Los Angeles, United States(Edwin Andrade, Unsplash) , Illustration by The HEADLINE

強制投票は実現可能か、それは”良いもの”か?

公開日 2019年08月15日 18:25,

更新日 2023年09月13日 14:59,

無料記事 / 政治

7月21日におこなわれた第25回参議院選挙の投票率が48.8%となり、1995年7月に記録した44.52%に次いで戦後2番目の低さであった。朝日新聞はこのことを「代議制民主主義の基盤を掘り崩す深刻な事態」と述べた上で、「『安倍1強』のもと、多様な民意に向き合おうとしない強引な政権運営が続いていることと無縁ではないだろう」と指摘している。

しかし政権運営に不満を持つ人々が多いのであれば、現状維持を嫌って投票率は上がるはずであり、その説明は論理的破綻をきたしている。そもそも投票率は1990年代後半から60%を割っており現政権との関係は薄い上に、低投票率は日本以外の国々も直面している。イデオロギーに基づいた非論理的な説明は、問題の所在を見誤ることになるだろう。

また、選挙前になるとSNSで「選挙に行こう」という呼びかけを見かけることが増える。

普段は政治的イシューに関心がないように見えつつ、選挙前になって突如として「選挙に行くべきだ」という規範を振りかざしてくる人への嫌悪感か、「日本という国家が抱えている問題なのだから、あなたもそこに関わるべきだ」という無意識のナショナリズムを突きつけられることへの不快感なのかはさておき、1票が及ぼす影響は限りなく小さいことが分かっているにもかかわらず(「あなたの1票は重い」という投票を促すメッセージは端的に嘘である)、投票を促そうとする姿勢には賛同できない。

朝日新聞もSNSの呼びかけも、低投票率の科学的分析や「投票に行くべきだ」という規範について十分に検討しないまま批判や呼びかけをおこなっており、説得力が弱いように思える。

もし投票することが無条件に良いことだとして、国民として必ずおこなうべきならば、なぜ法によって強制されていないのだろうか?

低投票率が社会にとって害悪であることは、多くの研究によって指摘されている。デニス・C・ミュラーとトーマス・ストラトマンによれば、投票率の高さと所得の平等性には関連があるし、富と所得を持たない人々は政治参加のコストが高いことも多くの研究によって示唆されている。

社会・経済的不平等が低投票率をもたらすのか、低投票率が社会・経済的不平等を生むのかについては立ち入った議論が必要だが、市民が政治参加に意欲を持っていない状態が不健全な社会を示唆していることは確かだ。この現状を嘆いている人は少なくないが、その論調は必ずしも建設的ではない。投票率の低下を日本固有の問題としたり、若者の政治離れと結論づけて政権批判に結びつけることに意味はなく、むしろ制度的な解決方法を検討していくことが大事だろう。

強制投票制は、その1つである。

強制投票とは何か

強制投票は文字通り、投票を権利ではなく義務として捉え、正当な理由がなく投票を棄権することに罰則を与える制度である。日本においては、日本国憲法第15条において「成年者による普通選挙を保障する」ことが示されており、選挙を通じて政治に参加することは義務ではなく権利として規定されている。そのため、強制投票の対義語である任意投票制であると言える。

ただし、強制投票という用語は正確ではない。エミリー・キーニーとベン・ロジャースが述べるように、「強制投票ではなく、強制投票率」と表現する方が正確である。なぜなら現代の普通選挙においては、秘密投票という制度によって、誰に投票したかを明らかにしない権利が保証されているからだ。そのため強制投票であっても、投票者は望ましい有権者がいない場合は白票を投じることができ、無効票も存在する。強制的に投票させると言うよりも、強制的に投票率をあげるという意味で、強制投票率という言葉が正確なのである。

旧ソ連や現代の北朝鮮が実施しているのは候補者の選択肢がない”強制投票”であり、それらと混同しないために強制投票率という言葉が必要となる。とはいえここでは、一般的に流布している強制投票という用語を使っていく。

サラ・バーチが整理するように、強制投票は下記のように分類できる。

  制裁あり 制裁なし
公的な義務がある 制裁がある強制選挙(e.g.オーストラリア) 制裁がない強制選挙(e.g.ベネゼエラ)
公的に義務はない 制裁があるものの公式な強制投票ではない(ソ連) 強制性、投票のプレッシャーが殆どない(米国)

強制投票は”実現可能”か?

