岸信介・安倍晋三一族は、韓国や在日朝鮮人とどのように関わってきたのか?

公開日 2023年07月26日 23:10,

更新日 2023年09月14日 19:47,

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この記事のまとめ
安倍元首相の銃撃事件から1年が経過した。統一教会がルーツを持つ韓国は、安倍元首相の祖父である岸信介から、安倍一家と深い関係を有してきた。その歴史を日韓関係の "ねじれ" とともに見ていく。

昨年7月8日、安倍晋三元首相が奈良市内で街頭演説中に銃殺されてから、約1年が経過した。事件を受けて、元首相と旧統一教会の関係に注目が集まり、昨年12月には旧統一教会の被害者救済法案が成立した。

また旧統一教会が韓国にルーツを持つ新興宗教であることから、自民党および保守議員と韓国との歴史的な関係についても、注目が集まっている。

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この文脈において抑えておくべき事実は、安倍晋三元首相の父である安倍晋太郎元官房長官や祖父の岸信介元首相は、日本を代表する在日朝鮮人(*1)コミュニティが存在した山口県・下関を政治的地盤としており、安倍一族と在日朝鮮人の間には、一定の繋がりや支援関係が存在した、という歴史的事実だ。

これは決して「安倍元首相が在日と繋がっていた」や「在日コミュニティは安倍元首相にも影響力」といった陰謀論、人種や民族に関するステレオタイプ、排外主義的な言説を強化したり、扇動するものではない。むしろこうした事実は、両者の関係性や複雑性を明らかにすることで、いわゆる「ネット右翼」や「安倍政権」、「在日」、「保守」などのキーワードをめぐる、単純化された言説に疑義を投げかける。むしろ単純化された排外主義や差別的言説を退け、こうした歴史的背景の複雑性を理解することは、大きな意義を持っているだろう。

果たして、岸信介や安倍晋太郎、そして安倍晋三元首相自身(*2)は、どのように韓国や在日朝鮮人コミュニティと関係を持ってきたのだろうか。そして、旧統一教会はそこにどのように関与していたのだろうか。

(*1)在日朝鮮人については、特別永住者のみを指したり、帰化者や国籍取得者を含めたり、あるいは在日韓国人と区別するなど、その定義は文脈によって異なる。本記事では、植民地統治下の朝鮮半島出身者や南北分断後の韓国および北朝鮮出身者など含め、基本的には「在日朝鮮人」という呼称で統一する。ただし文脈に応じて、使い分けることがある。
(*2)本記事では慣例に従って、没後年が十分経過している岸信介や安倍晋太郎は敬称略、安倍晋三は元首相の敬称を用いることで統一する。

ネット右翼と韓国

一般的にネット右翼と呼ばれる層は、韓国や中国に否定的な感情を持っており、安倍政権を支持する政治的態度があると言われている。

これらはネット上の俗説にとどまらず、実証研究が積み重ねられてきた分野であり、たとえば大阪大学の辻大介准教授によれば、ネット右翼は

  1. 中国と韓国への排外的態度
  2. 保守的・愛国的政治志向の強さ
  3. 政治や社会問題に関するネット上での意見発信・議論への参加

定義される。ネット右翼とオンライン排外主義者はしばしば混同されるが、東京大学社会科学研究所の永吉希久子准教授によれば、両者には以下のような違いがある。

自民党や安倍首相への好感度がネット右翼では高いのに対し、オンライン排外主義者では非ネット排外層よりも低い。また、オンライン排外主義者は、反中国・反韓国を主張する運動への好感度がネット右翼についで高い一方で、反安保運動や立憲民主党など「左派」とされる政党への好感度が非ネット排外層と比べて著しく低いわけではない。(*3)

また成蹊大学の伊藤昌亮教授は、ネット右翼の中にも複数のクラスタが存在することを明らかにして、安倍政権が

  • バックラッシュ保守クラスタ
  • サブカル保守クラスタ
  • ビジネス保守クラスタ

という3つのクラスタから支持を受けた上で、「歴史修正主義、反リベラル市民、反マスメディアという三つのアジェンダがあたかも暗黙的な綱領の一部であるかのように扱われる」ことを指摘する。

つまり、ネット右翼とは反中国・反韓国を主張しつつ、歴史修正主義や反リベラル・反マスコミなどの価値観を共有する、自民党や安倍晋三への好感度が高い層と定義できる。実際、安倍元首相に近いとされる小説家・百田尚樹氏や有本香氏などは、韓国への嫌悪感を繰り返し表明しており、同時に反リベラルや反マスコミといった立場も共有している。

こうしたネット右翼の属性を考えれば、安倍一族と韓国との関係については、いささか意外に思えるかもしれない。

(*3)ちなみに永吉准教授によれば、一般的にネット右翼とは社会経済的地位が低く、社会的に孤立しているイメージが持たれるが、実際には異なる属性であることも明らかにされている。ネット右翼には男性が多いことは通説的なイメージと合致するものの、学歴や雇用形態、所得との関係は弱く、「本人が主観的に自分は不利な地位にいると認識している場合には、ネット右翼やオンライン排外主義者になりやすくなる」という。

安倍晋三の対韓政策

そもそも安倍元首相は、必ずしも一貫して韓国に強硬な姿勢を取り続けてきたわけではない。

第1次安倍政権が成立した2006年、安倍元首相は国外メディアから「修正主義的ナショナリスト」と称され、韓国や中国との歴史認識をめぐる問題がクローズアップされることも多かった。しかし第二次安倍政権の前半期である2015年前後まで、日韓関係は決して暗いものではなかった

むしろ、その前首相であった小泉純一郎氏が靖国神社に参拝したことで悪化した中韓関係を改善するため、就任直後の外遊先には中国と韓国を選び、両国との前向きな関係を約束している。

2015年には慰安婦問題日韓合意が締結、2016年には日韓秘密軍事情報保護協定も結ばれ、両国の関係は改善に向かっていた。外交問題評議会のシニアフェローであるスコット・スナイダー氏は、両国の状況を「イデオロギーおよび政治的懸念よりも、現実的な配慮が優勢になっている」と分析していた。

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しかし2018年、日本海において韓国海軍の駆逐艦が、海上自衛隊のP-1哨戒機に対して火器管制レーダーを照射した問題や、徴用工訴訟をめぐる問題が激化したことから、再び日韓関係は悪化した。安倍元首相も文在寅大統領も(いずれも当時)問題解決のための姿勢を見せていたが、最終的にコロナ禍や安倍元首相の退陣によって「戦後最悪」と称された日韓関係が修復することはなかった。

排外主義の盛り上がり

一方、安倍元首相が、いわゆる「嫌韓」言説に影響力を持っていたことは間違いない。2014年11月には自身の Facebook で、まとめサイト「保守速報」をシェアしたことが波紋を呼んだ。同サイトは、2018年に在日朝鮮人の女性に対する差別が最高裁で認定されるなど、韓国や中国に対する差別的な言説で知られていた。

こうした姿勢は、首相退任後にも見られた。たとえば今年1月には佐渡金山の世界遺産登録をめぐって、韓国から「歴史戦を挑まれている」という見解を Facebook に投稿した。

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安倍元首相の在任中には、いわゆるヘイトスピーチの顕在化も社会問題化された。2016年5月にはヘイトスピーチ解消法が成立しているが、背景には京都府川崎市、インターネット上などで在日朝鮮人らに対する差別発言が繰り返される問題があった。この時期には、ヘイトスピーチへの対応が消極的であるとして、安倍政権を批判するも見られた。

すなわち、安倍元首相は政治的には現実路線を取ることで、良好な日韓関係を模索した時期もありつつも、いわゆる歴史認識などをめぐる「嫌韓」言説には、親和的な態度を取っていたと言える。こうした両義的な姿勢のうち後者が注目されることで、反中国・反韓国を主張するネット右翼層からの支持に繋がっていたことが予想される。

安倍一族と韓国の"ねじれ"

こうした事実を踏まえると、安倍元首相の祖父である岸信介や、父である安倍晋太郎が、韓国と深い関係を持っていたことは意外に思えるかもしれない。

そもそも岸信介と安倍晋太郎は、戦後政治において親韓派と呼ばれており、当時の自民党においても韓国に近しい議員と目されていた。特に岸については、1965年の日韓国交正常化に腐心しただけでなく、その後も様々なパイプを通じて、韓国との関係を築いていった。

また晋太郎は、義父である岸と同じく山口県を郷里としているが、同県は日本を代表する在日朝鮮人コミュニティが存在していた。そうした背景もあり晋太郎は、長らく地元の在日朝鮮人からも支援を受けていた

2人は政治的な繋がり以外にも、韓国との経済的結びつきも強く、たとえば岸は対韓援助や日韓経済協力などに関与した。こうした韓国への近接性は、当時の国際情勢を念頭に置いた「反共陣営の結束強化」というイデオロギー的側面から理解されることが多いが、親韓派の議員が様々な動機に基づいて韓国との関係を築いたように、岸や晋太郎にも韓国に対する複雑な眼差しがあったと考えられる。

安倍元首相については、祖父や父のような深い関係性は見られないものの、必ずしも「排外主義者から支持を集める政治家」のみでは捉えきれないポイントもあり、特に第二次安倍内閣の半ば頃には、その "変容" を伺うことが出来る。

安倍一族と韓国の "ねじれ" は、戦後の日韓関係や戦後史そのものの "ねじれ" を写照しているかもしれない。そして、統一教会と安倍一族を取り巻く "ねじれ" もまた、その歴史と不可分だと言える。それぞれの関係について、具体的に見ていこう。

親韓派としての岸信介

安倍元首相が敬愛していたのが、祖父・岸信介だ。自身の著書では、祖父について以下のように述懐している。

祖父は、幼いころからわたしの目には、国の将来をどうすべきか、そればかり考えていた真摯な政治家としか映っていない。それどころか、世間のごうごうたる非難を向こうに回して、その泰然とした態度には、身内ながら誇らしく思うようになっていった。

安倍政権下における安保法制(2015年)を岸信介政権下における安保闘争(1960年)に重ね合わせ、安倍元首相を岸になぞらえるような議論も少なくない。

岸信介とは

岸信介は、「昭和の妖怪」と称された大物政治家だ。1896年(明治29年)に生まれ、戦前は満州国の官僚として活躍し、太平洋戦争が開戦した際の東條英機内閣では、商工大臣として入閣している。そのため戦後は、A級戦犯被疑者として巣鴨プリズンに勾留されたが、後に保釈された。


岸信介元首相(”The Sankei Graphic”, Sankei Shinbun Co., Ltd. 1954., Public domain

当時、ソ連や中国、北朝鮮などにおける共産主義の台頭を警戒した米国が、日本をその防波堤とすることを目論み、いわゆる「逆コース」と呼ばれる対日政策の転換に踏み切っていた。こうした国際情勢の中で、岸は反共産主義を掲げて、政治の中枢へと戻っていく。

1955年(昭和30年)、岸は新たに結成された自由民主党の初代幹事長に就任し、1957年には首相就任、1960年には新たな日米安全保障条約の調印(安保改定)を実現した。岸は、米軍への基地提供を中心としていた従来の安保を「不平等」と考え、日米共同防衛などを定めた「平等」なものに変えることを目指していた。


安保改定をめぐり国会を囲んだデモ隊("Album: The 25 Years of the Postwar Era" published by Asahi Shimbun Company, Public domain

