チャールズ・ディケンズが描いたロンドンの景色のように、近代化・工業化する街中に、多くの貧民が溢れていることは注目を集めた。下水の汚臭に包まれていたパリは、ナポレオン3世による上下水道の整備などの大改造によって生まれ変わったが、それでも都市の人口増によって貧民も急増していた。

日本と欧州において貧民や下層社会への注目が高まったこの時期、大阪に着目した叙述も存在する。たとえば鈴木梅四郎による「大阪名護町貧民窟視察記」は、1888年に『時事新報』で連載され、コレラ流行にあわせてこの地域の様子を描いている。鈴木が大阪をルポルタージュの対象と選んだのは、流行にともなう長町の移転・取り払いの議論が沸き起こっていたためと推測されており、当時から長町の下層社会に注目が集まっていたことを伺わせる。

釜ヶ崎の誕生

いずれにしても、こうした社会的背景などもあり、貧民が暮らす長町への行政介入が進んでいく

1886年5月、「長屋建築規則」という建築に関する規則が公布され、老朽化した不衛生な建物などが違法となる。この法的根拠を受けて1891年(明治24年)、長町の木賃宿などの家屋が取り払われた。貧民9126人が立ち退かされ、2410戸が取り壊し・改築を命じられる

また1898年には「宿屋取締規則」が定められたことで、大阪市域で木賃宿が禁止される。

最終的に、1903年の第5回内国勧業博覧会が大阪で開催され、長町の「整備」や「改良」という名の行政介入はますます進んでいったと考えられる。内国勧業博覧会とは、明治時代に開催された博覧会で、現在の天王寺公園で開催された。530万人の観覧人を集めたとされ、海外からも出品があつまる盛況ぶりとなった。明治政府や国家の威信をかけた博覧会であるため、老朽化した建物や貧民が集まる長町の体裁が問題視され、行政が対処を進めたことは容易に想像できる。

こうして長町を追いやられた貧民は周囲に流出しはじめ、1900年頃には釜ヶ崎が新たな「貧民窟」として形成されはじめた。一連の長町をめぐる動きは、日本初の「スラムの一掃 = スラム・クリアランス」と言われており、これが釜ヶ崎誕生の契機とみなされている。(*1)冒頭で述べた「行政による排除と周縁化」のプロセスは、釜ヶ崎が誕生した経緯から密接に関わっていたのだ。

(*1)ただし、釜ヶ崎の成立の歴史については不明な点も多い。長町の取り払いにより釜ヶ崎が生まれたという一般認識はあるものの、「具体的な資料はまったく存在して(発見されて)いない」。具体的な出来事を契機とするのではなく、「1900年代の都市政策が複雑にそして時に偶然的に絡み合うなかで創出された」空間だという指摘もある。

ドン底生活

大正から昭和にかけて、長町から貧民を集めた釜ヶ崎は、新たな「貧民窟」となっていく。1918年(大正7年)に出版された大阪毎日新聞社のジャーナリスト、村島帰之による『ドン底生活』はその様子が克明に記録されている。

村島によれば大阪には、貧民14万人と極貧者1万8000人が暮らしており、「富の都」である大阪の反面に「貧」があると指摘する。中でも、北は日本橋筋東1、2丁目から東関屋町から広田夷(ひろたえびす)にかけて、東は下寺町、西は木津北島町西浜、南は飛田から今宮村釜ヶ崎(いずれも当時の呼び名)までが、貧民窟だったと記述される。

またこうした貧民の職業として、靴直し・皮革職・タバコや硝子の職工・屑拾いなどが挙げられている。ただし東側エリアと西側エリアで主要な職業が異なっているとも記され、西側に多く集まる皮革職人は第一次世界大戦などによって需要が高まり、好景気を享受していると記されている。


1925年の釜ヶ崎(釜ヶ崎資料センターより)

また同書には、釜ヶ崎に多くの児童がいたことも記されている。戦後は単身男性が大半を占めるドヤ街として生まれ変わっていく釜ヶ崎だが、戦前には女性や子供が多数確認できた。そのため徳風小学校と有隣小学校という2つの学校が存在しており、これらは株式会社クボタの創業者である久保田権四郎や、サントリーホールディングス株式会社の創業者である鳥井信治郎など、地元の篤志家から支援を受けていた。

