なぜフランスはマリから撤退したのか?西アフリカの今後とロシアの影

公開日 2022年03月28日 14:56,

更新日 2022年04月01日 22:06,

有料記事 / 政治・国際関係

フランス・マクロン大統領は今年2月17日、マリからフランス軍を撤退させることを表明した。マリ政府との協調が困難になったことが理由で、大統領は「我々は戦略を共有しておらず、隠された目的を持っているような当局と軍事的に協力し続けることはできない」と述べた。

フランス軍は、2013年1月に当時のオランド大統領が派兵をおこなって以降、9年間にわたってマリで「バルカンヌ作戦」と呼ばれる軍事行動を続けてきたその目的は、2012年に内戦状態となったマリの政情を安定させるとともに、サヘル地域や西アフリカにおけるイスラム過激派勢力の広がりを抑え、テロ行為を防ぐことにあった

サヘルとは、北側のサハラ砂漠と南側の熱帯林・サバンナ地帯に挟まれた、熱帯性乾燥気候の地域だ。気候変動の被害(乾燥)と、人口増加率の高さで知られ、世界で最も貧困に喘ぐ地域の1つとなっている。ブルキナファソ、チャド、マリ、モーリタニア、ニジェールの5カ国が中心で、いずれもフランスの旧植民地である。

フランスは旧植民地に対して、彼らの独立以降も政治・経済両面で強い影響力を発揮してきたマリにおける軍事行動は、そうした文脈と連続しているまたアフリカの情勢は、ヨーロッパやロシアを含む現在の国際関係と密接につながっている。そのため本問題もより広い視点で捉える必要がある

本記事では、まずフランスの戦後アフリカ政策を簡単に振り返る。続いて、なぜフランスはマリへ派兵しそして撤退するに至ったのかを解説する。そしてマリや周辺地域における情勢が国際社会に与える影響を概観する。

フランスのアフリカ政策

フランスがアフリカの植民地化を進めたのは1880から1890年代だ。イギリスの縦断政策(エジプトと南アフリカを結ぶ軸線)に対抗して横断政策(西アフリカとジブチを結ぶ軸線)を進め、アルジェリアなど北アフリカ、セネガルなど西アフリカ、ガボンなど赤道アフリカ、そしてジブチ、マダガスカルを支配下においた。


アフリカの旧フランス植民地(Wikimedia commons)

アフリカのフランス植民地の多くは1960年に独立を果たした。しかしこれらの国は言語、文化、政治、経済というあらゆる面において旧宗主国と深い関係を持ち続けている(*1)。フランスはアフリカのフランス語圏地域を重視し、経済援助や軍事介入を通して影響力を発揮してきた。

マリにおける軍事活動に触れる前に、近年のフランスのアフリカ政策を簡単に振り返っておこう。

(*1)植民地を間接統治したイギリスに比べて、直接統治が原則だったフランスにおいては、同化政策による文化的な相互浸透が進んだ結果、アフリカ旧植民地に対して「家族的な感情」を抱くようになったという指摘がある。

アフリカの憲兵

早稲田大学の片岡貞治教授が指摘するように、第二次大戦後フランスは一貫して、アフリカの旧植民地諸国との関係を外交上の重要な道具として考えてきた。そのため、経済協力と軍事技術協力(時には軍事介入)の両輪によって、独立後も特別に深い友好関係を維持するという方針がフランスのアフリカ政策を貫いていた。そもそも「アフリカ政策」における「アフリカ」とはほとんどの場合フランス語圏地域のみを指しており、内政干渉も辞さない外交は旧植民地に対してだからこそ可能だった。

こうした考え方は90年代ごろまで主流であり、フランスによるアフリカへの軍事介入は繰り返されてきた。1960年からの60年間で、フランスの当大陸への派兵は50回以上に及ぶ。例えば、中央アフリカ(67-70年、79年、96-97年、2012年)、チャド(68−72年、83−84年、86-現在)、ルワンダ(90−94年)などがその対象となった。

フランス側の論理は紛争を予防・解決し現地の政治秩序を守るというもので、在留仏人の保護がここに加えられることもあった。政情不安のたびに軍事介入を繰り返すフランスは「アフリカの憲兵」呼ばれた