しかしベトナム戦争(1955-1975年)が続く中、日本が米国の戦争に巻き込まれることなどが懸念され、安保改定には大規模な反対デモが拡大(安保闘争)。岸は安保成立こそ実現したものの、同年総辞職に至る。安保改定は戦後日本の外交・安全保障政策の方向性を決定づけた出来事であり、そこから生まれた日米関係は、現在まで日米同盟や東アジアの安全保障を規定する、大きな影響力をもたらしてきた。

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岸は、安保改定について以下のように評している。(岸信介 述『日本の進路』自由民主同志会、1968年)

この条約が旧条約に比べて、自分がやったのだから私は百点をつけたいけれども、百点はつけなくても、少なくとも九十五点ぐらいつけてもいい成績の内容であると思うのであります。(拍手) その後今日までの十年近くの実績を見ますと、この条約が完全にその効果を発揮していると私は思う。私はこの条約を、御承知のような反対がありましたけれども、それを押し切ってこれが最後の批准書を交換して、そうして効力が発生しましたので、私自身の一応の任務は終ったとして退陣をしたわけであります。

親韓派

冒頭および以前の記事で述べたように、岸は統一教会および関連団体と深い関わりを持っていた。また統一教会のルーツである韓国とも深い繋がりを有しており、そのことから「親韓派」と呼ばれる議員グループの代表格だった。

親韓や親日、あるいは反日といった言葉は、現在でもネットスラングなどで用いられる。しかし、その意味するところは時代や地域によって異なる。たとえば韓国における「親日派(チニルパ)」とは、日本のことが好きな人ではなく「帝国日本による植民地統治への協力者」を意味する。同じく、当時の日本における「親韓派」とは、1960年代において、日韓国交正常化に向けた交渉を後押しするなど、日韓関係に深い関係を持っていた自民党議員指していた

岸信介や石井光次郎、船田中、椎名悦三郎、田中龍夫に代表されるような親韓派といわれる自民党議員は、金鍾、李厚洛らと密接な関係を築き、朴正熙体制への支援に積極的であった。 これに対し、「アジア・アフリカ問題研究会(以下AA研)」に属する宇都宮徳馬(一九七六年に自民党を離党)らは、これら親韓派議員と朴正熙体制の関係を「癒着」として批判した。

後述するように親韓派の動機は様々だが、彼らが韓国との関係樹立を目指した理由の1つが、共産主義という脅威が東アジアに存在したためだ。

戦後の日韓、そして米国にとって日韓国交正常化は重要な政治的課題だった。「米国は、日韓関係に対する深入りを避けた」ものの、同時に「反共陣営の結束強化、そして政治的安定のため」に、両国の関係が安定化することは必要不可欠だと考えていた。

ところが隣国同士である日韓の交渉は、戦後10年以上が経過しても進んでいなかった。そこに大きな役割を果たしたのが、岸ら親韓派だった。

対韓請求権の撤回と久保田発言の取り消し

国交正常化に向けた日韓会談が開始されたのは、1952年だった。これは GHQ が廃止され、日本の主権回復がなされた年でもあり、未だ戦後の空気が強く漂っていた。

日韓国交正常化における岸の功績としては、その最大の障壁となっていた対韓請求権を撤回して、後述する久保田発言の正式な取り消しという譲歩案を提示したことだ。

請求権とは、植民地統治下において日本政府や個人が朝鮮半島から「強制的に」移転した経済的価値を精算するための考え方だ。米国などが戦後日本への賠償を放棄した背景から生まれたもので、植民地支配への「賠償」や「補償」の代わりとして生じた概念となる。韓国政府が対日請求権を要求したことに対して、日本政府もまた「日本から韓国への経済的価値の移転」を対韓請求権として提起した。これにより日韓間対立が生じて、交渉は停滞することになる。

また1953年に久保田貫一郎日本側首席代表が、日本の植民地統治を肯定する発言(久保田発言)をおこなったことも、日韓交渉の行き詰まりをもたらしていた。これは、日韓請求権の問題について久保田が、韓国が請求権を要求すれば

日本側のほうでは総督政治のよかつた面、例えば禿山が緑の山に変つた。鉄道が敷かれた。港湾が築かれた、又米田……米を作る米田が非常に殖えたというふうなことを反対し要求しまして、韓国側の要求と相殺したであろう

などと述べたこと(*4)で、交渉が中断した問題を指す。

これらをまとめて放棄・撤回したのが、1957年に成立した岸政権だった。岸の判断によって両国の交渉は再開され、あわせて1961年、韓国で軍事独裁政権である朴正煕政権が成立したことで、再び交渉が動き出す。

朴正煕政権は、不安定な状態にあった軍事政権の国際的地位を安定させつつ、深刻化する韓国の経済問題に対処するため、開発資金を獲得するという「2つの目的」のため、日本に接近することを選んだ。岸と朴正煕の思惑が噛み合ったことで、日韓関係は新しい方向へと進んでいくのだ。

1961年の太平正芳外相と金鍾泌韓国中央情報部長の会談大平・金メモを経て、岸や石井光次郎(当時、自民党外交調査会日韓問題懇談会座長)元衆院議長ら親韓派は、日韓国交正常化への歩みを加速させていく。

初代駐日大使を努めた金東祚元外相によれば、当時の岸は、自身が山口県出身であることを引き合いに、江戸時代から山口県・萩港には日韓の船が往来し合っていた歴史に触れた上で、自分にも韓国の血が流れていると思うほど親近感があり、「いわば両国は兄弟国」とまで語っている(金東祚『回想30年韓日会談』中央日報社、1986年)この発言にはリップ・サービスも多分に含まれているだろうが、岸元首相が強い意向を持って、公式・非公式ルートを含めて日韓国交正常化に奔走したことは間違いない。

当時、日韓両国において国交正常化を目指す動きは、強い反発にさらされていた。たとえば日本社会党の角屋堅次郎議員は、以下のように批判する。

政府・自民党は、日韓条約の批准にその政治生命をかけて今次国会に臨もうとしており、われわれ日本社会党は、日韓条約の国会上程そのものに強く反対しておるのであります。なぜかならば(引用者註:原文ママ)、今回締結された日韓条約が、今日までの日韓両国の国会審議を通じて明らかなように、管轄権の範囲、李ライン、竹島問題など、条約の基本的諸問題について、両国政府の間に全く意見の不一致があるからであります。

また韓国内でも、強い反発があった。日本の植民地統治に対する認識だけでなく、請求権をめぐる問題も解決されておらず、岸や自民党の大野伴睦副総裁などの政治家が、日韓を「父子」や「親子」に見立てた発言をおこなったことも、韓国を軽んじる姿勢であるとして同国内から批判を浴びた

しかし日韓両政府はそれぞれ強行採決に及び1965年に日韓基本条約が発効された。両国政府にとって、日韓両国の国交正常化および反共陣営としての結束強化などの政治的目標は、自国内の反発を押してでも優先されるべき議題だった。

結果として、日本による植民地統治の法的位置づけや領土問題、日本からの「謝罪」問題などが棚上げされたことは、後の日韓関係に禍根を残すことになる。後述していく日韓関係の "ねじれ" の歴史は、ここから始まったと言える。

(*4)ただし久保田は「前後の関係がわかりませんと人の発言の本当の意味というものはわかりません」と述べて、自身の真意を国会で釈明しているが、実際の表現・文脈については不明点も多い。

日韓議員懇談会と日韓協力委員会

日韓国交正常化の成立以降も、岸は韓国と幅広い政治的パイプを結んでいた。その代表的な枠組みが、日韓協力委員会と日韓議員懇談会だ。日韓協力委員会では初代会長(1969-1987年)に就任し、日韓議員懇談会でも中心メンバーとして活動してきた。

1970年代、両団体は単なる親睦団体というよりも、外交ルートの1つとして警戒されるほどの存在感を見せていた。たとえば日本社会党・安宅常彦議員は、1975年に以下のように質問している。

つまり韓国側では、日韓議員懇談会というものと日韓協力委員会というものは経済援助に関するルートだと思っておられる。これは非常に重要だと思うのです。(略)それから、日韓協力委員会というのは、閣僚会議が開かれる前にしょっちゅうお出かけになるようです。これは岸先生が会長で、そして白という人が向こう側の会長、こういうふうにして日本でやっておられる。これがどんどん来る。外交ルートなんか通じないものですから、後で、あのときに決まったじゃないかということで、予算要求やなんかのときに、外交ルートで来るのを、外務省は知らない、大蔵省はてんやわんやする(略)

同じく日韓協力委員会についても、日本の憲法改正や在韓米軍の削減問題などが同委員会で話し合われたという疑惑について、1977年に日本共産党・小笠原貞子議員から以下のような質問がされている。

韓国側と憲法改悪を事実上合意しているということにならないでしょうか。これは先ほど伺いました単なる親善という趣旨、目的を越えた憲法改正まで外国——韓国と話し合って同意しているという点、これはもう大変なことなんでございます

こうしたやり取りからは、日本の左派議員らが自民党の親韓派の動向を警戒していたこと、岸らのパイプが非常に強力であったことなどが伺える。現実政治にどれほどの影響力があったかはさておき、少なくとも当時から、憲法改正など国家的議論に影響を持つ組織と目されていたことは事実だ。

後述するが、こうした組織は日韓の政治のみならず経済や文化面での結びつきにも寄与していた。その繋がりは「癒着」と批判を浴びるほど、強固なものであった。

岸信介、山口、朴正煕

岸がこれほど日韓関係に腐心した理由は、いくつか考えられる。

まず「岸や田中(引用者註:田中龍夫元通商産業相)のような朝鮮半島に近い山口県選出の政治家は、日韓関係に強い関心を抱く傾向にある」と指摘されるように、土地柄の問題もあるかもしれない。農商大臣などを歴任した田中竜夫と岸信介、そして矢次一夫という日韓協力委員会の主要メンバーについて、以下のような記述がある。(日韓問題研究会「"日韓政財界癒着の実態"(三)」『軍事研究』12(6)(135)、ジャパンミリタリー・レビュー、1977年)

この岸、矢次、田中の三名だがいづれも山口県=長州の出身である。 長州の中でも萩市一帯は昔から帰化人が多く、長州萩出身といえば韓国では非常に信用され、日本人というより別れた親族扱いにされるそうである。こうした事情より長州出身の三氏は韓国側の信頼が厚いという利点を持ってた。

岸自身も、韓国について以下のように発言している。

昭和41年前でも岸内閣時代から韓国の政、財界とは頻繁な接触があり、韓国には多くの友人、知己がいる。日韓の間の二千年にわたる歴史からいっても、また現在の国際情勢からいっても、日韓の親善の強化は当然のことで、私は今後もあらゆる機会をとらえて、友好親善を推進する決意である。(岸信介『二十世紀のリーダーたち』サンケイ出版、1982年)

また岸と朴正煕は、同時期に満州で活動していた共通点もある。後に「昭和の妖怪」と「独裁者」と称された2人が現地で出会うことはなかったが、2人は戦後の日韓におけるホットラインとして、密接な関係を築いた。岸の自伝には、朴との初対面でのエピソードが以下のように記されている。

まず朴議長が話を始めた。

「このたび自分たちは革命を行ったが、その動機は、いまにして自分たちが立たずんば国家の存立が危うくなると思ったからです。それはちょうど日本の明治維新のときの志士のような気持ちです。私は維新の志士のなかでは吉田松陰と高杉晋作をとくに尊敬していますが、あの人たちと同じ純粋な気持ちです。

しかし自分たちは何分にも若く、経験もありません。政治のことも分からなければ、まして産業や経済のことなど見当もつきません。(略)韓国にも、先生方のような経験と知識に富み、国家、世界の対局を見通せる人がいるといいのですが、残念ながら見当たらないのです。そこで先生方に時々韓国においでいただいて、自分たちにいい意見をきかせてもらいたいのです。お願いします」

