Maternity Photoshoot(Harshit Jain, Unsplash) , Illustration by The HEADLINE

なぜ、日本で無痛分娩は普及していないのか?俳優・生田斗真氏の発言で物議

公開日 2024年05月15日 18:33,

更新日 2024年05月15日 18:33,

有料記事 / 人権

この記事のまとめ
💡生田斗真氏の発言で議論の無痛分娩、なぜ日本で普及していない?

⏩ 現在日本での普及率は約10%
⏩ 日本、明治時代から催眠術による無痛分娩も
⏩ 大正には与謝野晶子も経験、昭和には新興宗教も関心
⏩ 日本の価値観に基づく説明には限界、戦後の政治的要因からの分析も

俳優・生田斗真氏の発言が物議を醸している。2024年5月、同氏は Instagram のストーリーで、「出産こわいよー」という不安を示した質問者に対し、「旦那様に無痛おねだりするか」と答えた。

ここで言う「無痛」とは無痛分娩のことを指しており、麻酔を用いて出産に伴う陣痛の痛みを和らげる方法のことだ。

後述する通り、日本では明治から大正、昭和にかけて無痛分娩の試みが存在してきたが、現在に至るまで、諸外国に比べて無痛分娩が普及していない。日本の分娩全体に占める無痛分娩の割合は、2022年まで 10% を切っており、70-80% を超えるアメリカやフィンランド、フランスなどに比べて低い。

日本で無痛分娩が定着していない理由については、日本人が持つ美徳、すなわち「お腹を痛めてこそ子どもに愛情が湧く」という価値観を原因とする説明が古くからなされてきた。しかし近年、そうした説明の限界が指摘され、政治的な要因からの分析も試みられている。

なぜ、日本では無痛分娩が普及していないのだろうか。

無痛分娩の普及割合

日本における無痛分娩の普及率は、年々増加傾向にある。日本産婦人科医会によれば、総分娩数における無痛分娩の割合は、2018年の 5.2% から2023年には 11.8% に増加している。

とはいえ、これは諸外国、特に欧米諸国に比べれば低い値だ。フィンランドやフランスは 80%、アメリカは 70% を超えており、韓国は 40% 程となっている。


国別の無痛分娩率(日本の数字は日本産婦人科医会「無痛分娩 産科施設の立場から」を参照、日本以外は大原玲子(2019)「無痛分娩普及度の国際比較」『産婦人科の実際』68巻6号をもとに筆者作成)

このように、日本では長らく、麻酔薬によって産痛を緩和しないいわゆる「自然分娩」が主流を占めており、現在もその傾向は変わっていない。

明治・大正期からおこなわれた無痛分娩

しかし日本でも、無痛分娩が全くおこなわれなかったわけではない。たとえば、明治時代には、催眠術を用いた無痛分娩が紹介されている(*1)。1903年、当時の帝國催眠学会長だった哲学博士の山口三之助は、自身の妻を実験台として催眠術による無痛分娩をおこなったとしている(太字は引用者による、以下同様)

(引用者註:山口のこと)は氏(引用者註:産科専門医師のこと)の面前において催眠術を施しました。産婦(引用者註:山口の妻)は直ちに眠り始めて。眠り始めると同時に、苦痛は全く去ってしまいました。(略)催眠術の施術はますます効力を奏して、遂に器械等を用いることなく、無事安穏に分娩を遂げました。(山口三之助「無痛分娩は事實なり 最近催眠術應用の一大進歩」『婦人衛生雑誌』1903年、第百四十六號、16-17頁)(*2)

また大正時代の1916年には、歌人の与謝野晶子が無痛分娩を経験している(*3)。東京の順天堂病院の担当医師は当初、「暗示によって出産させる」考えだったが、最終的には「半麻酔分娩術」が採用された。結果的に、「殆ど苦痛なしの分娩で」子ども(*4)を出産したとされている(『読売新聞』大正5年3月18日、4頁)。