強制投票は実現可能か?という質問は、既に実現している国が存在することを述べれば分かりやすい。少し意外かもしれないが、現在27カ国が強制投票を制度として取り入れている。次の11カ国は、法律によって厳格に強制投票が定められている国だ。

アルゼンチン、オーストラリア、ベルギー、ブラジル、エクアドル、ルクセンブルク、リヒテンシュタイン、ナウル、ペルー、シンガポール、ウルグアイ

一方で、罰則などは設けていないものの強制投票を法律で定めている国が16カ国ある。

ボリビア、ブルガリア、コスタリカ、コンゴ民主共和国、ドミニカ共和国、エジプト、ガボン、ギリシャ、ホンジュラス、レバノン、リビア、メキシコ、パナマ、パラグアイ、タイ、トルコ

これ以外にも、過去に強制投票を法律で定めていた国としては、オーストリアやイタリア、オランダ、フィリピン、ポルトガル、スペインなどが知られている。具体的な制度・罰則には各国で違いはあるものの、少なくとも30カ国近い国が強制投票を実施していることを考えると、それは実現可能な制度であると言える。

強制投票は”良いもの”か?

世界196カ国のうち、10%以上が強制投票を実施しているのは、予想以上に多いと感じるかもしれないが、一方でマイノリティーであることも事実である。低投票率が社会にとって明らかに望ましいものでないならば、もっと多くの国が取り入れる方が自然なのかもしれない。なぜ、強制投票は一概に支持されるわけではないのだろうか。

強制投票を支持する論理と、批判する論理をそれぞれ見ていこう。

強制投票の擁護

言うまでもなく、強制投票を擁護する論理としては投票率を上げるというものがある。国や制度などの条件を揃えて分析をするためには、強制投票が法律によって定められた時期と廃止された時期を比べることが望ましいためデータは限られるものの、強制投票が投票率を上昇させることに効果的であることが分かっている。

既に述べたとおり、投票率の高さと所得の平等性には関連がある。強制投票を擁護する最も大きな主張は、投票率を向上させることで不利な立場にある人々の政治参加を促し、社会・経済的不平等を是正することができるという考え方である。実際、オーストラリアでおこなわれた強制投票のデータを基にして、アンソニー・ファウラーは「投票率の増加によって、選挙結果とそれによって生じる公共政策を劇的に変える可能性がある」ことを実証している

恵まれない人々を含めた多くの人が投票に参加することで、政府や代表の正統性といった民主主義にとって重要な価値観が強化されると考える人もいる。

強制投票を擁護する代表的な論文として、アメリカ政治学会の会長を歴任した大家、アーレンド・レイプハルトによるものがある。レイプハルトは社会・経済的不平等の改善以外にも、3つの利点を挙げている。

1つ目は多くの人が投票に参加することで、投票以外の政治活動についても参加・関心を喚起する可能性があること。

2つ目は強制投票によって政治的運動や選挙活動の費用が削減される可能性があること。強制投票が実現した場合、投票者を選挙に行かせるための大規模なキャンペーンを打つ必要がなくなるため、そうしたコストが削減されることになる。

そして3つ目として、強制投票が実現すれば選挙戦において相手に対する誹謗中傷などの攻撃的なキャンペーンが無力化される可能性があること。レイプハルトは少し古い研究を引きながら、攻撃的なキャンペーンが投票率を引き下げる要因になっているため、強制投票によって投票率が引き上がれば、そうしたキャンペーンが意味をなさなくなることを示唆している。

強制投票の批判

では反対に、強制投票はなぜ批判も受けるのだろうか。バート・エンゲレンは、強制投票への批判を再反論とともに整理している

批判的な論点の1つ目は、投票率が向上したからといって民主的なプロセスが向上したわけではない点が挙げられる。強制的に投票を促されれば、候補者や政策についてよく理解をしないまま、適当に投票をする人々も増えるだろう。先日の参議院選挙でNHKから国民を守る党(N国党)が議席を確保したことに驚く人々は少なくなかったが、投票が義務化されれば同党のような集団が支持を集める可能性もあるかもしれない。