というのである。

私はやや意外に思った。ふつうクーデーターに成功した人たちは、自分たちの考え、行動が唯一の道であり正しいのだと主張しがちだが、朴議長は実に謙虚であった。その態度は誠実実にあふれていた。意気に感ず、とはこのことだろう。私は韓国の若い指導者たちを援助し、協力しようと決心した。(岸信介、1982年)

岸の自伝には「朴 "指南役"の心境で」や「技術協力や借款の要請などにはできるだけ骨を折ってやった」などの記述が繰り返され、前述したような日韓を「父子」や「親子」として捉える世界観が見え隠れする。朴もまた、岸の郷里である山口出身の維新志士らの話を持ち出すことで、こうした岸の自尊心をくすぐりつつ、良好な関係を目指したのかもしれない。

両者の関係には帝国主義の残滓が伺えるが、岸が隣国の若き指導者に、ある種の親近感を覚えていたことも事実だろう。すなわち、共産主義の防波堤という政治的事情だけでなく、山口出身という土地柄や、ともに満州国時代を過ごした朴正煕への親近感という、岸の個人的事情もまた、韓国への距離感を規定する要因だったのかもしれない。

実際、山口と韓国は、単なる地理的な近接性を超えて、歴史的に深い関係を持っていた。その事実を反映するのが下関という空間であり、岸元首相にとっての義息である安倍晋太郎も、その影響を色濃く受けていた。

下関と在日コミュニティ

安倍元首相にとって、下関や山口県は広い意味での故郷の1つであり、政治的な地盤でもある。安倍元首相自身は1954年9月21日に東京都で生まれたが、父・晋太郎は山口県大津郡日置村(現在の長門市)を郷里としており、祖父・岸信介も山口県吉敷郡山口町八軒家(現山口市)の出身だ。

そのため1991年に父・晋太郎が急死してからは、その選挙地盤を引き継いで、1993年に山口1区から出馬・初当選を果たしている。公開されている安倍元首相の資産も、山口県下関市と長門市の宅地が中心となっており、父や祖父の代から地縁を有している。

在日コミュニティとしての下関

その下関は、在日コミュニティと縁が深い地域として知られている。駅前にある商店街・グリーンモールには、朝鮮風の門である釜山門が建てられており、韓国料理や食材、雑貨などの店が立ち並んでいる。


グリーンモールに建てられた釜山門(Google Map

現在、在留韓国人約40万人のうち山口県に暮らしている人口は、4,500人と決して多くはないが、1959年には、在留朝鮮人約60万人のうち2.8万人が暮らしていた。これは大阪(13.2万人)や東京(6万人)、兵庫(5.4万人)、名古屋(4万人)、京都(3.9万人)などの大都市に次ぐ規模であり、人口比で考えれば山口県における規模の大きさが伺える。

関釜連絡船

歴史的に、山口県の在日朝鮮人コミュニティが大きかった理由の1つが、1905年(明治38年)から1945年にかけて、下関から朝鮮半島・釜山の間を運航していた連絡船・関釜連絡船の存在だ。これは日朝間を繋ぐ大動脈であり、約8時間程度で両国を結んでいた。

たとえば1930年(昭和5年)には、下関発釜山着の航海が1,033回あり(月平均86回)、乗客人員は33万8,209人、貨物9万4,950トン、手小荷物115万6,435個、郵便物55万8,586個が運ばれていたと記録されており、釜山発下関着の便も同様の規模だった。(朝鮮総督府『朝鮮総督府調査月報』2(3)、1931年)


下関鉄道桟橋に停泊する景福丸(Unknown author, Public domain

関釜連絡船は、満州国へ移住する日本人を運ぶだけでなく、1910年(明治43年)の日韓併合を契機として、入国制限法の適用外となり、外国人労働者の扱いでなくなったことで増大した、朝鮮人労働者の渡日を支えていた。郷土史家・前田博司氏は、その様子を以下のように語る。

日韓併合以後、「内地」(引用者注:日本列島など、いわゆる現在の「日本」の大部分を指す)へ渡って来る朝鮮人は次第にその数を増やしていったが、第一次世界大戦後における不況が深刻化するのに伴って、少しでも労賃の安い朝鮮人労働者に切り替えようとする国内各企業の動きが一層活発となり、そのため渡来してくる朝鮮人は激増の一途をたどった。そして、そのほとんどが関釜連絡船や関麗連絡船を利用したため、下関は彼等が必ず立ち寄るところであった。(前田博司「研究『昭和館』の歴史」『山口県地方史研究』第67号、山口県地方史学会、1991年)

具体的には1918年から1931年までの14年間で約122万人が訪れ、下関市に暮らす朝鮮人は、1912年の55人から1930年の4,017人、1940年には1万8,899名にまで増加した。1930年代には、下関の全人口16万のうち1割が朝鮮人になる状況だったという。

1930年代から40年代にかけては密航者も後を絶たず、植民地統治下の朝鮮半島から朝鮮人が内地にやってくることを認めるべきか、という議論も盛んになった。内務省は、朝鮮人の増大によって失業問題が生まれ、社会問題になることを危惧した他、日本の植民地統治に対する独立運動や労働運動などが広がることを懸念していた。(*5)

ちなみに旧統一教会の創始者である文鮮明氏も、1941-43年に日本の早稲田高等工学校に留学した際、関釜連絡船に乗って来日している。旧統一教会問題の追求で知られる有田芳生元参議院議員は、安倍晋三の死去に伴う衆議院山口4区補欠選挙において、文鮮明氏が「日本に初めて足を踏み入れた土地が下関」であることから、同地は「旧統一教会にとって聖地に等しい」と述べて、議論を呼んだ。(*6)

(*5)有田氏の発言について、タレントの田村淳氏が「下関がカルト教団の聖地という印象操作をした事にムカついてる」と批判し、タレントの国生さゆり氏も「根拠なくヨシフさん『聖地』とか言っちゃった訳だし、軽蔑するよ」や「選挙中なんのに軽率過ぎる。そんな事も考えられないほど、お花畑なのかな」と述べた。ただし有田氏の発言は、2021年3月に旧統一教会の方相逸(パン・サンイル)大陸会長が「山口の下関は聖地と同等の場所です」と述べたものを受けたものであり、旧統一教会側もその事実を認めつつ、「『聖地と同じくらい大切な場所』であることを言い表したもの」と否定している。
(*6)朝鮮人が日本にやってくる理由は様々であり、日本側の労働需要の高まりや朝鮮半島における人口増、農村部における困窮に起因する日本での就職などの背景もあれば、日本政府による「土地調査事業」などによって「農村での生活が破壊され、離れがたい故郷をあとにやむを得ず満州や日本に流浪し、生きるための糧を求めなければならなかった」ケースも少なくないという。(朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』未来社、1965)

トングルトンネ(糞窟村)

このように戦前から戦中にかけて、下関は朝鮮人にとって「日本の玄関口」となっていた。下関は「釜山にそっくり」とも称され、彼らは朝鮮半島の文化やネットワークを持ち込みながら、日本で暮らしはじめていく。

ただし、渡日した朝鮮人たちが暮らす下関の居住環境は、決して好ましいものではなかった。そのことを象徴するのが、下関において朝鮮人が暮らしていたエリアである、現在の下関市神田町周辺だ。ここは当時、トングルトンネ(糞窟村)と呼ばれる、糞尿の臭いがする衛生環境の悪い地域だった。 

トン(똥)は人糞、グル(굴)は窟を意味して、トンネ(동네)とは韓国語で小さな町を意味する。

朝鮮半島から渡って来た人々が住み始めたころ、各家庭にちゃんとしたトイレもなく、脇道などで用をたした。汚物が、三方が小高くなっている地形の、底の部分にたまり、においがただよっていた

ことから、この呼び名が生まれたと指摘される。


現在の下関市神田町周辺(Google Map

トングルトンネの正確な起源は、分かっていない。在日大韓基督教下関教会や鳥越火災場、下関刑務支所の完成などから、1920年代には同地域に朝鮮人が居住していたと考えられており、(豊田滋「下関における韓半島の文化(その4)- 関西通り・神田二丁目・東神田町の地理学的研究 - 」『地域文化研究 : 地域文化研究所紀要』梅光学院大学地域文化研究所、1989年)もともと刑務所や火葬場、雑木林などが広がる被差別部落で、日本人があまり近寄らない場所だったことから、朝鮮人の定住が増えたとも言われる。

2000年頃まで同地域に住んでいた住人は、以下のように語っている。

教会の周りには火葬場、刑務所、改良住宅、朝鮮学校、下関にとって目障りなもの(?)不要なもの(?)がそこに集約されているといっても過言ではないくらい、打ち捨てられ、見放され、行政も介入しない、火事になっても消防車すらこないところがトンクルトンネといわれる朝鮮部落でした。まだあの頃はすり鉢状の大きな穴(低地)にいくつものトタン屋根の長屋が立ち並び、朝鮮のハルモニたちが暮らしていました。昔はそこで、豚を飼っていたそうです。


トングルトンネの中心に位置していた在日大韓基督教下関教会(Google Map

彼らは長屋とも言えない小屋で暮らしながら、関門トンネルや小月飛行場、火の山要塞(関門海峡向けに建てられた砲台、現在の火の山公園)などを建設するための労働者や荷役労働者、鉱山労働者などとして働いていた。朝鮮人が経営する遊郭もあり、飯場(労働者の食事・宿泊施設)で雑魚寝し、金が貯れば遊郭に行き、また働くという生活を送っていた

昭和館

劣悪な環境であっても朝鮮人の増大は止まることなく、その保護・救済のため、1928年(昭和3年)には昭和館が建てられた。後に朝鮮初中級学校へと役割を変えるまで、下関における朝鮮人に向けて福祉・児童・職業斡旋などの各種サービスを提供しており、地元の篤志家や県などの補助によって生まれた事業だ。

朝鮮半島からの渡日者の中には、職や生活のあてがないまま、とりあえず関釜連絡船に乗ったり、密航した結果、すぐに路頭に迷うケースも少なくなかった。こうした人々に、一時的な無料宿泊施設や就職斡旋、未就学児童への教育や日本語教育などが提供された他、妊産婦保護や司法保護施設、診療施設なども整備されており(前田博司、1992年)、まさにワンストップで各種サービスが提供された。

その役割は、以下のように指摘される。

31年には6294人に無料で寝泊まりの場所を提供した記録が残っている。下関駅に職員が出向いて困っている朝鮮人の手助けをしたり、子供たちに勉強を教えたりもしたそうだ。下関駅で産気づき、ホームで子供を産んだ朝鮮人女性を引き取って、館長が赤ちゃんの名付け親になったというエピソードも残っているという。

このように在日朝鮮人への支援環境も整っていくものの、1930年代後半にかけて生活状況はますます苦しくなる。「日中戦争が始まって、強制連行が始まると、大坪の部落は飯塚、宇部、小野田や遠くは北海道の炭坑から逃げてくる朝鮮人のたまり場に」なったからだ。関釜連絡船が発着する下関は、朝鮮半島からやってくる朝鮮人たちの "入口" であったが、同時に故郷へと帰りたい人々の "出口" でもあった。

内務省によれば、1930年には約30万人の朝鮮人が日本で暮らしていたとされるが、実数はもっと多かったと言われており、政府による度重なる渡航制限も出されていた。1923年(大正12年)の関東大震災における朝鮮人虐殺事件をはじめ、国内では在日朝鮮人に対する差別・暴力が横行していたが、それでも数多くの朝鮮人が内地で暮らすことを余儀なくされ、彼らの大半が下関を通っていたのだ。