新世界や飛田新地

この時期の釜ヶ崎は、隣接エリアの新世界や飛田遊郭が興隆したことも忘れてはならない。

新世界が誕生したのは1912年(明治45年)だ。1903年の第5回内国勧業博覧会で会場として使用された天王寺公園の西側が払い下げられ、大阪の新名所として通天閣とルナパークが誕生した。

「中央に通天閣というエッフェル塔を模したタワーを置き、そこから北半分はパリ風に放射状に道路が延びる商業街区が、南側はルナパークというニューヨークはコニーアイランドの遊園地を模したアメニティーパークが配されて、その周囲を興行街が取り囲む配置」で計画された町は、大きな賑わいを見せて、道頓堀や千日前(現在のなんばグランド花月周辺)に次ぐ繁華街となった。


1920年頃の通天閣(Unknown author, Public domain

飛田新地も、同時期に生まれている。1912年(明治45年)、現在の中央区難波にある妓楼(遊女を置いて客を遊ばせる店)の遊楽館から発生した南の大火が、それまでの花街・難波新地に甚大な被害を与えた。これによって1916年(大正5年)に移転が決まり、現在の飛田新地が誕生する。

その後、飛田新地は日本最大級の遊廓となり最盛期には200軒の妓楼を抱え、戦後には半公認で売春がおこなわれる赤線地域となり、1958年に売春防止法が施行されてからも「料亭での客との自由恋愛」という名目で売春が続けられている。現在では「飛田新地に女を買いに来る釜ヶ崎の人間はほとんどおらず、町として隣り合っていながら、両者は今ではほぼ断絶した関係にある」2つのエリアだが、「最初に飛田側に立地した木賃宿が、その後、電光舎の工場の敷地になかば発展を阻まれるかたちで、街道西側の東入船町に集積していった」というほど密接な関係にあった。

釜ヶ崎の直ぐ側に2つの繁華街・歓楽街が誕生したことで、貧民窟の周囲に多くの人が溢れるようになった。

先進的な社会事業

しかし戦前の釜ヶ崎を語る上で、最も重要なポイントは「当時の大阪市の社会事業は、国が実施する施策よりも先駆的であるとともに、日本におけるもう一つの大都市である東京のそれと比較しても充実したものだった」事実である。

1920年頃の釜ヶ崎には、今宮職業紹介所や今宮宿泊所、今宮保護所などが用意され、現在の民生委員制度のもとになる方面委員制度も大正7(1918)年10月に生まれている。また社会調査も盛んに行われ、大阪市社会部は、1919年から1942年(昭和17年)までの24年間にわたって260冊の「労働調査報告」(後の「大阪市社会部報告」)をまとめあげている。

行政からの十分な予算がなかった今宮保護所は、篤志家からの寄付を受けて設立・運営をおこない、公園や盛場を彷徨して、ベンチや橋の下で夜を過ごす人々を救済していた。こうした施設および事業は、大阪市全域で実施されていたが、いずれも先進的な取り組みとして評価を受けている。

ちなみに当時の背景としては、1918年米騒動などインフレーションによる生活苦が全国的に広がっていたことが挙げられる。詩人・石川啄木が「はたらけど はたらけど猶 わが生活 楽にならざり ぢつと手を見る」と歌い、経済学者・河上肇が『貧乏物語』を表したように、貧困や格差が大きな問題となっていた。

大阪での社会事業の先進性については、方面委員を設立した大阪府知事・林市蔵らの功績はあるものの、全国的な議題として持ち上がっていた背景は大きい。

戦後、ドヤ街としての釜ヶ崎(戦後~1960年)

戦時下の釜ヶ崎については不明なことも多いが、1945年3月13日から断続的に続いた大阪大空襲によってこのエリアも焼け野原になった。その後、釜ヶ崎の歴史は焼け跡へのバラックの乱立から再び動き始めた。

闇市の登場や浮浪・野宿者の徘徊、不法占拠=無断居住など様々な問題を抱えながら、戦後の釜ヶ崎エリアは現在の空間へと繋がっていく。

ドヤ街

釜ヶ崎は「戦後に下宿旅館の町として再出発し、急激な復興を背景に1950年代には全国有数の『ドヤ街』となった」。1945年の敗戦直後はバラックが立ち並んでいたが、1950年から53年に起こった朝鮮戦争の頃には、ドヤが立ち並び始めた。

ドヤとは、宿(ヤド)の逆さ言葉であり、簡易宿泊所が多く立ち並ぶ街をドヤ街と呼ぶ。ここまで見てきたように、戦前の木賃宿の流れをくんで、それが戦後に簡易宿泊所へと形を変えていったのが、ドヤ街としての釜ヶ崎だ。全国的には、東京の山谷、横浜の寿町と並んで、釜ヶ崎が現在でも三大ドヤ街として知られる。

