⏩ 1960年代、一部週刊誌が報じる
⏩ 1980年代、元ジャニーズ所属のタレントらが続々と告発本を出版
⏩ 1990年代から2000年代に文春との裁判、海外報道も
⏩ 2000年代以降も、断続的に告白が続く
(注)本記事には、性暴力に関する具体的な記述などが含まれています。また、引用として「ホモ・セクハラ」など不適切な表現が含まれていますが、当時の状況を反映させるため原文まま記載しています。
今年3月中旬、イギリスの公共放送BBCが「J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル」と題するドキュメンタリー番組を制作した。大手芸能事務所ジャニーズ事務所の創業者で、2019年に逝去した故・ジャニー喜多川氏(以下、ジャニー氏)による少年らへの性加害疑惑について、再び注目が集まった。
さらに4月12日には、かつてジャニーズJr. (*1)として活動していた、歌手のカウアン・オカモト氏(当時は岡本カウアン名義)が記者会見し、ジャニー氏から性的被害を受けたと主張した(*2)。
実は、ジャニー氏による性加害疑惑は1960年代から現在に至るまで存在してきた。本記事では、たびたび指摘されてきた、ジャニー氏の具体的な性加害疑惑(その中には肛門性交やオーラルセックスなども含まれる)の数々について、可能な限り網羅的に紹介していく。
なお本記事では、疑惑の真偽を検証することを目的としていない。ジャニー氏の性加害が法的に真実性を認められたのは、2003年の東京高等裁判所判決のみ(下記記事)である。すなわち、本記事において引用する少年らへの性加害の実態は、あくまで被害者による主張を基にしている(*3)。
(*1)以下、引用部分以外はジャニーズJr. と表記する。
(*2)カウアン氏の記者会見から1日が経過した、13日午後18時現在、東京新聞・共同通信・毎日新聞・朝日新聞・読売新聞・産経新聞・日本経済新聞・NHKなどが会見内容を報じている。民放キー局は、いずれも会見内容を報じていない。
(*3)被害者の証言のみに基づいて、具体的な性加害の様子を報じることは、二次加害のリスクのみならず、冤罪や不均衡な社会的制裁が生じる懸念を有している。加えて、ジャニー氏はすでに逝去しているため、反論をおこなう機会も存在していない。しかし、こうした性加害の描写が複数の証言に類似・共通するものであること、すでに雑誌・書籍によって過去に公になっている記述であること、長年に渡り本問題が認識されていたにもかかわらず十分な報道がなされず、事務所側も「コンプライアンス順守の徹底」という通り一遍な説明を繰り返していること、日本有数の芸能事務所の創業者という大きな社会的責任を有する立場にあることなどから、本記事の公開を決定している。
事務所黎明期
ジャニー氏は、1931年に米国カリフォルニア州ロサンゼルスで生まれ、1950年代初頭に米国大使館の通訳として来日した。同氏は、代々木の米軍施設ワシントンハイツで、近所の子どもたちに野球を教えていた。その中から、幼なじみであった4人の少年(あおい輝彦、中谷良、真家ひろみ、飯野おさみ)が、1962年にジャニーズ(以下、初代ジャニーズと表記)を結成、1964年に『若い涙』でレコードデビューする。これがジャニーズ事務所(*4)初のグループデビューだ。
その後もプロデュース業を手がけ、1968年には4人組グループ、フォーリーブス(北公次、青山孝史、江木俊夫、おりも政夫)が、1972年には郷ひろみがレコードデビューを飾っている。
(*4)事務所は、1975年に法人登記されている。
疑惑の浮上(1960年代)
最初にジャニー氏の性加害疑惑が持ち上がったのは、1960年代にまでさかのぼる。発端は、1964年から東京地方裁判所でおこなわれていた、芸能学校の新芸能学院とジャニーズ事務所の間での金銭トラブルに関する口頭弁論だ。
裁判に至った経緯は、以下の通りだ。初代ジャニーズはアマチュア時代に新芸能学院で学んでいたが、人気が出てまもなく、マネージャーをつとめていたジャニー氏とともに同学院から独立した。これに対して、同学院の代表である名和太郎氏が、所属中の授業料やスタジオ使用料など計270万円を支払うように訴えた。
関係者からの証言
この裁判において、複数の関係者がジャニー氏による「ワイセツ行為」を証言した。
学院代表者(名和氏)の証言
裁判を報じた1965年の週刊誌『週刊サンケイ』は、「”ジャニーズ”売り出しのかげに」と題する記事の中で、「名和氏のいい文」(原文ママ)として同氏の説明を記している。そこで、ジャニー氏による性的な行為の「被害」にあったとする生徒の話が登場する。以下は、同記事における名和氏の発言だ(*5)。