ただしこの批判は、自発的な投票によって極右勢力が当選している事実や、ある人々にとっては理解し難い選挙結果が生まれる現状を考えてみれば、弱々しくもある。左派にとってドナルド・トランプの当選やBrexitは受け入れがたい結末ではあるものの、どのような結末であれ民主的なプロセスを経て生み出された結果は、尊重される。そのため、もし強制投票によって適当に投票をする人々が増えたとしても、その結果は受け入れなくてはならない。

2つ目は、民主主義における選択の自由には「選択しない自由」が含まるため、強制投票は望ましくないという主張である。この議論は、政府の干渉を嫌って個人主義を重視するリバタリアンから支持を集めやすい。

3つ目は、強制投票が政治的無知や無関心などの根本的原因を解決するわけではなく、むしろ強制的に選挙に向かわせられることで、反対に政治に対しての意欲をそがれる可能性だ。

そして4つ目には、強制投票によって既に多くの票を確保している既存の政治家にとって有利になるのではないかという可能性も指摘されている。

賛否、どちらが妥当か

双方の見解があるなかで、どちらに妥当性があるのだろうか?イギリスのように定期的に強制投票に関する報告書が議会に提出される国であっても、見解の一致には至っていない。ジェイソン・ブレナンとリサ・ヒルによる著書『Compulsory Voting: For and Against』は、立場の違う2人による著作であるが、結論は示されていない。ただし筆者の概観する限りでは、強制投票を肯定する論調がやや優勢ではあるように感じる。少なくない論文が、レイプハルト以来の見解を継承しており、社会・経済的不平等の是正のために強制投票が正当化されると主張している。

しかし個人的には、強制投票を肯定する論理はそれほど強くないように思える。

1つは、ジェイソン・ブレナンが前掲書で述べているように、経済的に恵まれない人々が投票をしたからといって政治家が彼らに応える政策を実行するかはわからないという統計的な研究も存在しているからだ。マーティン・ギレンスが『Affluence and Influence Economic Inequality and Political Power in America』で明らかにしたように、アメリカでは金持ちが恵まれない人々よりもわずかに高い投票率を誇るものの、金持ちの声に対して6倍も大きな反応をする。すなわち、恵まれない人がもっと投票所に向かったとしても、政治家が相変わらず金持ちを優遇した政策を実施する可能性もあるのだ。

ブレナンは、貧しい人々が自分自身を救う方法を知っているわけではないと指摘して、強制投票に関する議論は「非投票者が、自身の利益のために投票する方法を知っていることを前提としている」が、それは間違っているとも述べる。デリ・カルピニとスコット・キーターの研究でも、アメリカのほとんどの有権者が基本的な政治的知識すら知らないことが明らかになっているが、その中でも恵まれない人々の方が富裕層よりも政治的知識が不足していることも示されている。

強制投票が必ずしも、恵まれない人々を投票所に連れていくわけではないという研究もある。ガブリエル・セパルニとフェリペ・ダニエル・イダルゴの興味深い論文は、強制投票を実施したとしても罰則金の制度設計によって、富裕層は投票に行くものの恵まれない人々は相変わらず棄権するため、投票率の不平等が悪化することを示した。

また、「強制的に投票を促されれば、候補者や政策についてよく理解をしないまま、適当に投票をする人々も増えるだろう」という問題は、政治的知識の問題にも似ているが、看過できない問題である。

たしかに「強制投票によって適当に投票をする人々が増えたとしても、その結果は受け入れなくてはならない」のは事実だが、最終的な結果論である。市民が正しい政治知識によって熟考された候補者を選択することが望ましいため、選んでしまえばなんでもありというわけではない。

いくつかの研究によって「投票する人は棄権者よりも知識が豊富で、政治や経済についてもよく理解している傾向がある」ことが分かっており、ブレナンに言わせれば「強制投票は有権者の知識を向上させず、非投票者は有権者になるものの良い投票者にはならない」ため、「すべての市民に投票をさせることは、飲酒運転を強制するようなもので、我々すべてを危険にさらす」のだ。

投票に参加することは、政治学者から「非合理的」だと見なされている。非合理であるにもかかわらず投票にいく人々は、わざわざコストを払ってでも行動をするため、政治的知識を学習するコストも払うだろう。もし強制投票が実現すれば、投票所に行くことのコストがなくなるため(投票に行かないことで受ける懲罰のコストが上回るので)、政治的知識を学習することをコストとみなす投票者が相対的に増える。その結果として、理性的に熟考された選挙結果から遠ざかってしまうことはありえそうな話ではある。