戦後

戦後、下関には朝鮮半島への帰国を願う多くの朝鮮人が全国から集まってきた。しかし下関周辺の海域には、米軍によって投下された磁気機雷や沈没船が数多く残されていたため、関釜連絡船は実質的に閉鎖されており、彼らは足止めを食らうことになる。

特に1945年(昭和20年)3月以降、関門(下関市と北九州市門司区)には連夜にわたって米軍機が来襲して、約4,700個もの機雷が投下された。これは、全国に投下された1万1,000個の機雷の半数近くを占める規模であり、2013年にも海上自衛隊によって未発見だった機雷が爆破処理されている。


関門海峡に敷設された機雷が赤点で示されている(海上自衛隊

下関には、全国各地から毎日100人を超す在日朝鮮人が帰国を求めて殺到していたが、連絡船の不在によって、約1万人が滞留することになった。その混乱は、以下のように記される。(山口県警察本部『山口県警察史』1978年)

特に朝鮮人は戦前からの移住者に加えて、戦時態勢の進展にともなう国民動員計画によって募集渡航した労務者をはじめ、軍人・軍属など終戦当時に日本内地に在留していた者は約二〇〇万を数えた。これらの人々のほとんどが一時に本国への引揚げを急ぎ、山口・福岡の両県に殺到した。

当時、列車は切符の入手にも徹夜の行列をしなければならず、すし詰列車の乗降は、すべて窓からという混乱状態の中で、祖国の解放を喜び、朝鮮を目指して怒濤のように帰国を始めた彼らは、関釜連絡船に乗船すべく続々と下関へ詰めかけていた。しかし、関釜航路は欠航していたため下関駅は次第に滞留者であふれ、下関警察署では「諸君の身分一切を保障するから安心して警察に相談せよ、言葉や態度を慎んで紛議をかもすことのないように」と布告を発していたが、彼らは戦勝国意識を誇示し、次第に暴状が表面化しはじめた。長い植民地統治と精神的圧迫から解放された人びとの一部には、敗戦国日本の法律に従う義務はないと息巻き、傍若無人の限りを尽くす感があったのである。

加えて1950年6月に朝鮮戦争が勃発したことで、再び多くの朝鮮人が足止めされ、この地への定住を余儀なくされる者も現れた。

下関事件

下関における戦後の混乱と在日コミュニティの存在を象徴するのが、下関事件だ。


騒乱直後の下関市内("Album of the 15-Year History of Postwar Japan" published by the Asahi Shimbun Company, Public domain

当時の在日朝鮮人コミュニティには、後に韓国政府から公認団体として認められる在日本大韓民国民団(民団)と、北朝鮮の建国を支持する在日本朝鮮人連盟(朝連)の対立が生じており、山口県小野田市(現在の山陽小野田市)などでも両者の衝突が続いていた。

1949年(昭和24年)8月、下関市内にある民団の朝鮮人部落を朝連関係者200名が、竹槍・こん棒を所持して襲撃して、十数名に障害を与えた他、家屋19戸を破壊し、金品を略奪する事件が起こった。これにより民団と朝連による騒乱が勃発したことで、939人の警察官が動員され、うち14人が負傷した他、朝連側の75人が、民団メンバーへの殺人未遂罪・騒擾罪などによって起訴された

下関事件の後も、民団と朝連が衝突する小野田事件や朝鮮人学校の認可問題などが続き、全国的な治安への憂慮が広がった。そのため、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の団体等規正令によって、民団と朝連は右翼団体や左翼団体と共に解散を命じられるに至った。民団と朝連の対立は、下関に限ったものではなかったが、この地に数多くの在日朝鮮人が残されたことで生じた事件の1つであった。

在日朝鮮人コミュニティが、朝鮮戦争をはじめとする国際情勢の影響を受けている一方、その生活はますます困窮していた。(山口県警察本部、1978年)

ところで、在日朝鮮人の生活は、戦後の離職と乏しい食料事情のもとで窮乏への道をたどった。日本人の生活は悪性インフレが収束するにつれて落ち着きをみせていったが、朝鮮人が内地に安定した職業を求めるには、なおほど遠いものがあり、その多くは失業者であった。そのため、『生活保護法』の適用拡大要求や、日雇労働者の職よこせ運動において、朝鮮人がその主軸となったのは自然の成りゆきであった。

岸信介と朴正煕が新たな日韓関係を築き始めた時代、トングルトンネに代表される下関の在日朝鮮人たちは、苦難の生活を送っていた。こうして下関は近代日韓史を象徴する空間の1つとなったが、その歴史は昭和から平成にかけても続いていく。

父・安倍晋太郎と吉本章治

この在日朝鮮人と切り離せない環境で育ったのが、安倍晋太郎だ。安倍晋三元首相の父親であり、岸信介の長女である安倍洋子と結婚したことで、岸信介の娘婿でもあった。

岳父である岸信介がそうであったように、安倍晋太郎も親韓派と称され、以下のように語られている。

晋太郎氏は日本政界きっての親韓派だった。中曽根政権時代に4年間外相を務め、韓国政界と太いパイプを持っていた。全斗換(チョン・ドゥファン)政権時代に歴史問題などで韓日間に確執が生じると、彼は両国関係改善のため努力した。安倍新総裁はこんな父親の下で秘書生活を始め、政界に入った。


安倍晋太郎(The Ronald Reagan Presidential Library, Public domain

安倍晋太郎は、1924年(大正13年)4月29日に東京で生まれた。父・安倍寛は衆議院議員を努め、叔父・安倍慎太郎は山口県議会議員を努めた政治家一家だったが、幕末期の長州藩士・佐藤信寛から続く名門の生まれだった岳父・岸信介ほどの名家ではなかった。

太平洋戦争終結後、東京大学法学部を卒業した後は、毎日新聞の記者として働いており、1951年(昭和26年)に洋子と結婚した。1956年、岸信介が外務大臣になったことで外務大臣秘書官となり、岸内閣の成立後には、内閣総理大臣秘書官に就任した。その後、1958年(昭和33年)の衆議院議員総選挙で初当選を果たす。

しかし岸信介ほどの名家出身でない安倍晋太郎の選挙基盤は、盤石ではなかった。実際、1963年(昭和38年)の衆院選では落選しており、その後の選挙では岸信介元首相および叔父・佐藤栄作首相からの力添えも受けている。(*7)

そんな安倍晋太郎の支援者の1人となったのが、在日朝鮮人(後に帰化)であった吉本章治氏だ。

(*7)ただし、後に安倍洋子が「県議など地元で苦労した積み重ねのない『甘さ』のせいだとか、本人の慢心のせいだとか、いろいろ批判をいただきました。そのときは初出馬の初心に帰り、それ以上に努力し、それこそべったりと地元を這いまわって組織の強化に奔走いたしました。おかげさまでそれ以後、ずっとトップ当選を果たさせていただきました」と語り、「安倍もこの艱難によく耐えたばかりか、人格形成の好機の場としてしまった。酷ないい方だが、 落選前の安倍について、同僚の記者の中には『ハナっぱしらが強くて、どうも好きになれなかった』という人もいた。それが、落選を機に『人が変わった。お世辞の一言もいえないのは従来通りだったが、黙々と人のために尽くす。 それを決して口に出さない。本当に大きな人間になった』 というのである。長州人は政治家をつくるのが巧いと先に書いたが、この落選も安倍を飛翔させるための機会を与えたとも受け取れる」と称される(木立真行『いざや承け継がなん : 長州と安倍晋太郎』行政問題研究所出版局、1986年)ように、必ずしも後の安倍晋太郎が、岸の助力のみで当選したわけではない。

吉本章治

1928年(昭和3年)に生まれ、2008年に亡くなった吉本章治は、福岡や下関などで現在もパチンコ事業などを展開している七洋物産を創業した人物だ。

同社は1958年に、山口県下関市で遊技場・永楽を営業し始めたことを皮切りに、パチンコやボウリング場を経営しており、現在は130人の従業員を抱える企業となっている。また経済的な成功だけでなく、1982年には2億円を投じて、財団法人吉本章治奨学会を設立して、高校生や留学生に対して返済義務のない奨学金を提供していた。信用組合山口商銀の副理事を務める(金融経済新聞社『全国信用組合名簿 昭和42年版』1967年)など、地元の名士としても知られていた。

こうした功績から、2002年には韓国政府から無窮花章を授与された。この時のパーティーには、安倍晋三元首相が出席しており

吉本氏は四十五年前に父が国会選挙に出た時からの付き合いで、父が外務大臣の時、韓国に同行した

と明らかにしている。(『統一日報』2002年5月1日)

吉本と安倍晋太郎の関係を端的に示すのが、事務所をめぐる賃貸だ。両者の関係は、安倍晋三元首相が第一次政権を樹立した2006年、以下のように指摘されている。

吉本社長と安倍新総裁の関係は、安部氏の父・安倍晋太郎(1991年死去)元外相時代にさかのぼる。晋太郎氏の福岡事務所も、七洋物産本社ビルにあった。「安倍吉本」関係は、1980年代末に癒着批判が出るほど緊密だった。

実際、1980年から1986年の6年間、安倍晋太郎の福岡事務所とスタッフは、七洋物産から無償提供されており、ここで言う1980年代末の「癒着批判」とは、たとえば1989年の週刊誌で以下のように記されている。(『FOCUS』1989年12月1日)

"弱り目に祟り目" とは、まさにこんな立場の安倍晋太郎・元自民党幹事長のことをいうのだろう。リクルート事件に見舞われる中、病いに倒れ3ヶ月の入院。その間、政権は竹下、宇野、海部と目まぐるしく代わり、いまや「安竹宮」もすっかり過去のものに。(略)

政権戦略の立て直しを図ろうとした矢先に、今回、地元下関の豪邸にからむ "疑惑" が飛び出したのだ。(略)約600坪の敷地に立つコンクリート2階建て。なるほど「総理総裁」を狙う人は立派な屋敷をお持ちだ、と思ったら、実はパチンコ会社の子会社から「タダ同然」で借りていたと報じられ、にわかに "パチンコ御殿" と呼ばれることになったのである

安倍晋三事務所

安倍晋太郎の資産は、安倍晋三元首相に受け継がれている。2011年の自由民主党山口県第四選挙区支部の収支報告書には、事務所家賃として「下関市東大和町2-1-15」の住所が記載されており、その所有者は東洋エンタープライズとなっている。

東洋エンタープライズは、吉本章治が創業した七洋物産のグループ企業であり、現在は山口県下関市東大和町2丁目1番15号に住所を置いている。ちなみにこの住所は、下関にある安倍晋三事務所から徒歩4分程の距離だ。

 2011年の自由民主党山口県第四選挙区支部の収支報告書(Japan Center for Money & Politics

そして安倍晋三元首相の下関邸宅は、山口県下関市上田中町2-16-11だが、この土地も東洋エンタープライズから譲られたものだ。これは前述した "パチンコ御殿" のことを指しており、一連の報道を受けて、のちに名義が安倍晋太郎氏に移され、そこから所有が安倍元首相に移ったものだ。

時代が下った後も、安倍家と吉本の関係は散発的に報じられており、たとえば2014年の週刊誌には、以下のような証言が掲載されている。(『FLASH』2014年5月6日)

