Moon Jae-in the 19th President of Republic of Korea(Jeon Han, Ministry of Culture, Sports and Tourism Korean Culture and Information Service) , Illustration by The HEADLINE

なぜ平和の少女像を「日本国民の心を踏みにじる行為」と感じる人びとがいるのか?

公開日 2019年08月22日 12:53,

更新日 2023年09月13日 14:54,

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国際芸術祭『あいちトリエンナーレ2019』の企画「表現の不自由展・その後」をめぐって、現在も議論が続いている。混乱の発端には、平和の少女像の存在もあった。

一部の政治家は、平和の少女像が展示されることを批判しており、たとえば松井一郎大阪市長は「我々の先祖がけだもの的に取り扱われるような展示物を展示されるのは違う」と述べ、河村たかし名古屋市長は「日本国民の心を踏みにじる行為」として展示の中止を求めた。

こうした言説は今にはじまったことではないが、改めてなぜ河村・松井両氏のような人々は平和の少女像の展示を「日本国民の心を踏みにじる行為」だと感じるのだろうか。

負の歴史が自国民を傷つける

慰安婦問題は、歴史的事実を明らかにする学術的なレベルを超えて、1990年代以降からは日韓を中心とした政治・外交的イシューになっている。日韓が歴史認識問題を政治化することになった経緯は木村幹の著作に詳しいが、80年代から紛糾してきた問題は現在でも日韓関係の大きなイシューとなっている。

重要なことは、ひとくちに慰安婦問題と言っても日韓関係をめぐる政治・外交的レベル、歴史的事実のレベル、戦時下における女性や人権などの問題として扱うレベルなどの論点があることだ。日本におけるネット空間では、しばしば慰安婦問題=強制性の有無が論点だと解釈されがちだが、これらを切り分けて考える必要がある。

複雑な論点の中で、日韓両国のみならず日本国内においても歴史認識、とりわけ慰安婦をめぐる感情的な応酬は根深い。松井市長の発言は右派の認識として珍しいものではなく、なかでも2014年に朝日新聞が慰安婦に関する一部の記事を訂正・取り消ししたことを受けて、こうした言説は加速した。

たとえば安倍首相が、「誤報で多くの人々が傷つき、悲しみ、苦しみ、怒りを覚えたのは事実だ。日本のイメージは大きく傷ついた」と述べるなど、慰安婦をめぐる報道で「日本人が傷つき、イメージが悪くなった」と主張する人々は少なくない。

自国の歴史をめぐる研究・言説が、自国のイメージを下げたり、自国民を傷つけているという認識は珍しいものなのだろうか?たとえば、日本と同様にその歴史認識が注目を集めてきたドイツはどうだろうか。

ドイツのケース

ナチス・ドイツがもたらした誤りについて、ドイツが戦後おこなってきた取り組みを総称して「過去の克服」と呼ぶ。ジャーナリストの熊谷徹は、ドイツが「我が国とは対照的に、歴史認識についてぶれを見せない国」であり「政府と社会が歴史認識をめぐり一貫した姿勢を取り続けている」と述べている。こうした比較は、日本と対比してドイツが一貫して優れた過去の克服を実現してきたという認識のもとで、しばしばメディアなどに登場する。

しかしながら、「過去の克服」をめぐる実証的研究では、事態がそれほど単純ではなかったことが示されている。日本語で読める「過去の克服」に関する石田勇治による優れた著作では、「ナチ時代の過去を真摯に反省し、そこから未来への教訓を導き出そうとする人びとがいる一方で、これを『自虐的だ』といって切り捨て、『いい加減ケリをつけよう』とする人びとがいる。後者はなにもネオナチや極右勢力に限らない。ドイツの『過去の克服』はこのふたつのせめぎ合いで行きつ戻りつの経過をたどりながら現在にいたった」ことが説明されている。

芝健介が指摘するように、戦後すぐのドイツでは「ホロコーストを比較不能の特異な戦争犯罪とし、ヒトラーないしナチ一部集団のみに帰責するという捉え方は、自分がナチ体制のひとりであることをけっして認めず、あくまで『他者』と解することで重大な精神的打撃・阻碍から自らを守ろうとした」人々が多数派であった。

「”ナチスの過去を自らのものとして引き受けるドイツ”といった国民を巻き込んでの現象、そして”集団的記憶としてのホロコースト”という現在のコンセンサスは、けして戦後一貫したものではなく、1980年代を境として出現し、現在に至っている」と田中直が説明するように、1980年代から国民レベルでの認識に変化が生じていった。

1980年代以降の変化要因については、TV番組の影響や政治家の言説、人権意識の高まりなど様々な指摘があるが、重要なことはドイツ国内の過去をめぐる国民の意識も決して一貫していたわけではない点だ。ドイツにおいても、ナチスの犯罪とドイツ国民の責任は別であるという声や、何世代にも渡って過去の罪を背負うことは好ましくないという声が、メディアや政治家、国民から定期的に噴出していた。そのなかには、ナチスの罪をドイツ全体に帰するのは国家や国民の名誉を傷つけることになるという趣旨の主張も見られる。

慰安婦をめぐる「日本人が傷つき、イメージが悪くなった」という言説は、こうした過去の主張と近似している。すなわち、自国の負の歴史をめぐる研究・言説が、自国のイメージを下げたり、自国民を傷つけているという認識は決して珍しいものではない。

この言説をどのように乗り越えることができるのだろうか?