ブレナンの主張は、民主主義のコンセプトから考えて危なっかしいものではある。酔っぱらいであれ無知な人々であれ、すべての人々に平等に投票権を与えることこそが近代社会の核心だからだ。しかしそれは「何でもあり」なのではなく、社会や政治に関する基本的知識を教育によって市民にインストールし、彼らが合理的に振る舞うことを前提としている。このプロセスが不十分なまま強制投票を促すことは、責任ある態度とは言えないだろう。

似たような論点としては、強制投票によって既に多くの票を確保している既存の政治家に有利になるという論点も説得力がある。この議論は、非投票者が必ずしも現状維持に流れるわけではないという論理から退けられることも多いが、政治的知識が少ない投票者が聞いたことのある政治家・政党の名前を書くことで(それは多くの場合、与党の政治家だろう)、現状追認が続いてしまうことは十分に考えられる。

最後に、これはあまり語られない論点ではあるが、なぜ選挙のみが強制されるかという問題も残っている。納税や教育などの義務を課されている中、(強烈なリバタリアンでない限り)国家が何らかの強制をおこなうことには多くの人が同意するだろう。しかし政治参加の義務ではなく、その形態の1つである選挙のみに強制性が生まれることは自明ではない。

強制投票が「強制投票ではなく、強制投票率」であることを思えば、選択しない自由は担保されている。国民国家の一員である限り、我々は納税や教育など一定の義務を課せられており、そうした義務にも反対するならばまだしも「投票所に行くこと」だけを自由の観点から拒否することは難しいはずだ。しかし、納税の義務自体は認めつつも、どのような税をどれくらいの税率で掛けるかについては議論があるように、政治に参加することに義務が課せられたとしても、それが選挙である必要はない。

例えば、デモに行くことを強制されれば多くの人は直観的におかしいと思うはずだが、選挙を強制されることと何が違うのだろうか?選挙の目的が、自らの利益に基づいて政策を変えることであるならば、1票が与える影響は限りなく小さいため、選挙は明らかに望ましいやり方ではない。もしラディカルな政策変更を望むならば、デモや大規模な抗議行動を組織したほうが良いかもしれない。つまり、強制投票を制度化するならば、なぜ諸々の政治活動のなかで選挙だけが強制されなければならないかを説明する必要がある。

おわりに

強制投票をめぐる議論は、日本においてそれほど盛んではない。しかしネットを中心に、「選挙に行くべきだ」や「政治参加をするべきである」という規範が強まることは2つの問題をはらんでいる。1つは政治参加において選挙のみが絶対視されるリスクであり、もう1つはその結果として選挙に行かない人は「政治参加する資格がない」という思い込みが発生してしまうことである。

政治参加には選挙だけでなく、デモや討論など多様な形があり、それらすべてを通じて私達の生活を形作っている。強制投票という制度がない以上、日本では選挙に行く自由も選挙に行かない自由も存在しており、「選挙に行かなければ政治について話す権利すらない」ということでは決してない。

むしろ強制投票という制度が世界に存在していながら、それがマイノリティーであることの意味を考える必要がある。もし全ての市民を強制的に投票所へと連れて行くことが明らかに望ましければ、多くの国が制度を導入しているはずである。制度に関する賛否両論はここまで見てきたとおりであるが、全員を強制的に選挙に行かせることのデメリットも多く挙げられている。

もちろん投票率は上がった方が望ましいし、政治参加は良いことである。しかし選挙が近づくたびに「選挙に行くべきだ」という説教臭い議論が湧き出てくることに疑問を持つことは十分に正当であるし、その疑問を検討することからより望ましい制度設計が生まれるかもしれない。そのこともまた「政治的な営み」なのだ。

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✍🏻 著者
編集長 / 早稲田大学招聘講師
1989年東京都生まれ。2015年、起業した会社を東証一部上場企業に売却後、2020年に本誌立ち上げ。早稲田大学政治学研究科 修士課程修了(政治学)。日テレ系『DayDay.』火曜日コメンテーターの他、『スッキリ』(月曜日)、Abema TV『ABEMAヒルズ』、現代ビジネス、TBS系『サンデー・ジャポン』などでもニュース解説。関心領域は、メディアや政治思想、近代東アジアなど。
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