七洋物産グループは、下関で大きな影響力を持っています。あのグループが経営する下関駅前の永楽本店は『日本一優遇されているパチンコ』って地元で言われているんです。なにしろ駅から連絡通路でパチンコ店に行けるし、釜山フェリー乗り場ともダイレクトにつながっている。韓国ではパチンコが禁止されていることもあって、あの店は韓国人客も多いんだよ。安倍さんは韓国から客を招いてパチンコにカネを落とさせているのかと嫌味のひとつも言いたくなるね

在日朝鮮人とパチンコ産業

吉本章治が、パチンコ産業で身を立てたことは偶然ではない。なぜなら、パチンコ産業に在日朝鮮人が多いことはよく知られており、以下のように指摘される。

日本におけるパチンコ業界の始まりと成長は、在日韓国人と深い関連がある。日帝強占期に日本へ渡ったものの、差別待遇を受けて仕事が見つからなかった朝鮮人は、射幸性が高く危険なパチンコ業界へ飛び込み、生計を立ててきた。

実際、ミン・ジン・リー氏のベストセラー小説で、全米図書賞の最終候補作となった小説『パチンコ』では、四世代にわたる在日朝鮮人一家のドラマが描かれるが、主人公は差別や蔑視を受けながら、パチンコを生業として暮らしていく。

ただし、マルハン(創業者:韓昌祐)や平川商事ら大手パチンコ関連業者が在日朝鮮人によって創業されたことは事実であるが、戦後直後から同産業において在日朝鮮人が多数を占めていたかは分かっていない。

北海道大学の韓載香教授によれば、同産業への在日朝鮮人の参入が増加したのは1950年代後半から60年代前半とされる

製造業など他の主要産業の衰退という内的要因とパチンコ産業のビジネスチャンスとが重なり合ったこと、在日コミュニティ内に蓄積された情報など、ビジネスチャンスの発見を容易にし、事業として実現可能にする資源が存在したこと、など複合的な契機をあげることができる

韓教授によれば在日朝鮮人の参入が増えた理由として、パチンコ産業自体が日本人から忌避されていることや、他の選択肢が少ないため選ばざるを得なかったという側面も事実であるとしつつ、在日朝鮮人のコミュニティ機能の存在が重視されるという。

コミュニティ機能とは、在日韓国・朝鮮人が起業、あるいは特定の事業に参入する際、事業の発見・選択など関連する情報や資金などの資源がコミュニティを経由して調達されることを指す。職業、産業関連で蓄積された情報は、在日韓国・朝鮮人同士の関係性―経済的取引はもちろん、日常的付き合い、民俗行事の実践、教育機関など民族団体の活動への参加など―のなかで伝播し、フォーマル・インフォーマルに蓄積した資金が民族系金融機関などの金融制度(組織)を通してコミュニティのなかで供与された。

こうした視点に立つと、吉本章治による安倍晋太郎への支援は、単なる個人間の支援以上の意味を持っていたかもしれない。なぜなら同業者のネットワークの強いパチンコ産業で身を立てた在日朝鮮人である吉本氏の支援は、そのコミュニティ全体からの支援に繋がった可能性があるからだ。

「僕は朝鮮だ、朝鮮だ」

在日朝鮮人コミュニティによる政治的支援が、どれほどのインパクトを与えたかは分からないが、少なくとも安倍晋太郎は心情的にも韓国への親近感を持っていた

そのエピソードは、安倍晋太郎のもとで働き、安倍晋三元首相の乳母でもあった久保ウメの回顧録に登場する。

晋太郎は生前、自らについて朝鮮半島との関係があったと言い、「韓国に行ったときにはすごくモテた」とウメに話していた。

2006年の週刊朝日には、以下のような久保の言葉が掲載されている。

お棺に入れるときにあの人(引用者注:安倍晋太郎)の骨格、あれはやっぱり日本人のものじゃないと思ったの。肩の幅から下までまっすぐに定規を引いたみたいな。これは完全に韓国の体形。自分で「僕は朝鮮だ、朝鮮だ」と言ってたけれども、なるほどこれは朝鮮だと思った。だから、あっちですごくモテたってよ。(『週刊朝日』2006年10月6日)

そこから記事は、確証のない記述へと進んでいく。

晋太郎は生前、安倍家のルーツが10世紀ごろまで朝鮮半島北部から中国大陸にかけて存在した「渤海国」にあることを漏らしていたというが、歴史を繙いても「安倍」の源流は明らかになっていない。

このストーリーはあくまで久保の推測に過ぎず、晋太郎自身は「十一世紀の中ごろ、前九年の役で源義家と争った陸奥の豪族の末裔」がルーツだったと考えていたようだ。(木立 真行『いざや承け継がなん―長州と安倍晋太郎』行政問題研究所、1986年)ただしここで問題となるのは実際のルーツではなく、こうした語りが、安倍晋太郎や周囲から生じていたほどに、韓国への距離感が近かったことだ。

久保氏のみならず、吉本章治氏も安倍晋太郎と在日朝鮮人を重ね合わせる。2006年におこなわれた吉本社長へのインタビューでは、1958年に安倍晋太郎がはじめて衆院選に出馬した際のエピソードが掲載されている。

偶然、パチンコ店の2階が事務所になったという。「彼は一人で頑張っていた。在日とよく似ていた。目線は同じだった」山口県下関市内の現在の安倍事務所は、吉本氏の妻が経営する会社が賃貸している。(『朝日新聞(西部版)』2006年9月4日)

繰り返すが、そのルーツや目線については、あくまでも信憑性のない個人の思い出話に過ぎない。しかし、その心情や距離感が特別なものだったことは、間違いないようだ。

韓国と経済的利益

ここまで、岸信介と安倍晋太郎、そして在日朝鮮人コミュニティが集まる下関という空間を見ていき、その政治的背景を紐解いてきた。しかし2人と韓国の関係性は、地元である下関経済の活性化という経済的利益にも繋がっていた。

前述したように、岸信介元首相は日韓協力委員会や日韓議員懇談会などを通じて韓国パイプを固めていたが、地元・山口では在日朝鮮人コミュニティと手を取り合いながら、地元経済の発展に関与していた。たとえば1970年(昭和45年)6月、1945年まで続いた関釜連絡船が、新たに関釜フェリーとして復活した際には、その就航式に岸と安倍晋太郎が揃って出席している。

後に関釜フェリーは、

在日同胞1世たちが「故郷に錦を飾る」ために、おみやげをたっぷり詰め込んだバッグを両手に持っていく姿、さらに高級乗用車をフェリーに積み込んで誇らしげに乗って行った顔が今でも印象に残っています。

述べられるように、下関の賑わいと活発な貿易を象徴する存在となっていく。

関釜フェリーには「ボッタリ・ジャンサ(風呂敷包み商)」と呼ばれる、日本の品物を韓国で売りさばき、その資金で韓国製品を仕入れて日本に持ち帰ってくる、中年女性たちが乗り込んでいた。彼女たちは、いずれも大きな風呂敷包みを背負っており、円高によってその数が現象する1980年代半ばまで、同フェリーの風物詩となった。(影近裕司「アンニョンハセヨ - 関釜フェリ-16年の軌跡」『知識 2(3)(51)」 彩文社、1986年)

町井久之(鄭建永)

こうした経済的利益の源泉は、下関だけにとどまらず全国的なネットワークと結びついていた。

関釜フェリーの韓国側運営企業は釜関フェリーだが、同社を1969年(昭和44年)に設立したのが町井久之だ。1923年(大正12年)に東京で生まれた在日韓国人2世で、朝鮮名・鄭建永として知られる。前述した民団(在日本大韓民国民団)の顧問も務めていた。

暴力団・東声会を設立したヤクザである一方、釜関フェリーや東亜相互企業などの事業も手掛けた町井は、1973年には六本木にTSK・CCCターミナルビルという複合ビルをオープンさせている。暴力団としては表向き解散していたものの、実質的にはフロント企業による運営ビルのオープンには、読売新聞社の渡辺恒雄氏や女優の三田佳子氏などが駆けつけた。岸は、その式典にも名前を連ねていた。

両者の関係は、1973年の衆議院でも議題にあがっている。

町井さんと児玉誉志夫さんとの関係が深くなったのも六〇年の安保改定の当時であった、当時自民党筋の右翼結集の呼びかけがあったころであって、この児玉さんを通じて町井さんは岸信介さんを知り、川島正次郎さんも知った、岸さんは、その後町井さんのパーティーなど、よく顔を出していたからね、云々ということを言っているのであります。岸さんといえば元総理大臣でございまして、政界の元老でありまするが、こういう方がその町井さんのパーティーにもしばしば行かれるというくらいの人物でございまするから、これは日本における相当の実力者ではないかと私は思う。

町田は、自民党副総裁の大野伴睦や川島正次郎、朴正煕とも関係を結んでおり、「日韓の懸け橋になる」と述べて、岸のように日韓国交正常化や関釜フェリー就航に尽力したという。また町井をめぐっては、旧統一教会との関係を示唆する国会質問がおこなわれたこともある。ロッキード事件をめぐって、日本社会党・野田哲議員がおこなった質問だ。

児玉譽士夫を通じてこのロッキード事件は韓国にいろんな形で人脈としてつながっているわけでありますけれども、韓国との人脈について伺いたいと思うんです。特に金大中事件について、児玉と密接な関係にある東亜相互企業町井久之、彼のどう言いますか、影響下にある人たちが、あるいは勝共連合、統一教会、この影響下にある人が協力して動いていたのではないかと、こういう情報があるわけでありますけれども

岸から朴正煕、そして自民党の重鎮から戦後右翼のドンである児玉誉士夫まで、日韓をめぐる幅広い人脈が町井の周囲で蠢いていたことが分かるようなエピソードだ。そして町井は、岸を通じて安倍晋太郎も支援していたとも言われる

岸さんが児玉さん経由で、町井さんに晋太郎さんへの支援を要請したと聞いています。韓国民団草創期の大幹部だった町井さんは、下関にも仲間が多く、いくらでも号令をかけることはできましたから

安倍晋太郎の地盤が脆弱だったことは前述のとおりであり、そこに町井氏をはじめとした在日朝鮮人コミュニティが手を貸した可能性は十分にある。

下関港

在日朝鮮人コミュニティや親韓派らの影響もあり、下関港は1960年代に活況を呈していく。1966年には年間水揚げ量が約28万5,000トンを記録して全国1位となるなど、日本を代表する港町として成長した。


現在の下関唐戸市場(663highland, CC BY-SA 3.0

その裏にも、日韓国交正常化という岸の功績が存在していた。

戦後における日韓の国境には、1952年に韓国初代大統領・李承晩によって独自に宣言された李承晩ライン(りしょうばんライン)が引かれていた。これは韓国側が、自国の資源および主権を守るためと主張して設けた海洋境界線であり、日米はそこに抗議したものの、1965年の日韓基本条約締結まで同ラインは存続した。

これにより被害を被ったのが、山口や九州などの漁船員だ。拿捕された漁船は2-300隻、漁船員は2,500-4,000人程度とされており、うち山口県の漁船が拿捕された数は長崎県に次ぐ規模で、漁船員は最も多かったことから、同地域の漁業にとって懸案事項となっていた。山口から多くの陳情があったことも背景となり、岸は事態打開のために動き、こうして前述したように日韓基本条約が実現していく。

安全な漁業環境の確保、ひいては地元経済の成長という意味でも、岸にとって日韓国交正常化は早期に実現しなければならない政治的課題だったのだ。

対韓援助

中で、最も巨大ビジネスとなったのは対韓援助だ。岸は、矢次一夫とともに対韓援助に取り組んでおり、その様子は以下のように述べられる

対韓援助の後ろ盾は岸さんですね。韓国に精通する国策研究会という組織のトップに岸さんと親しい矢次一夫という人がいました。(略)岸さんは大ボスで、福田さんも間違いなくそうですね。