アレントとヤスパースの問いかけ

ナチスの罪は、ドイツ人が背負うべきなのか?それは反ナチスのレジスタンスに参加したり、外国に亡命したようなドイツ人であっても同様なのか?ドイツ人という人種・民族が悪いという論理は、ユダヤ人そのものを悪とする反ユダヤ主義の裏返しではないのか? ー これらは、カール・ヤスパースやハンナ・アーレントのような思想家・哲学者が向き合った戦争責任に関する古典的な問いかけであった。

彼らの応えを乱暴にまとめるならば、集団的な罪は否認しつつ集団的責任を肯定することである。

集団的な罪とは、「ドイツ人であること自体が罪である」という見方だ。集団的な罪を否認することは、一見するとナチスの罪から目を背けたり、ドイツ人を免責しているように見えるかもしれないが、そうではない。むしろドイツ人や民族それ自体を罪としてみなすことは、「ユダヤ人であること自体が罪である」というナチスの発想を繰り返す危険性を持っている。またドイツ人をおしなべて罪を背負っていると規定することは、司法訴追を受けたナチ党員と一般市民を同列に扱うことであり、重大な罪を相対化する危険性も持っている。そのため、ドイツの政治家たちは一貫して集団的な罪を否認してきた。

しかし同時に、ナチスに直接関わっていない人びとであっても、あるいは戦後に生まれた第二次世界大戦に直接関わっていないような世代であっても、ドイツ民族として責任を引き受けるという考え方は強調されてきた。これが集団的責任と呼ばれるものであり、政治家をはじめとしてドイツの「過去の克服」にとって重要なコンセプトとなる。

ホロコーストがヒトラーや側近によって意図的に進められたため、それ以外のエリート層やドイツ国民の責任はほとんどなかったという立場や、一般市民はユダヤ人の迫害はまだしも大量虐殺については知らなかったという主張は、ホロコーストの罪から免責を願う人びとに根強く存在していた。こうした人びとに対して、1985年のヴァイツゼッカー大統領による演説をはじめとして、ドイツは粘り強く集団的責任を訴えていくことになる。

このコンセプトは、慰安婦をめぐって「日本人が傷つき、イメージが悪くなった」と考える人びとにも示唆的だ。

まずはじめに、日本人であること自体に罪はないという点を確認する必要がある。「日本人が傷つき、イメージが悪くなった」という言説には、慰安婦をめぐって日本そのものが責められているという解釈が前提となっているが、既に述べたように「日本人だから悪である」という論理は民族や人種によって善悪を定義する見方であり、戦後の国際社会では一貫して否定されてきた。

問題は、実際には「日本人だから悪である」という批判を受けているわけではないにもかかわらず、日本人が傷ついたと考える人びとはそうした批判を受けたと思い込んでいる点だ。「反日」という言説からも推測できるが、慰安婦の問題が国家そのものの否定という論理にすり替わっている。この誤りが修正されないかぎり、少なくとも国内で冷静な議論が広がっていくことは難しいだろう。

彼らには、集団的責任の重要性を訴えかける必要がある。

「和解:そのかたちとプロセス」において河原節子は、和解の形式を以下の4つに分類している。

(1)謝罪と赦し
(2)賠償と補償
(3)記憶と歴史
(4)真実の語り(truth telling)

責任と和解は異なる行為だが、集団的責任を追うことは結果的に和解のプロセスをなぞることになるため、集団的責任の重要な構成要素とみなすことができるだろう。慰安婦をめぐる議論で政治問題化されるのは主に(1)と(2)だが、日本が負っている責任を考えると(3)と(4)も重要である。

特に慰安婦問題については、(3)と(4)が混同されていることも影を落としている。共通の記憶や歴史を継承することは重要であり、実証的に歴史的事実を明らかにすることは大前提であるが、同時に数少ない慰安婦たちの語りを保存していくことも重要である。しかし慰安婦問題が政治化されていることで、個々の語りについても「史実であるか」という観点からだけフレームアップされ、時には謂れなき誹謗中傷を受けることになっている。

集団的責任を負う側が歴史的事実のみを強調して、彼らの語りに耳を傾けないことは、その責任や和解を放棄していると見なされても仕方がないだろう。

「日本は十分に謝罪した」という主張や、それに対する「永遠に謝罪をしなければならない」という反論はよく見かけられるが、こうした議論はいずれも責任や和解の多層性を十分に理解していない。国連総会決議によって2009年が「国際和解年」とされたように、現代では和解という概念が重視されつつあるとともに、それが政治的合意や謝罪、補償などに留まらないことも示されている。

