イスラエルとパレスチナはなぜ長年対立しているのか?

公開日 2021年05月26日 17:56,

更新日 2021年05月26日 18:11,

有料記事 / 政治・国際関係

5月20日(現地時間)、10日間に渡って武力衝突が続いていたイスラエルとパレスチナの武装組織ハマスとの間の停戦合意が結ばれた。両国(*1)あわせて250人以上の死者を出しており、米国や欧州などが暴力の停止を呼びかけていたが、最終的にはエジプトの仲介によって停戦が実現した形だ。

そもそも、パレスチナとイスラエルはなぜ長年に渡って争っているのだろうか?

(*1)日本はパレスチナを国として承認しておらず、パレスチナ自治政府と呼んでいるが、便宜上パレスチナとイスラエルについて「両国」と表現する。

中東戦争以前

イスラエルとパレスチナの衝突の歴史は、19世紀まで遡る必要がある。当時のヨーロッパでは、反ユダヤ主義が広がっており、ユダヤ人のための国をパレスチナに建設しようという動き(いわゆるシオニズム)が盛り上がりを見せていた。

19世紀初頭から、ドイツや東欧、ロシア帝国などでユダヤ人虐殺(ポグロム)の嵐が吹き荒れており、ヨーロッパで苦境に晒されるユダヤ人の安息地を探し出すことが最優先であった。そのため必ずしもパレスチナのみが移住先として挙がったわけではなく、ウガンダやアルゼンチン、エジプトなども候補となっていた。

しかし最終的に、イスラエルの都市エルサレムにある歴史的地名「シオン」(*2)以外には、ユダヤ人の故郷たる国は存在しないという主張が大勢を占めて、オスマン帝国の支配下にあったパレスチナが移住先として選ばれた。これは聖書『ゼカリヤ書 8章3節』に以下の記述があることに由来しており、イスラエル独立宣言にも「イスラエルはユダヤ人発祥の地」だと記されている。

主はこう仰せられる。「わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう。エルサレムは真実の町と呼ばれ、万軍の主の山は聖なる山と呼ばれよう。」

(*2)シオン自体はイスラエルやエルサレム全体を指すなど多義的に使われるが、シオンの山はエルサレム旧市街の南西隅にある丘のことを指す。

バルフォア宣言

ユダヤ人のパレスチナ移住について、裏付けを与えたのが英国の外務大臣アーサー・バルフォアによる1917年のバルフォア宣言だ。バルフォアは、英国政府の公式方針としてユダヤ人国家の建設への賛同・支援を約束して、これがシオニズムの政治的根拠の1つとなった。


英・外務大臣アーサー・バルフォア(Wikipedia

しかし英国は、オスマン帝国の配下にあるアラブ人について独立の承認を約束(フサイン=マクマホン協定)しており、フランス・ロシアとはオスマン帝国が崩壊した後の領土分割について、秘密裏に協定(サイクス・ピコ協定)を結んでいたことから、パレスチナの扱いに混乱が生まれた。

日本では英国による「三枚舌外交」として知られており、厳密にはパレスチナの扱いは矛盾をきたさない(*3)という反論もあるものの、少なくとも英国の曖昧な立場がパレスチナ問題に繋がる混乱を生んだ重要な要因であった。

各国の思惑が重なりながらも、オスマン帝国領から英国の支配下に移り変わるパレスチナには、1900年から1920年にかけてユダヤ人が次々と入植する。しかし、この場所には歴史的にアラブ人が居住しており、両者の衝突が生まれていく。

「バルフォア宣言によって、それまでなかった新たな対立の構図が政治制度として生み出される」ことになり、「パレスチナ委任統治という制度における『アラブ対ユダヤ』という新たな『民族』的な対立の創出」に至ったのだ。

(*3)サイクス・ピコ協定では、パレスチナは国際共同管理とされており、バルフォア宣言では非ユダヤ人コミュニティの権利は守られるべきだとされていたため、必ずしも「パレスチナをそのままユダヤ人国家にするべき」とは解釈できないため。

嘆きの壁事件(1929年パレスチナ暴動)