この矢次一夫とは、戦前・戦中に国策の立案に関与した人物で、終戦後は公職追放されたものの、解除後には岸元首相など日本の政治家および韓国・台湾の政財界とのパイプ役になった人物だ。前述した初代駐日大使・金東祚を岸と引き合わせたのも矢次であり、日韓国交正常化のために李承晩大統領と日本側との交渉役も担っている。

矢次の重要性は、彼が民間人でありながら韓国の李承晩大統領とのパイプを有していたことからも伺える。1957年の会談では、李承晩から以下のような言葉を受け取り、岸に報告したところ「喜こんで聞いてくれた」と語っている。(矢次一夫『この人々 : 私の生きてきた昭和史』光書房、1958年)

昔のことをいえば、いろいろと不愉快なこともあるが、いまさらそれを問題にしてもはじまらない、といい、過ぎたることよりも、今後のことが大事だともいわれ、そして、私は日韓両国の次の世代を荷う若い人々が、このままではいつまでもうらみを結ぶおそれがあること、したがって、われわれの時代に、両国百年の親善の基礎 を作ることに、深く思いを致さなければならぬと思う。しかるに、いままでの日本の政治家は、私の気持を理解せず、理解しようともしなかったが、 さいわいにも岸首相は、私の期待にこたえようとしていることを承知して、喜んでいる、といい、さらにつづけて、私は、岸首相と手をたずさえて、両国関係の百年親善の基礎を固め、そして、新アジア建設の大業を完遂したい

岸と矢次が関与した対韓援助でよく知られているのは、ソウル地下鉄の建設事業だ。日本の技術協力によって1974年(昭和49年)に開通した地下鉄だが、この事業をめぐっては後の国会でも疑惑が向けられている。

具体的には、ソウル地下鉄に納入された車両価格の費用高騰で生じた22億円が、三菱商事から朴正煕政権に渡り、日本の政治家にも還流した(リベート)疑惑であり、そこに岸元首相が会長を努めていた日韓協力委員会および同地下鉄の建設に携わった三井物産や伊藤忠、三菱重工などが関与したのではないか、と指摘される。こうした癒着関係は、以下のように描写される

海を越えた満州人脈は、反共の大義や満州国へのノスタルジーだけで繫がっていたわけではない。そこには、アンダーグラウンドなチャンネルも含めて、リベートやコミッションなど、腐敗と癒着の人脈図が張りめぐらされていた。海を越えた利権のループが日韓の満州人脈をとおして成り立っていたのである。その中心にいたのは、いうまでもなく朴であり、岸だった。

とくに、岸は浦項綜合製鉄所やソウル地下鉄建設さらに日韓大陸棚石油共同開発など、主だった日韓の巨大プロジェクトの利権に介入していたといわれている。そこには、「満州国の夜の帝王」と恐れられた甘粕正彦や「阿片王」里見甫ともただならぬ関係をもち、阿片などの専売法や特殊会社を手がけたといわれる岸の影の部分が映し出されている。

事件の真相は明らかになっていないが、岸と矢次ら親韓派が、日韓経済協力や対韓援助を通じて多くの利益を得たことは確かだ

そして前述したように、日韓の経済的パイプと同時に外交チャネルとしての役割を担っていたのが、日韓協力委員会と日韓議員懇談会だが、統一教会もまた、そうした役割を担う組織の1つと見なされていた。(佐藤達也「日韓利権の構造と人脈」『現代の眼』18(6)、現代評論社、1977年)

これらの組織・団体のほかに、KCIA の別働隊である統一協会=国際勝共連合がある。

多くの親韓派団体の中でも、 日韓協力委員会は、親韓派ロビイストの集まりとして、日韓の裏政治での窓口として重要な役割を果たしている。日韓の政府窓口としては、 日韓定期閣僚会議(第一回は六七年開催)があり、毎年(七四、七六年をのぞく)八、九月に開かれるが、日韓韓日協力委員会は、春に開催され、この場で舞台裏の話が煮つまる。たとえば、一九七〇年六月の関釜フェリー就航、同浦製鉄所の建設問題、日韓大陸だな協定締結等は、日韓協力委員会の舞台裏の活躍によって実現されたといわれている。

下関港や釜関フェリーを超えて、岸は日韓経済の大動脈に大きく関与していた。それは「癒着」と批判されるほど強力な関与であったし、戦後政治の暗部に連なる利権構造の一端であったと言える。

親韓派の複雑な眼差し

以上のような政治・経済的背景を考えると、岸信介や安倍晋太郎が単なる「反共陣営の結束」のためだけに韓国との関係改善に腐心したと考えるのは、単純化した見方だろう。

たとえば革新官僚として満州国の経済開発を牽引した岸が、日本と韓国を心情的に重ね合わせたのではないかと推測する論者がいる。

関東軍の絶大な権力を背景に、農業国であった満州に重化学工業を根づかせようと腐心したかつての商工次官(岸)にとって、朴の抱えた問題は自らの経験と重なり合い、貧弱な農業国の韓国に満州国の残映をみる思いがしたのではないか(略)

岸が韓国に注いだ眼差しは、反共主義的な同盟関係の構築という目前のリアルポリティクスによって彩られていた。だが、それだけではなかった。そこにはもうひとつ、満州国の未完の革命を、朴正熙の韓国が実現しつつあるという期待があった。 

岸自身が満州で目指したように、自国の経済的繁栄が安全保障に寄与するという考え方を、戦後の韓国や台湾に適用したという見方もある。また、韓国を「兄弟国」と語るような親近感や植民地統治への贖罪意識など、心理的な要因も無視できない。(*8)簡単に整理するならば、

  • 反共産主義という現実的な政治的要因
  • 植民地主義における「親子」関係を前提としたイデオロギー的要因
  • 日韓経済協力などをめぐる「癒着」とも称される経済的要因
  • 韓国に対する親近感や植民地統治への贖罪意識から生じる心理的要因

など、一枚岩で語ることができない複雑な対韓認識が、岸をはじめとする親韓派の眼差しを形成していたと言える。

(*8)実際、親韓派の1人だった大石武一議員は、軍縮や平和運動に積極的だったハト派として知られており、親韓派の中にも韓国がもたらす経済的利益を目的とした者から、植民地統治への贖罪意識を持っていた者まで、その内実は様々だった。また、親韓派が生まれた背景として、中国や北朝鮮、ソ連などの共産主義国との関係をめぐる自民党内の対立があったことも注目できる。いわゆる親中派、親台派、そして北朝鮮との関係を模索するグループなどが生まれ、親韓派もそうした国際政治の動向を反映していた。共産主義への対抗やアジアにおける日本の立ち位置は、当時の死活問題であり、自民党内にも様々な立場が存在していた。

日韓関係の "ねじれ" として

そして、こうした対韓認識が戦後の日韓関係をより混乱させたことも事実だ。「韓国の交渉相手が皮肉にも大東亜共栄圏の主唱者であった岸であったということが、戦後韓日関係のねじれを物語っている」と言われるように、東アジアへの侵略や植民地統治を正当化する論理の1つとなった大東亜共栄圏を構想した岸が、戦後の日韓関係の立役者となったことは、両国間に禍根も残した。(*9)

こうした "ねじれ" は、韓国内でも強く認識されていた。たとえば朴正煕政権下に地下組織として活動していた左派団体・統一革命党の機関紙には、以下のような主張が展開されている。(「韓日ゆ着白書 ―『革命戦線』4月10日付」『月刊朝鮮資料 18(10)(209)』朝鮮問題研究所、1978年)

日本帝国主義の軍事封建的性格と植民地韓国の前近代的封建遣制にもとづく韓日ゆ着は、一九世紀末以来、幾世代にもわたって歴史的に形成された人的系譜に端を発している。

日本の親韓派は、征韓派というその本来の名称が示唆しているように、明治維新の草創期に韓国征伐を高唱した大陸浪人を祖先としている。悪名高い征韓論者西郷隆盛の征韓党と東洋三国同盟論者頭山満の玄洋社、大アジア主義の提唱者内田良平の黒竜会は、大陸浪人二世によって引き継がれ、かれらは日本の極右勢力と親韓派集団の骨幹を形成している。

韓日間の現役黒幕要員としていまも活動している児玉誉士夫、笹川良一、岸信介、椎名悦三郎など親韓派の大物は、その大陸浪人の二世たちである。(略)

日本軍国主義者は、援助の分担を要求するアメリカ帝国主義の政策に便乗して韓国で植民地宗主国の昔の地位を回復し、大東亜共栄圏の昔の夢を再現しようと狂奔している。過去の日本帝国主義がいわゆる栄光の帝国主義として賛美されるなかで、日本政府の一閣僚は「大東亜共栄圏、どんなにすばらしいことか。 昔はそれを軍事力で構築しようとしたが、こんどは経済力で築こうと思う」と、誇らしげにうそぶいている。

大東亜共栄圏は夢としてだけ残っているのではない。その経済版、縮小版は韓日ゆ着の黒雲のもとに、韓半島の南部と日本列島を包括する地域で、遠い将来ではなく当面の現実として蘇えっているのだ。

この主張の是非はさておき、大東亜共栄圏に連なる政治家によって戦後の日韓関係が規定されたこと、なかでも岸や朴正煕らのパイプが、政治に限らず経済分野でも大きな存在感を放っていたことは紛れもない事実だ。

日本の親韓派らは、反共産主義という大きな旗印に限らず、自らの選挙地盤や経済的利益など様々な思惑を抱えながら韓国に関与した。そして日本の植民地統治に協力した朴正煕によって打ち立てられた軍事政権は、その協力者であり、親密なカウンターパート(交渉相手)であった。その "ねじれ" が規定した戦後の日韓関係において、在日朝鮮人コミュニティなどの苦難の歴史は、ほとんど覆い隠されてきた。

(*9)もちろん岸が交渉相手だったことのみが、直接的に禍根を残したわけではない。神戸大学の木村幹教授が述べるように、当時の韓国の国力(経済力)が日本に比べて貧しかったこと、それにより交渉での譲歩が生じた(と韓国側が考えている)こと、韓国側の交渉主体が、植民地統治に協力した朴正熙だったことなど複数要因が背景にあり、近年の二国間対立も冷戦構造の終焉や韓国の経済成長および国内政治の動向など、複数のポイントから説明される。

安倍晋三元首相の変容

ここまで、祖父・岸信介と父・安倍晋太郎が、韓国や在日朝鮮人コミュニティと密接な関係を築いてきた歴史を見てきた。では安倍晋三元首相は、どのような関係を持ってきたのだろうか。

結論から述べるならば、ジャーナリストの青木理氏が

在日コリアン1世の実業家・吉本章治と深い関係を切り結んだのは晋太郎であり、晋三はその "遺産" を引き継いだだけの存在にすぎない

述べるように、両者の間に特筆すべき関係があったわけではない。前述したように、安倍元首相は韓国との現実的な外交関係を模索した時期がありつつも、政権後半には日韓関係の悪化を迎えるとともに、排外主義的な主張を繰り返すネット右翼層が支持基盤の1つとなってきた。その意味では、意外性のない結論に見えるかもしれない。

しかしながら、両者の間には注目に値するポイントもある。具体的には、2012年に第二次安倍内閣が誕生する以前の、韓国および在日朝鮮人コミュニティに対する姿勢からの変容だ。

韓国への親近感

まず2000年代前半、山口と韓国の地理的・歴史的近接性に触れながら親近感をアピールする姿勢は、祖父や父と変わらない様子が伺える。2006年10月、韓国の韓明淑首相(当時)との昼食会では以下のように、韓国との近さを語っている。