この時期の釜ヶ崎についてデータを提供するのが、1959年におこなわれた西成区釜ヶ崎実態調査だ。この調査を参照する白波瀬達也氏の著書には、以下のような記載がある。

  • 1952年には6897世帯・2万6254人だった人口は、1959年には1万2904世帯・3万5500人に膨張
  • 1959年時点で、男性48.2%・女性51.8%
  • 一方で世帯あたりの人口は3.8人から2.7人に減少、単独世帯が急増
  • 立地条件が良く、他地区のドヤ街を吸収して巨大化
  • 183軒の簡易宿泊所、150軒の簡易アパート
  • 定職を持つ者が4割、定職を持たない労働者が4割、無職が2割

戦後、職を探して多くの人が集まり、ドヤ街として急成長を遂げたことがわかる。一方で、この調査の目的でもあったが、こうした釜ヶ崎の存在が、失業・非行・犯罪・売春・家族崩壊などを誘発するとして問題視され、対策が望まれていた背景もある。

社会事業の断絶

しかしながら、現実的には釜ヶ崎において十分な社会・福祉政策が展開されたわけではなかった。行政施策は戦前期から「断絶」していた(本間、1993)とされ、たとえば1940年の時点で今宮共同宿泊所は廃止されており、今宮保護所は伝染病を理由に、1946年にGHQから閉鎖を命じられていた。

戦前、先進的な取り組みとして評価されていた社会事業は、戦後において停滞するとともに、この空間に集まる人々と行政の緊張関係は高まっていく。それは、繰り返される暴動に象徴される。

第1次釜ヶ崎暴動(1960年代)

1961年(昭和36年)8月、日雇い労働者による暴動事件が起きた。第1次釜ヶ崎暴動、あるいは第1次西成暴動と呼ばれ、以後24回に渡って断続的に釜ヶ崎では暴動が発生していく。

第1次暴動では、タクシーにはねられた被害者について、救急車で適切な処置を受けず、また遺体が即座に収容されなかったことなどから、抗議する声が暴動へと発展した。この暴動は、死者1人の他、警察官の負傷者771人・一般人の負傷者163人・検挙者194人・動員された警察官10万5000人という戦後最大の暴動事件の1つとなった。

暴動の背景には、経済格差や警察からの差別的待遇、劣悪な福祉制度などの行政による対応の問題などが指摘されているが、当時の警察官・松原忍らによる詩集など散文を分析した研究は、以下のような記述を引用している。

福祉施設の改善も必要だが、釜ヶ崎で暴動が起きる原因は、多くの労働者が、権力とか金力とか、暴力などによって虐げられ、人間扱いをされないという不満があるからだ。

戦前の社会事業に比して、5-60年代の釜ヶ崎は福祉や治安、労働などにおける行政の支援・対応は不十分だった。戦後復興の恩恵を受けれない人々の不満・鬱憤が蓄積したまま、釜ヶ崎はドヤ街として拡大を続け、新たな展開を見せていく。

「あいりん地区」の誕生

暴動のもう1つの帰結は、1966年6月15日に「愛隣地区」という名称が生まれたことだ。暴動に危機感を持った大阪府・大阪府警察本部・大阪市は「愛隣対策三者連絡協議会(三者協議会)」を設立して、報道などによって暴動や貧困のイメージが流布した「釜ヶ崎」から「愛隣地区」という呼び名を使うことが決定された。

その後、愛隣はひらがな表記へと変わり、福祉施設の名称などに使用されていく。

人口の急増

劣悪な環境にもかかわらず、当時の釜ヶ崎の人口は急増していた。それは戦後復興からの高度経済成長によって、土木建築、港湾運輸、製造業などにおいて流動的な労働力へのニーズが高まっていたからだ。すなわち、日雇い労働者の流入が急速に進んでいった

前述したとおり、1960年前後には「簡易宿泊所を住まいとするよう釜ヶ崎に囲い込まれた日雇い労働者は、約3万人にも達する」とも言われていた。日雇い労働者や公園や路上で生活する労働者は、国勢調査などの統計から漏れてしまうため、正確な数字を図ることは出来ないが、いくつかの資料によれば6-70年代にかけて、釜ヶ崎エリアには2-3万前後の人々が生活や労働を営んでいたと考えられている。