1918年、第一次世界大戦でオスマン帝国が英国やフランス、ロシアなどの連合国に敗北したことで、パレスチナは英国の委任統治領となった。パレスチナに住むアラブ人は、引き続きユダヤ人による定住に危機感を持っていたが、1910年から20年代にかけて数万人規模でユダヤ人が移住してきた。

ユダヤ人の増加は、アラブ人との直接的な衝突を生み出す。両者の初期における大規模な衝突は、1929年の嘆きの壁事件だ。嘆きの壁はユダヤ人にとって重要な宗教的象徴であるが、同時にアラブ人にとってもアル=アクサー・モスクの一部として神聖な空間とみなされていた。

1929年8月、嘆きの壁をめぐって両者の衝突が起き、聖地ヘブロンにおけるユダヤ人虐殺など、双方に100人以上の犠牲者が生まれた。英国の報告書には、直接的には宗教的象徴をめぐる衝突が原因ではあるものの、背景には「ユダヤ人の継続的な移民および土地購入に対するアラブ人の恐怖」があると指摘されている。


嘆きの壁事件で、エルサレムから逃げるユダヤ人(Wikipedia

報告書の記述にあるように、1920年前後のユダヤ人の多くは、土地購入など合法的な方法によって移住していた。しかしヨーロッパで反ユダヤ主義が高まるとともに、何万人もの不法移民が増加したことで、1939年には英国政府によって、ユダヤ人人口をパレスチナ全体の3分の1以下に制限する要請が出された。

パレスチナ独立戦争(パレスチナ・アラブ反乱)

また1936年から39年にはパレスチナ独立戦争が起きたことで、地域が抱える複雑な問題が露呈した。この戦争は、入植するユダヤ人への不満だけでなく、パレスチナを委任統治する英国に対してアラブ人が独立を求めたことに特徴があった。

ユダヤ人が祖国を求めてシオニズムを展開したように、アラブ人もまた西欧の植民地主義やオスマン帝国の支配に対して、アラブ人としてのアイデンティティを高めていった。これは、アラブ民族の連帯を求める汎アラブ主義や民族自決(自民族によって政治的決定をおこない、社会をつくっていく考え方)などに繋がっていく。

この反乱は、5000人のアラブ人が英国軍や警察によって殺害されるなど失敗に終わったが、英国の委任統治が破綻している事実を明らかにした。

英国は1937年、パレスチナの委任統治が事実上不可能であると認識したことから調査委員会(ピール委員会)を設けて、パレスチナについてユダヤ人国家とアラブ人国家、そして英国による統治地域に分割することが提案された。この提案はアラブ側から強く拒絶されたが、パレスチナの分割統治という現在のアイデアの原型が生まれた。

第二次世界大戦

第二次世界大戦下、ナチスドイツによって600万人ものユダヤ人が迫害・虐殺された。

ホロコーストの衝撃は、戦後の国際社会がシオニズムを支持する上で大きな影響を与えた。「ホロコーストの有無にかかわらず、遅かれ早かれユダヤ人国家はパレスチナに現れた」とも言われるが、世論に与えた影響は甚大であった。

またこの時期に、1942年に米国・ニューヨークで開催されたビルトモア会議を通じて、米国とユダヤ人との関係が深まった。一部のシオニスト(シオニズム運動を牽引するユダヤ人)は、パレスチナへのユダヤ人移民に制限を課している英国について、「かつては親シオニスト志向であったが、より中立的に、そして最終的には完全に敵対的」な立場に変化したと考えており、米国への接近が利益になると考えた

こうした思惑は、親イスラエル的な立場を維持する現在の米国の政策へと繋がっていく。

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著者
編集長
1989年東京都生まれ。2015年、起業した会社を東証一部上場企業に売却後、2020年に本誌立ち上げ。早稲田大学政治学研究科 修士課程修了(政治学)。Abema TV『ABEMAヒルズ』、日テレ系『スッキリ』、現代ビジネス、TBS系『サンデー・ジャポン』などでもニュース解説をおこなう。関心領域は、メディアや政治思想、近代東アジア、テクノロジー時代の倫理と政治など。
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