(*1)明治期の無痛分娩の試みについては、奥富俊之(2013)「わが国の薬物を用いた無痛分娩は明治末期には行われていた(第2報)——明治時代中期には無痛分娩としての催眠術も流行?——」『麻酔』62巻、 1380-1384頁に詳しい。
(*2)引用文については、筆者が歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに直し、一部表記を改めた箇所がある。
(*3)与謝野晶子は出産の痛みについて「悪龍となりて苦しみ猪となりて啼かずば人の産みがたきかな」と歌っており、担当医師に「苦痛なしにお産する事は出来ないでせうか」とたずねている。
(*4)記事には「十人目」とあることに加え、与謝野家系図から、この時誕生したのは五男の与謝野健(1916年3月12日生)元住友金属工業株式会社副社長だと推察される。

昭和期にも注目

そして昭和に入ると、1930年に創設された新興宗教・生長の家やその信者らによって、無痛分娩が支持される。ここで言う無痛分娩とは、医療的な施術ではなく、教義に基づく心理療法的な方法を指しており、生長の家は、そもそも産痛などというものは存在しないという教えを展開していた。生長の家の創始者である谷口雅春は、次のように述べている

旧約聖書の「創世記」にはアダムとイブが”禁断の果実”を食してエデンの楽園から追放された時に、神は”女は永久にお産の苦しみを味はつて子供を産まねばならぬ”といふやうに宣告してゐるのである。しかし生長の家では、「人間は神の子であり、本来罪なし。従って神の処罰によってお産の苦しみなどある筈はないお産は病気ではないから痛まない」と説いて、現実に多くの婦人に無痛分娩の悦びを与へてゐるのである。


谷口雅春(『生長の家三拾年史』日本教文社、Public domain

こうした教えを受けた信者たちは、生長の家が説く「神想観」や「信念に依る」無痛分娩に成功した旨の報告を戦前から寄せている(谷口雅春『花嫁読本』光明思想普及会、1939年、297-330頁)。なお、後述する通り、生長の家の影響は戦後にも垣間見られる。

戦後、1947年の第1回参議院選挙で当選した婦人運動家の高良とみも、無痛分娩に大きな関心を寄せていた人物の1人だ。高良は、1952年にソ連を訪れた際、モスクワで無痛分娩を指導している産院を訪れた時の様子を次のように描写している。

出産の生理現象に対して妊婦が協力すれば、無痛分娩は当り前のことだと教え、出産について間違って教え込まれている痛みの苦しみ、不安感を取りのけることに努める。これがパブロフ博士(*5)の考案で実にうまく行つていて、何の注射も促進剤も一切使わない。
(略)
共同室にて、砂時計を枕許の机の上に置き、自分一人で陣痛を経験している産婦の顔は明るく、汗一つ出さずに訪問客にあいさつをする有様には感服した(高良とみ『ソ連・中共 私は見て来た』朝日新聞社、1952年)。


高良とみ(時事世界社「時事世界(昭和28年3月号)」、Public domain

戦後ソ連で発展した心理療法的な無痛分娩(精神予防性無痛分娩法)は中国に広まり、中国から引き揚げた日本人産科医によって日本に輸入された。日本への導入後、日本赤十字社産院の久慈直太郎や菅井正朝らを中心に、各地で無痛分娩が実施されていた(*6)

このような事例がありつつも、前述した通り、日本で無痛分娩が広く普及することはなかった。なぜ、日本では無痛分娩が定着していないのだろうか。

(*5)パブロフの犬で知られ、ノーベル賞を受賞した帝政ロシア時代の生理学者、イワン・パブロフ。
(*6)GHQ 占領下の歴史的背景から、戦後、日本の産科医らがアメリカの産科学に対して大きな反感を抱いていた点については、大西香世(2018)「戦後日本における自然分娩の系譜——GHQ占領下から1970年代までを射程に——」『年報科学・技術・社会』第27巻、1-32頁に、日本における精神予防性無痛分娩法の導入については、藤原聡子・月澤美代子(2014)「精神予防性無痛分娩法の導入と施設分娩における妊婦管理への影響——1953〜64年の日本赤十字本部産院および大森赤十字病院における実践——」『日本医史学雑誌 』第60巻第1号、49-64頁に詳しい。