1964年の東京五輪を見る市民(Project Kei, CC BY-SA 4.0

日本社会全体で見ると、1960年代から1970年代は高度経済成長期とよばれ、1964年の東京オリンピックや1970年の大阪万博などによって経済が急激に成長した。加えて、1961年の農業基本法によって農村の労働力が東京・大阪など都市部へ流失したことで、人口動態にも変化が生じていた。

「『民族大移動』とも形容される都市部への激しい人口流入と、農業から非農業への急激な労働力の移動が同時に生じたところに高度経済成長の1つの特徴がある」とされ、その激しい産業構造の変化ならびに労働移動を支えたのが「職業安定所ならびに学校による調整」だったと指摘される。

すなわち、日本全体で産業および人口動態の変化が生じて、「強力な調整機能を持つ職業安定所ならびに学校」などからこぼれ落ちた労働者が、釜ヶ崎などの空間に集まってきたと考えられる。こうして釜ヶ崎は、バラックが立ち並ぶ空間からドヤ街としての性質を辿り、最終的に「寄せ場」へと変容していく。

寄せ場としての釜ヶ崎(70-80年代)

寄せ場とは、日雇い労働者が集まって労働力が売買される、すなわち仕事が斡旋される場所や地域を指す。戦後すぐから高度成長期まで増加した労働形態であり、以下のように指摘される。

労働者供給業者の労働者の募集は、熟練労働分野では労働者の「つて」を利用し、また熟練労働分野でない場合は、農村を支配する「労働ボス」や木賃宿街(あるいは寄せ場)で労働者を手配する手配師、または新聞広告などを活用してなされた。つまり、農村の「出稼ぎ労働者」や寄せ場の日雇労働者が「社外工」として就労していたのである。

日雇い労働者に依頼するような仕事は、常用労働者が嫌ったり依頼できないような、きつい・汚い・危険の頭文字をとった「3K」の業務内容だ。そのため、土建や港湾運輸、製造、鉱山、雑役などの業務が大半であったが、それらの労働自体も「戦後まもなくは広汎に存在していた」が、技術革新の過程においてより「縁辺」的な地位へと押しやられつつあった


大阪府労働部西成分室前に集まる労働者(釜ヶ崎資料センター

あいりん労働福祉センター

寄せ場としての性格が強くなっていくものの、釜ヶ崎で暴動が繰り返されることで、行政は福祉や労働、そして治安などの対策を迫られた。実際、寄せ場では暴力団を背後においた手配師が仕事を斡旋するケースが多く、中でも山田組という暴力団は、高い斡旋料とともに地域の仕事を牛耳っていた。

そこで大阪市などは、行政による職業紹介や更生相談所など「釜ヶ崎対策」を開始する。暴力団や手配師らを排除するとともに、行政による無料の職業紹介、日雇い労働者への相談・支援をおこなうことで、寄せ場としての釜ヶ崎を公式に方向づけ、治安や福祉などの対策を本格化したのだ。

その代表的な存在が、西成労働福祉センターだ。大阪府労働部西成分室を前身として、第1次釜ヶ崎暴動が起きた1961年(昭和36年)に開設された公益財団法人であり、設立以来「あいりん地域労働者の就労と生活の安定、労働福祉の向上」を目的として、「日雇い労働の就労経路・ 労働条件の明確化を進め、職業紹介と就労に関連した相談や支援を行ってきた」。

同財団は1970年、あいりん労働福祉センターへと事務所を移しているが、現在でもこの建物は地域の象徴的な建物として知られている。(現在は閉鎖、2025年頃に新たな建物に建て替え予定)すなわち、現在の釜ヶ崎を象徴する建物で、本格的な職業紹介がおこなわれはじめたのが70年代初頭なのだ。釜ヶ崎の歴史が江戸時代の長町からはじまるならば、現在の釜ヶ崎は1970年からはじまったと言えるかもしれない。


現在のあいりん労働福祉センター(KENPEI, CC BY-SA 3.0

こうして大阪府・大阪府警察本部・大阪市による三者協議会は、あいりん労働福祉センターや大阪市立愛隣会館、大阪市立中央更生相談所(のちに両者は大阪市立更生相談所へと統合)などを通じて、労働、福祉、治安、そして医療などの対策を進めていく。