北京から政府専用機でソウルに移動した直後だった。「地元の下関は韓国に一番近い町。朝鮮通信使が上陸した場所には碑がある。下関の焼き肉は日本一だ」―。最初の首相就任から14日目の2006月10月9日の昼過ぎ、当時の韓国首相、韓明淑(ハンミョンスク)氏が主催する昼食会でこう述べ、場を和ませた。

そもそも2006年の第一次安倍内閣の発足当初、安倍元首相がまず取り組んだのは、冷え込んだ日中・日韓関係の改善だった。就任直後の官邸メールマガジンには、以下のように記されている

日本はアジアの国。アジアの国々との交流を大切にしていきたい。そのためにも、私の総理大臣としての初めての訪問先に、日本にとって大切な隣国である中国、韓国を選びました。(略)

パロ イウッ サーチョニムニダ。隣人は従兄弟である。

2000年代前半と言えば、北朝鮮による核実験や拉致問題などにより日米韓の連携が求められていた時期でもあり、こうした姿勢だけを見て、安倍元首相と韓国の近さを断定することはできない。とはいえ儀礼的な挨拶だけでなく、韓国語をメールマガジンに載せてリップ・サービスをおこなう様子からは、後のネット右翼層から称賛を集める安倍晋三像とは距離があるように思える。

同じ年に発表された著書『美しい国へ』でも、安倍元首相は冷え込んだ日韓関係に対して、楽観的な見方を示す

日韓両国はいまや一日一万人以上が往来しているという重要な関係にある。日本は長いあいだ、韓国から文化を吸収してきた歴史をもつ。その意味では、韓流ブームはけっして一時的な現象ではない。わたしは日韓関係については楽観主義である。韓国と日本は、自由と民主主義、基本的人権と法の支配という価値を共有しているからだ。これはまさに日韓関係の基盤ではないだろうか。

わたしたちが過去にたいして謙虚であり、礼儀正しく未来志向で向き合うかぎり、かならず両国の関係は、よりよいほうに発展していくと思っている。

こうした姿勢は、外交イベント以外からも読み取れる。

リトル釜山フェスタへの参加

まず、地元における在日コミュニティとの交流だ。たとえば2009年11月23日には、リトル釜山フェスタに参加している。安倍元首相は、自らのメールマガジンの中で

リトル釜山フェスタは焼肉屋、韓国料理屋、韓国の食材店が軒を並べるグリーンモールで開催されるお祭りです。このお祭りにも、本場の味を求めて多くの人が訪れます。

と紹介している。

興味深いことに、このメールマガジンの記事は後に削除されている同月9日17日の記事が残っていることを考えると意図的に削除した可能性が高いものの、その理由は明言されていない。同イベントへ参加した様子や当日の写真については、ネット上のまとめサイトなどにも掲載され、「ネトウヨが眼を背ける真実」や「どうみても親韓です、本当にありがとうございました」などと揶揄されている。

2004年や2013年(第二次安倍内閣が成立した翌年)には、安倍昭恵首相夫人が同フェスタに参加して、「日韓関係が大変なときにお祭りが盛り上がっていてうれしい」と語っている。安倍夫人は韓流ファンであることも知られており、2006年には同夫人が韓国語を学びはじめた経緯や、俳優パク・ヨンハのファンであることが韓国メディアでも報じられている。

第二次安倍政権の後半、安倍元首相が公に韓国との親近感を示すことは極端に少なくなったが、2015年の日韓国交正常化50周年記念式では、以下のようにリトル釜山フェスタの存在にも触れている。

50年前の当時、私の祖父の岸信介や、大叔父の佐藤栄作は、両国の国交正常化に深く関与しました。(略)私の地元である下関は、江戸時代に朝鮮通信使が上陸したところです。下関市は、釜山市と姉妹都市となっており、毎年11月には、『リトル・プサン・フェスタ』というお祭りが開催されます。

こうしたイベント以外にも、2001年には朝鮮通信使の上陸地に建てられた記念碑の除幕式に参加したり、2009年には在日韓国商工会議所の晩餐会に参加している。要職に就いていない時期に幅広いイベントに参加できるという事情はあるものの、この時期に韓国との距離感がそれほど遠くなかったことは想像に難くない。

地元での「集票」

こうした草の根の政治活動において、下関の在日コミュニティとの関係性も見逃せない。安倍元首相は、父・安倍晋太郎の選挙地盤をそのまま引き継いだことで、支援者も継承された。すなわち、父の代から続く在日支援者たちとの関わりも継続されていた。

具体的には、2006年の朝日新聞に「『集票』を巡っても父から子へと在日社会とのかかわりは続いてきた(『朝日新聞(西部版)』2006年9月4日)として、晋太郎の代から安倍家を支援してきた在日朝鮮人の名前が挙げられている。前述した吉本氏と同様、パチンコ店を経営する在日2世の経営者が、選挙権のある日本人従業員を通じて「支援」をおこなっていたことなどが語られている。

ただしこの記事には、韓国や中国に強硬な姿勢も見せる安倍元首相に対する、支援者からの懸念の声も載せられている。

安倍元首相は、2019年に閉店した下関の焼肉屋アリランに足繁く通っていた。韓国南部に位置するスンチョン(順天)市出身の在日1世が営む店で、第2次安倍内閣時代の2014年や、第3次安倍内閣時代の2015年にも顔を出している。ここまで見てきた歴史を踏まえれば、下関に韓国ルーツの焼肉屋が多いことは珍しい話ではない。しかし、日韓関係の冷え込みやネット右翼層との親和的な言説によって、こうした在日朝鮮人コミュニティと所縁ある店に通うことを揶揄するようなネットの書き込みもあり、在日朝鮮人コミュニティの間にも懸念が広がっていたようだ。

朴槿恵氏との交流

安倍元首相は、政治家レベルでも韓国との交流を持っていた。北朝鮮による拉致被害者問題に取り組んでいた2000年代前半には、韓国の拉致被害者家族の集まりや北朝鮮の人権問題を扱う韓国の国会議員と交流しており、こうした姿勢が韓国内で評価されたこともあった。

また2006年、当時の野党・ハンナラ党党首であった朴槿恵元大統領が、遊説中にカッターナイフで切りつけられ、骨にまで達する傷を負った事件があった。当時、官房長官だった安倍元首相は、お見舞いの英文の手紙と神戸牛を送っている。英文の手紙には、自身の直筆署名と共に、議員として共に課題や問題を乗り越えたいという想いや、早期回復を願って牛肉を送ったことなどが記されていたという。2人は以前に日本で面会しており、「相性が良いようだ」と挨拶した経験もあった。

朴槿恵は、前述した朴正煕の娘であり、安倍元首相は祖父・岸信介や父・安倍晋太郎の世代から交流を持っていた、"2世政治家" 同士でもある。2人は慰安婦問題をめぐって緊張感を漂わせた時期もあるが、2015年には「最終的かつ不可逆的な解決」を確認した慰安婦問題日韓合意に至るなど、日韓関係の改善を実現することになる。

「血が互いに混じり合って」

金東祚元外相に、韓国の "血脈" を語った岸信介や、「私は韓国人」だと語った安倍晋太郎のように、安倍元首相もまた韓国の "血" について触れたことがある。朝鮮日報系のオピニオン誌、月刊朝鮮による2005年5月のインタビューで、

安倍幹事長代理が生まれた山口県油谷町(*10、引用者注)は、朝鮮半島に最も近い場所だ。先祖は、朝鮮半島から来た渡来人ではないだろうか

と尋ねられ、

山口地域は昔から朝鮮半島と交流が多かったです。したがって、そこの人々は血がお互いに混ざったでしょう

と答えている。

ちなみに、2000年代前半の韓国メディアでは、安倍晋三に韓国系の "血" が流れているか、という問いかけが散見された。たとえば2006年の東亜日報では、佐藤栄作元首相が「私たちの先祖も、朝鮮から渡って山口に定着した」と発言した過去に触れながら、その縁戚である安倍晋三についても「佐藤家門の血を受けた安倍晋三も、韓国と全く縁がないとは言い難い」と述べている。韓国の左派系メディアであるプレシアンも、この報道を引く形で「安倍晋太郎が韓国系が多い山口県出身という事実は、安倍に韓国人の血が濃く流れていることを証明するものだ」と語る

こうした推測が事実であるかはさておき、韓国メディアが一時期、安倍晋三と韓国の所縁を強調することは珍しくなかった。安倍を「極右政治家」と位置づけつつ、韓国との血縁を見出すことは、単なる物珍しさだけでなく、隣国の若いリーダーへの強い関心が伺い知れる。

(*10、引用者注)山口県大津郡油谷町のこと、現在の長門市。また安倍晋三は出身地を「山口県」としているが、実際の出生地は東京都。首相官邸のサイトでも、「出身地は原則として、戦前は『出生地』を、戦後は『選挙区』を記載した」と記されており、生まれを山口県とするのは不適切である。

在日へのトラブルを危惧

1994年、国際原子力機関(IAEA)の査察をめぐる北朝鮮・金日成国家主席の発言を受けた安倍元首相の国会答弁も、興味深い一面を覗かせている。まず安倍元首相は、以下のように質問する。

この問題が発生をいたしましてから、我が国に定住をしておられます在日朝鮮人・韓国人の皆様との関係でございますが、こういう問題が起こりますとやはり多少在日の皆様に対していろいろなトラブルが発生するということもあるのではないかと思うわけでありますが(略)

その上で、北朝鮮情勢に関連した在日朝鮮人への暴行・嫌がらせ事案の数を聞いた安倍元首相は、以下のように述べる。

我が国は自由と民主主義、また人権という各国共通の普遍的な価値を大切にする国であるわけでありますが、そういう中においてこういう事件が発生することによって日朝間だけではなく日韓の関係に対しても大変悪い影響が起こってくるという危険性があると私は思うわけであります。 こうした事件が今後起きないように今後とも政府として、警察庁として、あるいは例えば学校教育の現場においてそういう努力をしていっていただきたいと思うわけであります(略)

国会における形式的な質問であるとも言えるが、在日朝鮮人に対する眼差しからは、ネット右翼を支持基盤の1つとしていく、後の安倍晋三像から逸脱した印象をも受ける。

安倍晋三の変容?