なぜ、日本では無痛分娩が普及しなかったのか

無痛分娩が日本で普及しなかった理由については、これまで大きく3つの説明がなされており、大きく(1)文化的要因(2)政治的要因(3)環境的要因に基づく説明に分けられる。

1. 文化的要因

1つ目に、文化的要因に基づく説明があげられる。具体的には、日本で固有の出産に対する価値観によって無痛分娩が普及していない、とする主張だ。

この種の説明は、古くから存在する。たとえば、1935年、産科医の小牧久夫は、日本には「産痛に耐えることでもって、むしろ婦人の美徳とする一種の伝統的観念」があるため、無痛分娩法に対する研究や関心が希薄だとしている(小牧久夫「無痛分娩ニ就テ——特ニ「アヴェルチン」Avertin 応用ノ実験成績」『金沢大学十全会雑誌』1935年、第40巻第6号、119-129頁)(*7)

また、石川県立看護大学の吉田和枝教授も、自身の聞き取り調査から同様の指摘をおこなう。たとえば、出産の痛みがよき母親になるための通過儀礼としてポジティブに受容されてきたこと、出産の痛みに耐えることは「よき女性、よき母となれることに繋がる『名誉』」であると考えられてきたという。

しかし、こうした文化的要因による説明は、2つの点で限界を抱えている。1つは、麻酔科医の不足など、無痛分娩の利用可能性といった側面を扱い切れていないこと、もう1つは、同じ文化・宗教圏における無痛分娩の普及率の違いを説明し切れないことだ。

(*7)引用文については、筆者が歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに改めている。

2. 政治的要因

2つ目は、政治的要因に基づく説明だ。具体的には、1980年代、助産婦(*8)たちが「自然な」お産を推進する運動を展開したことで、日本に無痛分娩が定着しなかったと考えられている。

詳細は後述するが、運動の背景にあるのは、戦後の改革に伴う助産婦の役割の変化だ。国立成育医療研究センターの大西香世氏によれば、戦後におこなわれた看護行政改革の結果、医療従事者の地位に変化が生じた。具体的には、産婦人科医の地位が向上した一方、助産婦の地位は周辺化されたという(*9)

その結果、助産婦たちが自らの地位回復を目指すために、産痛を緩和しない「自然な」お産を推進したことで、無痛分娩の普及が進まなかった。この時、日本では無痛分娩が定着しておらず、すでに定着し始めていた諸外国と無痛分娩の普及率に違いが生じた、と大西氏は説明する。

(*8)現在の助産師を指す。以下、当時の時代文脈を反映するため、基本的に助産婦で表記を統一する。
(*9)以下の説明は、大西香世(2012)「麻酔分娩をめぐる政治と制度—なぜ日本では麻酔による無痛分娩の普及が挫折したのか—」『年報 科学・技術・社会』第21巻、1-35頁に大きく依拠している。

産婦人科医の地位向上

戦後、産婦人科医の地位向上の契機となったのは、1948年(当時の首相は芦田均)に全会一致で成立した旧優生保護法(*10)。同法は、主に戦後の人口増加を抑止する目的から生まれたが、その役割の1つが人工妊娠中絶の合法化だった。

これに伴って、人工妊娠中絶は指定された産婦人科医のみがおこなえるようになり、その指定権限が行政ではなく、都道府県医師会に委ねられた。これは、医師会とそれに属する産婦人科医に強い権限が与えられたことを示唆している。

そして、各都道府県の医師会を統一するために、1949年に日本母性保護医協会(以下、日母)(*11)が設立される。日母の設立を主導したのは、優生保護法成立に深く関わった民主自由党の参議院議員・谷口弥三郎だ(*12)。谷口は日母の会長に就任し、副会長の1人には前述した日赤の久慈直太郎も名を連ねた。


谷口弥三郎(Unknown author, Public domain

さらに1950年代、日母が人工妊娠中絶の適否の判断について改定を成し遂げたことで、産婦人科医の役割は一層拡大する。

前述した通り、人工妊娠中絶の手術は指定医のみがおこなえるものの、手術の判断については指定医の判断の他に、地区優生保護委員会による審査制度という方法もあった。日母は経済的な背景から、その判断についても指定医に一本化するよう働きかけ、要望を受けた谷口とともに改定に成功する。