人口動態の変化

繰り返しになるが、寄せ場としての釜ヶ崎を方向づけたのは、他でもない行政だ。その結果として、釜ヶ崎の人口動態にも変化が生まれた。前述した1959年の「西成区釜ヶ崎実態調査」では男性48.2%・女性51.8%という数字が示されていたが、寄せ場としての性格が強くなることで、単身男性の割合が増えていく

釜ヶ崎を日雇労働力の供給地に特化した空間へと改造しようとする対策が、政府主導のもとで始動された。じっさい、1960年代までは、まちには貧しいながらも日々の生活を営む家族や女性、子どもの姿があふれかえっていた。しかしながら、1960年代に繰り広げられた対策のなかで家族や子どもは釜ヶ崎から分散させられ、かわりに単身の男性労働者の流入が促進された。

1975年時点の釜ヶ崎の年齢構成別人口推移を見ると、男性70%・女性30%となっており、14歳以下は10%に過ぎなかった。これが1980年になると男性75%・女性25%で、14歳以下は7%となり、1990年には男性85%・女性15%で、14歳以下はわずか2%だ。

また、釜ヶ崎での働き方にも触れておこう。釜ヶ崎における就労形態には、大きく以下の3種類がある。

  • 現金:その日だけの日帰り仕事で、1日の終わりに現金で報酬をもらう形態
  • 契約(飯場):数日間にわたる就労契約を結び、飯場と呼ばれる宿舎で10日間寝泊まりしながら働く形態
  • 直行:日帰り仕事ではあるものの、寄せ場を経由せずに業者と労働者が直接条件を決めて就労する形態で、一定期間働く場合が多い

この時期におこなわれた仕事の大半は、建設関係だ。西成労働福祉センターのデータによれば、60年から68年までは建設・港湾・運輸・製造の多様な仕事が募集されていたが、66年に旧・港湾労働法が施行されてからは、港湾関係の仕事が無くなり、75年以降はほとんど建設関係の仕事となった。

特に1970年の日本万国博覧会(EXPO'70・大阪万博)の前後には、関西圏は建設ラッシュに湧いて、釜ヶ崎の日雇い労働者へのニーズはピークに達した。


1970年に開催された大阪万博のシンボル、太陽の塔(663highland, CC BY-SA 3.0

あいりん労働福祉センターや男性の年長労働者、そして職業紹介という現在の釜ヶ崎の景色が確立されたのは、1970年代なのだ。

繰り返される暴動

しかしながら「三者協議会」が福祉や労働、治安対策などをおこなったからといって、直ちにそれらが機能したわけではない。そのことは、繰り返し起こる暴動からも明らかだ。60年代には8回だった暴動が、70年代には12回に増加している。

中には、新左翼の活動家が暴動を拡大させたものも含まれるが、少なくとも70年代から80年代にかけても労働者と行政の緊張関係は続いていた。こうした緊張関係を象徴するのが、第22次釜ヶ崎暴動だ。これは警察が暴力団から賄賂を受け取っていたことに端を発する暴動で、この暴力団が日雇い労働者からピンハネしていたことも相まって、労働者らの不満が爆発した。

70年代からの「釜ヶ崎対策(のちのあいりん対策)」は、暴力団の排除も目的としていたにもかかわらず、警察が彼らと癒着していたことや、その暴力団からの「条件違反や労働者に対する暴力やリンチが跡を絶たなかった」ことは、釜ヶ崎に暮らす労働者の行政に対する不信感を生み続けた。17年ぶりに起きた暴動は、行政への鬱憤や怒りが爆発したものだったと言える。

バブル崩壊と寄せ場の消失(90-2000年代)

木賃宿からドヤ街、そして寄せ場へと変化してきた釜ヶ崎の性質を再び変えたのが、バブル崩壊だ。日経平均株価は1990年(平成2年)1月から暴落に転じて、平成不況(あるいは失われた30年)が始まった。

終身雇用制度が前提となっていた日本企業にとって、日雇い労働者は究極的な雇用の調整弁であり、不景気の影響は真っ先に釜ヶ崎を直撃した。これにより日雇い労働者は仕事の斡旋を受けることが出来ず、簡易宿泊所の代金を支払うことが出来ないまま、野宿生活を余儀なくされていく。

そのことは、釜ヶ崎を「福祉の町」へと変容させる要因となった。

寄せ場の消失

90年代以降、寄せ場としての釜ヶ崎の機能は失われていく。下記は建設業における日雇い労働者の割合を表しているが、80年には19.0%だったものが、90年には13.2%まで下落して、95年には10.1%と約半分となった。