ところが、こうした姿勢は第2次安倍政権の半ば、具体的には2015年頃から明らかな変容を見せ始める。前述したように、2018年頃からは外交レベルで日韓関係のほころびが目立ち始め、安倍元首相もネット右翼に親和的な言説を隠さなくなる時期だ。

たとえば2018年には、森友学園をめぐる朝日新聞の報道を批判した議員のFacebookに「哀れですね。朝日らしい惨めな言い訳。予想通りでした」とコメントしている。また慰安婦問題に関しても「植村記者と朝日新聞の捏造が事実として確定したという事ですね」というコメントをおこない、のちに削除している。冒頭で触れたような「韓国との歴史戦」といった価値観も、この頃から言及される回数が増えていく。

ただし安倍元首相は、第2次安倍政権半ばから突如として変容した、もっと言えば、従来は韓国に親和的な態度だったにもかかわらず、ネット右翼的な言説に "毒された" と理解することは、誤った見方だ。なぜなら2000年頃までの安倍元首相が、韓国に対してそれほど強固な姿勢を見せていなかったことも事実だが、政治家としての初期から一貫して、ネット右翼や保守論壇と近しい姿勢も見せていたからだ。

たとえば自身の初当選からわずか2年後の1995年、「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛」を与えたことについて、「痛切な反省の意」を表した村山談話に反対している。当時、安倍元首相は、終戦五十周年国会議員連盟という議員連盟の事務局長代理だったが、あわせて「東京裁判に毒された歴史観を建て直し、正しい歴史観を確立」することを目指す、歴史・検討委員会という自民党の右派勢力にも名前を連ねていた。同委員会には、当選した1993年から "抜擢" されており、若手議員として現在の歴史観に繋がる「英才教育」を受けていたと言われる。

こうした「英才教育」ぶりは、2000年以前に参加した複数の団体からも伺える。たとえば慰安婦問題や南京大虐殺への否認などをおこない、「新しい歴史教科書をつくる会」と連動する形で、日本の歴史教育を問い直した「日本の前途と歴史教育を考える議員の会(教科書議連)」(1997年設立)や「日本会議」(1997年設立)への参加などだ。

2000年の官房副長官時代、自らの政治家としての強みを模索した安倍元首相が、苦肉の策として「祖父である岸を継いだ『超タカ派政治家』という鎧を身につけること」を選択したという主張もあるが、それは1990年代からの連続性を見落としているだろう。

たとえば1998年のインタビュー(安倍晋三「戦後世代の若手議員が国防を論じるとき」『祖国と青年 29(11)(242) 』日本協議会、1998年)では、後の歴史認識や日韓関係への見立てに繋がる立場が確立されており、そこには断絶性というよりも連続性が確認できる。

今回もこの共同宣言で「謝罪」したことで過去の問題に「区切りをつけた」といいますが、金泳三大統領の時も、盧泰愚大統領の時も、全斗煥大統領の時もそう言っ たんです。だけど、今に至るまで「過去の歴史問題」は政治の道具として使われ続けてきている。

この問題を終らせるためには、何よりわが国政府の決断が求められている、というのが私の見解です。韓国側に「もう過去のことはこれで言わないでほしい」と期待するんじゃなくて、わが国政府が「過去については今後一切触れない」と決意するということです。例えば、日本の総理大臣が韓国に行った時、新しい大統領が過去について触れても、こちらは一切触れない。極めて評判が悪くて叩かれるかもしれないが、それでも押し通す。 この最初の難関を突破すれば、その後は、もうそういう問題は出ませんよ。

一貫性と断絶性

上記で示されるような外交観や歴史観、2000年以前からネット右翼や保守論壇と親和的な政治団体に参加していた事実を踏まえると、安倍元首相の立場を大きな連続性の中で捉えることが出来るだろう。しかし一方で、2010年代半ばよりも前に、在日コミュニティと交流を持ち、韓国への親近感すら見せる様子からは、第二次安倍政権前後の断絶性を強調することが出来るかもしれない。

本記事はあくまで、岸信介から安倍晋三元首相に至るまでの韓国および在日朝鮮人コミュニティとの関係性を紐解き、統一教会も関与する戦後の日韓関係の複雑性を概観するものだ。そのため、ここで安倍元首相の連続性と断絶性について、何らかの答えを出すことが目的ではない。

当たり障りない結論を言うならば、岸信介に憧れて「保守的な価値観」を育んできた政治家が、ネット右翼に "横滑り" しただけとも言えるし、そこに在日韓国人に対するヘイトスピーチなどの時代性が反映されたことで、断絶性が強調されただけなのかもしれない。

しかし最後に、その僅かな "変容" に戦後の日韓関係の "ねじれ" を見出すことで本記事を締め括ることは、一定の意義を持っているだろう。

戦後の日韓関係の "ねじれ" として

ここから、大きく2つの仮説を見ていこう。1つは、第二次安倍内閣以降にネット右翼への親和的な言説を隠さなくなった変容を、政治家としての合理性から理解する見方だ。もう1つは、こうした変容そのものを、祖父・岸信介や父・安倍晋太郎から受け継いだ、日韓関係の "ねじれ" として理解する見方だ。

政治家としての合理性

前者については、2010年頃に生じた自民党の右傾化という現象から傍証することが出来る。

一時期のメディアなどで喧伝された「日本の右傾化」については、実証的には慎重な見方が必要だ。複数の研究(*11)が、日本の世論レベルにおいて右傾化が確認出来ないことを明らかにしている。

しかし中京大学の松谷満教授は

人々の意識は全般的に右傾化しているわけではないが、部分的には右傾化とみなしうる変化を確認できる。具体的には、ナショナリズムにおける優越感の高まり、韓国人や中国人に限っての排外意識の強まりである

述べており、排外主義的な言説が高まってきたことを指摘する。その上で中央大学の中北浩爾教授と一橋大学の大和田悠太特任講師は

自民党は、無党派層が多くを占める有権者からの集票を最大化するためではなく、国会議員・地方議員、党員・支持者や友好団体などを含む内部の結束を固める目的で、リベラル色の強い民主党との違いを強調し、右派的な理念を掲げた可能性が高い

述べる。つまり日本全体の「右傾化」という広い現象は確認できずとも、排外主義的な意識の高まりや自民党の右傾化については、一定度まで確からしい事実と言える。特に中北教授は、自民党の右傾化について ① 世論の変化 ② 支持基盤の変化といった要因を退けつつ、③ 政党間競合の変化 ④ 政党組織の変化という要因によってもたらされたと言う

安倍元首相の言動について、こうした変化に適合的だったという仮説が挙げられる。実際、安倍元首相は自民党の右傾化に一定の役割を果たしており、

二〇〇九年からの野党時代、リベラル派の谷垣総裁の下で自民党の右傾化が進展したのは確かであるが、党内で駆動力となったのは、〇五年の綱領および改憲案を主導した安倍晋三を会長とする創生「日本」であった。したがって、以上にみた政党間競合の変化に加えて、右派の理念グループの台頭が、自民党の右傾化をもたらした副次的な原因である

指摘される。自民党の下野時代、党全体での右傾化が進む中、従来保守的な立場を取ってきた安倍元首相が、自身のイデオロギーをより右に広げることで党のリーダーとなり、同時に党の右傾化を推し進めたと言える。

(*11)たとえば、竹中佳彦・遠藤晶久・ウィリー ジョウの研究や谷口将紀の研究などが挙げられる。

戦後の日韓関係に埋め込まれた "ねじれ"

後者は、安倍晋三元首相の "変容" そのものを、戦後の日韓関係に埋め込まれた "ねじれ" として捉える見方だ。

本記事で見てきたように、祖父・岸信介は、東アジアへの侵略や植民地統治を正当化する論理の1つとなった大東亜共栄圏を構想した一方で、戦後の日韓関係の立役者となった。岸の中に見出される論理は、隣国である韓国を敵視するのではなく、親近感を抱きつつも、あくまで優劣の関係性を前提としつつ、"未熟" な韓国を「指導」したり「庇護」するものだった。ここで重要なのは、岸らの論理において、韓国があくまで劣後な地位に置かれている必要があり、対等な立場はあってはならないことだった。

しかしながら2010年前後、こうした前提の崩壊が顕在化していく。

この頃に「嫌韓」現象が盛り上がった理由としては様々な研究があるものの、日韓の経済的・政治的な力について逆転現象が起こったことと無関係ではない。2010年には、1人当たりGDPで韓国が日本を猛追しているという報道が増え(*12)、サムスン電子や LG 電子、ヒュンダイ自動車など韓国企業の世界的躍進も注目された。日本では東方神起、少女時代、KARA などの第二次韓流ブームが起こったが、同時に2011年には韓国コンテンツの放映に対して抗議する「フジテレビ抗議デモ」が生じるなど、韓国に対する相反する感情が露呈していく。(*13)

つまり、岸が "理想とする" 日韓関係の前提となっていた両国間の優劣関係は、2010年前後には名実ともに崩れてしまったのだ。

日韓関係については、以下のように指摘される。

脱植民地化、歴史認識をめぐる諸問題は、日韓双方がそれぞれの国内向けに異なる主張をすることを双方が認めるという形で「決着」した。つまり、「冷戦」体制下における日韓の「経済協力」による反共自由主義陣営の強化という目的を優先させたために、「脱植民地化」、「歴史認識」 の問題は封じ込められることになった

この日韓関係に埋め込まれた "ねじれ" の封じ込めが表出するならば、韓国に対する親近感は、必然的に帝国主義的な眼差しへと横滑りし得るのではないだろうか。第二次安倍政権以前、安倍元首相が示していた韓国に対する眼差しは、あくまでも同国が政治・経済的に劣後な地位にあることを前提としたものであり、それは帝国主義や植民主義の問題を棚上げした故のものだった。

一見すれば "変容" したように見える韓国への眼差しは、朴正煕の "指南役"・岸がそうであったように、あくまでも帝国主義の産物として、「親子」や「兄弟」、あるいは「中心 = 周縁」を前提とした、"ねじれ" の中では一貫した世界観だったのだ。

(*12)2023年には、台湾と併せて1人あたりGDPが日本を追い抜くと予想されている。
(*13)ただし、日本における排外主義の高まりを接触仮説や集団脅威仮説などだけで説明するのではなく、メディアにおける外国人表象の変化や、旧植民地となる近隣諸国との関係悪化から説明する仮説は、説得力があるものの十分に実証されていない。この点は、永吉希久子の研究を参照。

"ねじれ" と合理性

ここで見た2つの仮説は、表裏一体だ。表出した戦後の日韓関係における "ねじれ" の問題を根本的に問い直すのではなく、パッケージ化された「歴史戦」や「謝罪外交」の政治問題として扱うことは、安倍元首相にとって自身の支持層と適合的であり、政治家としては合理的な選択となるからだ。

こうした合理性は、帝国主義や植民地主義の問題を和解や謝罪の位相から、反共イデオロギーや経済協力の問題にスライドさせた、岸や朴正煕の姿勢と共鳴している

戦後の日韓関係の "ねじれ" は、冷戦という大国間の論理やアジアの経済発展によって生み出されると同時に、政治・経済的な成功によって長らく覆い隠されてきた。しかし漢江の奇跡や高度経済成長など、東アジア全体が急速に経済成長を遂げていた時代が終わったことで、再びその影を見せ始めた。

第一次安倍政権時代、自身のイデオロギーを前面に押し出すことで失敗した安倍元首相は、自身の失敗から学び、経済問題にフォーカスすることで、憲政史上最長の政権を樹立した。もし安倍元首相が再びイデオロギーに拘泥していたならば、逆説的に、戦後の日韓関係における "ねじれ" の封じ込めに早い段階から失敗していたかもしれない。その意味で安倍元首相は、紛れもなく岸信介の後継者であった。

岸信介に象徴される55年体制は、新たに「ネオ55年体制」と呼ばれる形で、安倍元首相に継承された。しかし残されたのは政治システムだけでなく、岸や朴正煕、そして旧統一教会までが絡み合う、日韓関係の "ねじれ" に代表される戦後レジームそのものだった。安倍元首相銃殺事件と旧統一教会問題は、そのレジームから未だ脱却していないどころか、それらが複雑に深部まで絡み合っていることを示唆する事件だった。

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✍🏻 著者
編集長 / 早稲田大学招聘講師
1989年東京都生まれ。2015年、起業した会社を東証一部上場企業に売却後、2020年に本誌立ち上げ。早稲田大学政治学研究科 修士課程修了(政治学)。日テレ系『DayDay.』火曜日コメンテーターの他、『スッキリ』(月曜日)、Abema TV『ABEMAヒルズ』、現代ビジネス、TBS系『サンデー・ジャポン』などでもニュース解説。関心領域は、メディアや政治思想、近代東アジアなど。
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