問題化から30年近くが経過した現在でも(1)と(2)を乗り越えられないばかりか、(3)と(4)についても十分に実現していないことを考えれば、日本が集団的責任について未だ批判を受けることは妥当だと言えよう。

普遍的人権

集団的責任の重要性が広く認知されるためには、どのような条件があるのだろうか。

ジェフリー・K・オリックは、政治的指導者が過去の誤ちを謝罪する世界的潮流を生み出した理由の1つに、普遍的人権という概念が広まったことを挙げている。「人権は普遍的なものであり、世界中で適用可能であるだけでなく、過去の社会を評価するための有効な原則でもある」ため、過去における人権に反した行為について遺憾の意が表されており、それは単なる流行ではなく現代の「中心的な特性」であるという。

表現の不自由展・その後実行委員会によれば、「《平和の少女像》は戦争と性暴力をなくすための「記憶闘争」のシンボル」である。これは、平和の少女像が慰安婦問題に限らず、戦争と性暴力の否定、すなわち普遍的人権を訴えかけていることを示している。この像は集団的な罪を指摘しているわけでもなければ、集団的責任を超えて、普遍的人権という現代における重要な価値観を訴えているのである。

人権意識の浸透やそれにともなう政治家による遺憾の意が、現代の特性であるにもかかわらず、平和の少女像が普遍的人権の重要性を訴える作品であると認識されていない理由については、さまざまな説明が可能だろう。

トマス・バーガーが述べるように、歴史認識をめぐる緊張は「実際に起こったこと」のみで決まる(歴史的決定論)わけでもなければ、現在の政治的利益や文化的影響のみで決まるわけでもなく、いくつかの要因が絡み合うことで生じる。「普遍的人権の重要性としての平和の少女像」という認識が広まらない理由についても、日本における歴史修正主義や政治家の言動、普遍的人権意識の希薄さのみに帰することは適切ではない。

しかしこれまで見てきたように、平和の少女像を「日本国民の心を踏みにじる行為」と感じる人びとには3つの誤りがある。

1つは、彼らが平和の少女像を集団的な罪の象徴であるかのように見なしている点である。日本全体が攻撃されているように感じる理由は様々だろうが(そこには韓国側の言動も含まれる)、集団的な罪自体は否認されるものであり、その認識が共有されていないことが大きな問題を生み出している。

もう1つは、集団的責任の重要性が理解されていない点であり、集団的な罪を否認することは集団的責任への理解があって初めて成り立つことへの無理解である。

そして最後に、普遍的人権意識の希薄さである。集団的責任や和解に関する議論は、普遍的人権への重要性が認知されることが大前提である。負の歴史は、両国の政治的争点や交渉材料のみならず、普遍的人権の価値を確認するための「集合的記憶(Collective memory)」でなくてはならない

現代世界において、人権という概念は国家の利害や個人の感情よりも尊重される普遍的な存在である。どういった理由があれ、そうした価値に挑戦すると見なされる言動は非難を浴びることになり、不正義であるという誹りを免れない。平和の少女像によって日本人が傷ついたと考える人びとは、その理解が決定的に欠けている。

3つの誤りは、平和の少女像のみならずアジアにおける歴史認識問題にまとわりついている。歴史認識の議論を通じて、日本の政治家などが普遍的人権へのコミットメントを軽視していると国内外で見なされれば、日本にとって大きな不利益であり外交上のリスクとなる。「普遍的人権の重要性を訴える平和の少女像」という認識が広まらない理由が何であったとしても、その認識を受け入れない声が叫ばれつづける限り、日本にとってはデメリットでしかない。

おわりに

おなじく「日本国民の心を踏みにじる行為」という論理を問題視する明戸隆浩は、「自らのネーションに対する否定的評価をデマと決めつけ、自らのネーションに対する客観的な認識や反省可能性を閉ざすならば、それは『悪質な』ナショナリズムとなる」と述べる。批判の方向性は異なるものの、悪質なナショナリズムを何らかの形で乗り越えなくてはならないという問題意識を共有している。

この乗り越え方が、それほど目新しさのない普遍的人権の重要性に託されるのは、ナイーブすぎる見解かもしれない。しかし、和解が永続的・反復的なプロセスであることと同様に、普遍的人権もそのように扱われる必要がある。なぜなら政治・外交問題は最終的・不可逆的な合意を見ることもあるが、価値や規範、そして歴史や記憶は常に現在進行形のプロジェクトであるからだ。

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✍🏻 著者
編集長 / 早稲田大学招聘講師
1989年東京都生まれ。2015年、起業した会社を東証一部上場企業に売却後、2020年に本誌立ち上げ。早稲田大学政治学研究科 修士課程修了(政治学)。日テレ系『DayDay.』火曜日コメンテーターの他、『スッキリ』(月曜日)、Abema TV『ABEMAヒルズ』、現代ビジネス、TBS系『サンデー・ジャポン』などでもニュース解説。関心領域は、メディアや政治思想、近代東アジアなど。
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