建設業における日雇い労働者の減少(福原 宏幸「あいりん地域における労働⼒構成の変容と新たな⽀援の模索」より、元データは厚生労働省

この流れは釜ヶ崎にも及んでおり、「1980年代後半から始まった釜ヶ崎における求人数の増大傾向は、1990年にそのピークに達し、1991年から『頭打ち→減少』に転ずる。しかも、いったん減少局面に入ると、その減少の幅はきわめて大きく、1993年度にはその年間求人総数は、1990年度の半数以下の89万人にまで落ち込む」と指摘される。

1995年は阪神淡路大震災に関連する工事によって一次的に増加したものの「1997年度になると、『震災特需』の効果もほぼ完全に消失し、90年代の求人減少基調に復帰する。またその減少のスピードもきわめて急であり、ボトム(と考えられる)の1998年度の求人総数は、1960年代から70年代初頭にかけての時期とほぼ同水準の58万人にまで落ち込んでいる」。

日雇い労働者数や求人数が下落した背景には、工事現場の機械化(省人化)や求人におけるマッチング手段の多様化(フリーペーパーなど)、バブル崩壊後の建築工事数の減少など様々な理由がある。バブル崩壊に限らず、そもそも寄せ場の機能自体が消失していくことで、釜ヶ崎からはますます仕事が奪われていくことになった。

セーフティネットの欠如

雇用が失われていく中、社会のセーフティネットは十分に機能していなかった。それは、全国的な生活保護率の低下に表れている。

1970年代からの被保護世帯数と世帯保護率の推移を見ると、90年代に大きく低下していることが分かる。80年代後半はバブルの影響もあり低下を見せるものの、その流れは90年代後半まで続く。

生活保護については、1980年代に暴力団による不正受給事件がマスコミで取り上げられたことで、当時の厚生省社会局保護課が通知「生活保護の適正実施の推進について」を出して、保護の「適正」化を推進していた。この結果、生活保護の新規申請者の預貯金が厳格にチェックされたり、現場での緊張感が高まっていた。この流れは90年代も続いていき、「1990年代を通じて急増したホームレスも、一因として、こうした福祉事務所の厳しい対応の結果によると考えられる」と言われる

後述するように、釜ヶ崎にはホームレスの人々が増えていくが、彼らに対する生活保護もまた「適正」化の流れによって排除されていく。1997年の林訴訟などにより、住所が定まっていないことや、稼働能力があると見なされるなど不当な理由によって生活保護を受給できない状況が問題視されていくものの、こうした訴訟をおこなわざるを得ないほど、ホームレス状態にある人や日雇い労働者が生活保護を受給するハードルは高かった

そして、釜ヶ崎においてもう1つの大きな問題は、独自の雇用保険制度である「雇用保険日雇労働被保険者手帳」(白手帳)にあった。白手帳とは、「つねに失業と背中合わせの働き方である」日雇い労働者のための失業保険だ。

「給付を受けようとする月の前2か月に合計26日以上の日雇就労を適用事業所で行い、その事業所から日雇労働被保険者手帳に雇用保険印紙の貼付を受けることにより、その数と納付額に応じて1月につき13日~17日分に相当する日雇労働求職者給付金を受けることができる」制度となっている

しかしながら、90年以降に仕事が急減したことで、そもそも仕事をすることが難しくなり、雇用保険の給付条件である「前2か月に合計26日以上の日雇就労」をクリアできない人が急増して、白手帳が意味をなさなくなってしまった

労働条件の悪化

加えて、労働条件が悪化し続けていることも釜ヶ崎が直面した苦境の背景にある。1996年には、「現金」の就労形態でそれぞれ日当が、一般土工1万3488円、型枠大工2万510円、鳶工2万201円だったとされる。しかし2011年になると、一般土工で1万25円まで下がっており、およそ25%の下落だ。鳶工などは、より大きな下落幅だという。

求人数が減るだけでなく、その条件も悪化し続けたことで、もはや日雇い労働で生活していくことは苦しい状態となった。梅雨時期(4-7月)や年末年始には仕事が減少するし、前述の「前2か月に合計26日以上の日雇就労」を確保できなければ、たとえば10日しか仕事がない時期には、日当1万円であればわずか月次10万円の稼ぎにしかならない。