このように、産婦人科医の利益集団とも言える日母は、優生保護法の成立に伴って誕生し、国会議員と協調する形で産婦人科医の役割を拡大させ、その地位の向上に寄与した。

(*10)1996年まで施行されていた法律で、障害などを理由に1万人以上が不妊手術を強制された。GHQ 占領下、アメリカが同法の成立とその過程を歓迎していた背景については Deborah Oakley (1978) “American-Japanese Interaction in the Development of Population Policy in Japan, 1945-52,” Population and Development Review, Vol.4, No.4, pp.617-643 に詳しい。
(*11)現在の公益社団法人日本産婦人科医会。
(*12)このため、日母は、谷口の選挙母体としての役割を果たしていた。

助産婦の周辺化

一方、助産婦の地位は周辺化されていく。契機となったのは、旧優生保護法の成立と同年の1948年に制定された、保健婦助産婦看護婦法だ。同法の目的は、保健婦・助産婦・看護婦を一本化し、助産婦を看護婦の一形態として、それぞれの地位と教育水準を向上させることだった。

しかし実際には、助産婦のできる医療行為が著しく制限された。さらに、戦前とは異なり、開業助産所に産婦人科医の嘱託医の設置が義務付けられた。

また、1960年頃を境に、それまで自宅でおこなわれていた出産が医療施設内で徐々におこなわれ始め、出産は医療の対象となり始める。そのため、特に都市部では産科医の常駐する医院や病院での分娩が行われるようになり、助産婦、とりわけ開業助産婦の役割が失われていった

加えて、特に地方で助産婦が不足したことを受け、前述した日母は、民間の産科看護婦を養成し始める。助産婦の養成には、教育と時間というコストがかかるため、助産婦資格を持たない産科看護婦の存在感が増した。

このように、戦後おこなわれた保健医療の近代化政策の結果、産婦人科医の地位が向上した一方で、助産婦たちの存在感は影をひそめた。

そうした助産婦の地位低下の反動として1980年代に盛んになったのが、「自然な」お産を求める運動だった。これを理解するためには、ラマーズ法と呼ばれる分娩法の導入についておさえておく必要がある。

ラマーズ法の導入

「自然な」お産を求める運動が起きた背景には、フランスからラマーズ法と呼ばれる分娩法(日本では「ヒッ・ヒッ・フー」で知られる呼吸法)が流入したことが関係している。ラマーズ法は、1970年代に女性解放(ウーマン・リブ)運動家であった山田美津子と助産婦の三森孔子によって、「女性が自分の身体を知ること」や「主体的な出産をすること」を目的に導入された。これは、医療の対象となっていた出産を妊産婦の手に取り戻そうとする動きと言える。

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こうした動きはメディアでも取り上げられた。特に、朝日新聞の記者である藤田真一は「お産革命」と題する連載記事を1978年から30回にわたって掲載し、三森らの活動などについて、書籍『お産革命』(1979年、朝日新聞出版)にまとめあげた。藤田の著作では、ラマーズ法を用いた分娩法こそ、「もっとも現代的」で「きれい」で「自然な」お産のあり方だと強調されている。

そして、ラマーズ法は1980年頃から、お産の学校を通じて日本各地に普及する。お産の学校では、有志の助産婦や産科医の協力で定期的に講習会が開催され、妊産婦とそのパートナーに対してラマーズ法や体操などのリラックス方法が指導された。さらに、お産の学校は、助産婦の研修としての機能も果たしていた。

お産の学校を開いた杉山次子は、1980年から1996年の17年間で、約7,000人の男女(女性4,001人、男性2,986人)と400人を超える助産婦に講習会を開いたとしている(杉山次子(1997)「『自然なお産を求めて—産む側からみた日本ラマーズ法小史』の刊行に寄せて」『助産婦』第51巻2号、37頁)。

「自然な」お産を求める運動

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✍🏻 著者
シニアリサーチャー
早稲田大学政治学研究科修士課程修了。関心領域は、政治哲学・西洋政治思想史・倫理学など。
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