父権的政策への批判

しかしルワンダ内戦への派兵(ミッテラン政権下、94年の「トルコ石作戦」)を境に、フランスのアフリカ政策は転換を迫られることになった。ルワンダでは少数派のフツ人と多数派のツチ人の争いが内戦へ発展していたが、フツ人のハビャリマナ政権は1994年、ツチ人と穏健派のフツ人に対しジェノサイドを行ったフランスはハビャリマナ政権を支援していたために国際社会から強い批判を受けた

この他にもフランスの伝統的なアフリカ政策は様々な問題を抱えていた。

フランスとアフリカ旧植民地諸国は、植民地時代に由来する非公式なネットワークを通して外交関係を深めていたことが知られており、その不透明性が政治的腐敗や犯罪の原因となっていた。また政治秩序の保護という介入の口実は、しばしばフランスの息のかかった独裁政権を生きながらえさせることにつながった(*2)。フランス国内でも旧宗主国としての立場を利用した父権的なアフリカ政策を批判する声は常に存在し、90年代以降さらに強まった。

(*2)ザイールのモブツ大統領、チャドのハブレ大統領、デビ大統領など。ハブレ氏は性暴力や拷問など残虐行為の罪に問われ、有罪判決を受けた

アフリカ政策の変化と継続

その後フランスの政策は少しずつ変化してきた。

1990年に当時のミッテラン大統領は、演説において開発援助と民主政の導入を結びつける考え示した。これ以降、民主主義という観念をアフリカに普及させることがフランスの経済・軍事的介入の根拠とされ、また内政へ干渉しないことが政策の原則となった。


フランソワ・ミッテラン大統領(Philippe Roos )

2000年代以降は、フランス単独ではなくEUと共同で軍事作戦を行うという方針が進められた。国連の決議を根拠として派兵を決めるなど、自国の立場を利用した単独行動ではなく、国際社会と協調する多国間主義が尊重されるようになった。

また、サルコジ元大統領は2007年の就任以降、駐留軍の削減や、アフリカのフランス語圏でない国とも積極的に外交関係を結ぶなど、過去のアフリカ政策との訣別を示そうとした(*3)。フランス軍基地の統廃合などを通して、アフリカでのフランスの軍事的プレゼンスはわずかながら弱まったという。

しかしながら、フランスの介入主義は完全に無くなったわけではない。2010年にコートジボワールで大統領選後に事実上の内戦となると、フランスは翌年、単独での軍事介入に踏み切った。さらに2年後にはオランド前大統領のもと、マリと中央アフリカ(2013年12月)へと相次いで派兵を決定した(どちらも国連安保理の決定に従った形を取っている)。

(*3)しかしアフリカ諸政権との不透明な関係性は断ち切れなかったという指摘もある。またこの間フランスのアフリカでの軍事行動の回数が減ったわけではない。

新植民地主義

このようにフランスは、旧植民地とどのような外交関係を結ぶかについて、揺れ動き続けている。60年以降左右問わずあらゆる政権が見せてきた介入主義的な外交姿勢に対して、90年代以降は異なる方向性が模索された。具体的には、民主主義の普及という新たな論理や、国際社会との協調を重視する政策が示された。

しかしながら、アフリカでの断続的な政情不安とともにフランスの軍事介入は続いており、旧来の政策は部分的に継続されていると言える。2010年代前半には相次いで派兵が決定し、特にマリとチャドというサヘル地域に位置する二ヶ国での軍事活動は長期に渡っているため、フランスが「アフリカの憲兵」に逆戻りしたのではないかという指摘もある。

フランスは、新植民地主義的(ネオ・コロニアル)な介入政策から距離を取ることを望みつつも、外交的な覇権と独自性への望み(およびそれに伴う経済的利益)を捨てきれていない

フランスによるアフリカ政策は、以上のようにまとめることができるだろう。繰り返されるフランスの軍事介入はむしろアフリカの政情不安の遠因となっているという指摘もあり、現在までの政策の正当性には疑念も呈されている状況だ。

マリでの軍事活動も、このような文脈で始まったものだ。その経緯を時系列で見ていこう。

マリにおけるフランスの軍事活動〜派兵から治安悪化まで

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著者
東京大学大学院博士課程
東京大学大学院総合文化研究科所属。日本学術振興会特別研究員。専門はフランスの絵画・建築史。関心領域は、フランスの社会や政治、および広くアートに関係すること。
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