ホームレスの人々の増加

仕事自体が失われ、セーフティーネットが不足する中で、釜ヶ崎にはホームレスの人々(*2)が増加していくことになる。それまで「あいりん地区の日雇労働者の支援を担ってきた労働組合は、賃上げや労働条件の向上を求める従来の労働運動から、高齢日雇労働者の就労保障や野宿者の権利擁護に力点を置くようになった」。しかしながら「大阪市をはじめとする公的セクターの対応は鈍かった」。

そもそも、「ホームレス」という用語と釜ヶ崎は密接な関係がある。1990年代初頭から、大都市を中心としてホームレスの人々が急増しており、各自治体が1999年にまとめたデータなどによれば、東京23区の5800人や神奈川県川崎市の901人、愛知県名古屋市の1019人を上回り、大阪市には8660人が確認されている。

また「ホームレス」問題に関心が高まっていく過程は、「1980年代後半に欧米の『ホームレス』がマスコミを通じて盛んに紹介され、いつのまにかそのまま1990年代に急増する野宿者を『ホームレス』と呼称するにいたる」流れがあったが、新聞やTVなどは度々、釜ヶ崎や山谷(東京都台東区)、寿町(神奈川県横浜市)などを取り上げていた。全国的な「ホームレス」像と釜ヶ崎のイメージは、密接に結びついていたのだ。

こうしたホームレスの人々は、地方からやってきていたと考えられる。地方出身者が都市に仕事を求めて流入していく過程には、

  1. 血縁や地縁に基づいた、縁故によるプライベートな入職経路
  2. 集団就職を典型とした学校や職安を介した就労制度による公的な入職経路
  3. 人夫出し業者の接合点としての出稼ぎの 「労働ボス」や手配師にみられるように、都市と地方をつなぐ人夫出し業者が独自に展開する就労ネットワーク

の3つが指摘されるが、このうち3については「出稼ぎや手配師の斡旋により都市で就業することになり、寄せ場を中心とする都市の不安定労働市場に絡め取られること」になった人々だ。彼らは血縁や地縁などを有していないため、不安定な立場に追いやられやすい。彼らは仕事もなく、故郷に戻ることも出来きず、そして十分なセーフティーネットもなく、ホームレスを選択せざるを得なくなっていく。

(*2)ホームレスという用語には批判がある。ただし本記事では、人口に膾炙する用語として「野宿者」などではなく「ホームレスの人々」を使用する。またホームレスの人々に関連する問題を文脈に応じて「ホームレス問題」と呼ぶこともある。

第23次西成暴動

90年代に釜ヶ崎が直面した問題を象徴するのが、1992年(平成4年)の第23次西成暴動だ。生活の苦境に直面した日雇い労働者が増えたことで、大阪市立更生相談所は「応急援護金」の対象者を広げる。すると申請者が殺到したことで窓口が混乱、そのため対象者を元に戻した。ところが、これに日雇い労働者が猛反発したことで暴動が発生。3日間に渡って、更生相談所などに投石や放火が繰り返された。

この暴動は、釜ヶ崎が寄せ場としての機能を失い、そして「福祉の町」になる上での大きな出来事だった。

「福祉の町」の誕生(2000年代)

2000年代に入ると、こうした状況が徐々に改善されはじめる。その背景には3つの動きがある。

ホームレス自立支援法

1つは、2002年にホームレスの自立の支援等に関する特別措置法(ホームレス自立支援法)が施行されたことだ。同法の成立に伴い、厚生労働省社会・援護局保護課長通知によって「居住地がないことや稼働能力があることのみをもって保護の要件に欠けるものでないことに留意し、生活保護を適正に実施する」ことが確認された。

同法にはいくつかの問題点が指摘されるものの、その成立によってホームレスの人々およびホームレス問題が定義され、その解決に向けた道筋が少しずつ踏み出されたことは一定度の評価を受けている。

釜ヶ崎においても、成立前には日本労働組合総連合会大阪府連合会(連合大阪)などが同法制定を求める声明を出しており、成立後にはNPO釜ヶ崎のまち再生フォーラムが、同法での修正・補強を求める提言を出すなど、高い関心を持たれていた。大阪市も、同法を受けて「大阪市ホームレスの自立の支援等に関する実施計画」を立てるなど、自治体による計画の根拠にもなった。

全国的な動きが、釜ヶ崎の福祉制度を整備する上での重要な前提となったと言える。

釜ヶ崎での施設・制度の整備

もう1つは、ホームレス自立支援法を根拠として、大阪市による具体的な施設や制度的枠組みが定まったことだ。

同市は「野宿生活者が自らの意思で安定した生活を営めるように支援すること」を基本的な考え方として、4つの基本目標を定めている。

  1. 就業機会の確保が最も重要であり、併せて、安定した居住の場所の確保、保健及び医療の確保、生活に関する相談指導等の総合的な自立支援策を推進する。
  2. あいりん地域において、野宿生活にならないための予防と、野宿生活からの自立の支援を兼ね合わせた生活上の支援を行う。
  3. 野宿生活者の自立の支援等に関する施策を推進することにより、公共施設の適正な利用の回復を図る。
  4. 施策の実施にあたっては、基本的人権を尊重して、これをすすめる。

その上で、たとえば無料宿泊が可能な「臨時夜間緊急避難所」や、就労支援を目的とした「ホームレス自立支援センター」などの開設に至っている。

臨時夜間緊急避難所は、2000年に通称・三角公園南側の避難所が開設され、2004年には萩之茶屋:三徳寮横の避難所が開設された。前者は600人、後者は440人の計1100人の利用定員となっており、日々整理券が発行されて、無料で利用できる仕組みとなっている。

各プレハブ2階建ての建物に、2段ベッドやトイレ、シャワー、洗面所などが用意され、午後6時から午前5時まで利用可能な避難所だ。


臨時夜間緊急避難所(釜ヶ崎支援機構 事業概要より)

他にも、相談員が大阪市内を巡回し、生活・健康相談や自立支援センターへの入所勧奨などを実施したり、就労意欲のあるホームレスに宿所と食事を提供し、就労のあっせん等により、就労による自立を支援するなどの事業が進められた。

セーフティネットの多層性

しかし、最も重要なことは「行政の援助は限定的であったため、あいりん地区では社会運動団体やキリスト教系団体など、民間の支援活動が活発に展開した」ことだ。白波瀬達也は、この様々なセーフティーネットを以下の4つに整理する。

  1. あいりん対策によるセーフティネット
  2. キリスト教系団体によるセーフティネット
  3. 社会運動によるセーフティネット
  4. 生活保護を基盤とするセーフティネット

このうち1と4は行政によるセーフティーネットであり、2と3がそれぞれ民間の支援活動に該当する。たとえばキリスト教系団体でいえば救世軍のような伝統的な教派もあるが、「韓国から信者開拓のためにやってきたプロテスタントの教会群」が中心的な存在だ。また社会運動系の団体としては、各種労働組合があるが、彼らの運動の結果として生まれた行政による対策の受け皿となっているNPO法人の釜ヶ崎支援機構の存在感は大きい。(*3)

こうして、寄せ場としての機能を失い、仕事と行き場をなくした日雇い労働者を支援するための制度や施設が少しずつ整い始めたことで、釜ヶ崎は「日雇い労働者が集まる寄せ場」から「単身の高齢男性を中心とする貧困地域」へと変容していき、「福祉の町」へと生まれ変わった

ただし冒頭の話に戻るなら、釜ヶ崎が「どんな人も排除しない、多様性と包摂の町」と言えるかは注意する必要がある。生活保護や民間の支援活動、そして行政による制度・施設などによって、結果として釜ヶ崎が「福祉の町」となったことは事実だが、それは顕在化する問題に対応せざるを得なかったためとも言える。

言い換えれば、理念的に「福祉の町」が生まれたというよりも、釜ヶ崎の現状や全国的な「ホームレス対策」のなかで生まれてきた変化であり、それらは行政訴訟や民間の支援支援がなければ起こり得ない変化だった。後述するが、そのことを忘れたままに行政によるPRの名目に「多様性」や「包摂」が使用されることには、注意する必要がある。

(*3)ちなみに、彼らは「釜ヶ崎資料センター」というサイトを運営しており、本記事でも度々資料を引用しており、釜ヶ崎の歴史と実態を知る上での最良のアーカイブの1つとなっている。

福祉の町に暮らす人々と簡易宿泊所

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✍🏻 著者
編集長 / 早稲田大学招聘講師
1989年東京都生まれ。2015年、起業した会社を東証一部上場企業に売却後、2020年に本誌立ち上げ。早稲田大学政治学研究科 修士課程修了(政治学)。日テレ系『DayDay.』火曜日コメンテーターの他、『スッキリ』(月曜日)、Abema TV『ABEMAヒルズ』、現代ビジネス、TBS系『サンデー・ジャポン』などでもニュース解説。関心領域は、メディアや政治思想、近代東アジアなど。
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