三十九年(*6)六月になって、とんでもない事件がもち上がった。
「わたし(*7)はずっと日記をつけているんです。まちがいのないように、日記を見ながら話しますから‥‥」
といって、日記を手に名和氏は説明する。
「三十九年六月十二日 K(児童タレントのひとり)が、ぼんやりとして、顔色が悪い。いまはやりの睡眠薬遊びでもしているのではないかと心配して問いつめると、
”ジャニーさん(喜多川氏のこと)が、変なことをしたんです” という。マスターベーション(自慰)を教えたのだ。頭をガンとやられたほど驚いた。すぐほかのこどもにも当たってみると、被害者がいた。(『週刊サンケイ』1965年3月29日号、27頁)
(*5)太字、注釈、改行、省略は引用者による。引用部については、以下同様。
(*6)昭和39年=1964年
(*7)名和氏のこと
学院教師・元生徒の証言
裁判開始から3年が経過した1967年、週刊誌『女性自身』は「ジャニーズをめぐる”同性愛”裁判」と題した記事を掲載、疑惑に言及した。その中で、新芸能学院の教師や元生徒から出た、ジャニー氏による性加害についての証言を以下に記す。
《東京地裁の証人調書より》
柴田泰さん(名和新芸能学院教師)の証言。
「ジャニーズの4人が、学院から出ていった直接の事情はワイセツ行為です」
秋本勇蔵さん(22才・歌手)の証言。
「私は昭和35年(*8)に新芸能学院の生徒になり、37年ごろにジャニーズと知りあいました。39年にジャニー・喜多川さん(38才・現ジャニーズ顧問)から、いやなことをされました。ジャニーズの4人組も、いやなことをされたときいています」(『女性自身』1967年9月25日号、40頁)
『女性自身』は同じ記事で、証言をした秋本勇蔵氏へのインタビューをおこない、彼がジャニー氏からされた「いやなこと」の詳細を語ってもらっている。以下は、同記事内の秋本氏へのインタビュー部分だ。
ーーージャニー・喜多川さんから、いやなことをされたというのは、どういうことですか?
「喜多川さんは、ぼくのフトンの中へもぐりこんできて足をからませ、ぼくの肩から背中をなでまわし、股のほうへ手をもってきたんですよ。ぼくがいやがって大あばれしたら、やめました。ほかの生徒から”喜多川さんはオカマだ”ときいていたので、こわかったんです。そればかりか、もっと、いやらしい行為をされたりした話もきいていましたからね」
ーーージャニーズと喜多川さんの関係は、証拠があっていっているんですか?
「ぼくは歌手見習いなので、フトンのあげおろしやそうじが役目だったんです。ジャニーズと喜多川さんは、5人で3畳の一部屋に泊まっていて、朝、ぼくがフトンをかたしにゆくと、毎日のようにフトンの下からエロ写真とか、よごれたチリ紙が出てきました。あれは気持ちが悪かったなあ」(『女性自身』1967年9月25日号、42頁)
(*8)昭和35年= 1960年
北公次氏(元フォーリーブスのメンバー)
以上のような証言や発言を目の当たりにしたフォーリーブスの元メンバー、北公次氏は後に自著『光GENJIへ』の中で、「変わらないような」経験をしたと振り返っている。
それはおれが毎晩経験していることと変わらないような、肩や背中をなでまわしたり、もものほうへ手をもってきたりする、といった内容だった。彼(*9)はジャニーさんの力で芸能界にのし上がっていこうという気もないので拒否ができたのだろう。ジャニーズとジャニーさんが寝ていた部屋で布団の上げ下ろしをしている時に、毎日のように布団の下からエロ写真や汚れたチリ紙が出てきて気持ちが悪かった、といった発言をあとから聞いても、べつに驚きはしなかった。その頃ジャニーさんはおれに夢中だったのだからーーー。(『光GENJIへ』1988年、データハウス、130頁)
(*9)秋本氏のことと思われる。『光GENJIへ』の中では「学院生だったある男子生徒」による「証言」として個人名は伏せられている。しかし、「布団の上げ下ろしをしている時に、毎日のように布団の下からエロ写真や汚れたチリ紙が出てきて気持ちが悪かった、といった発言」は、前述した『女性自身』の記事における秋本氏の発言とほぼ一致しているため、北氏が見たのは秋本氏の発言とみられる。
初代ジャニーズの答弁
前述した金銭トラブルに関する裁判は、1967年9月11日に16回目の口頭弁論がおこなわれ、初代ジャニーズの4人が証人台に立った。そして、メンバーが一人ずつ原告側の弁護士からジャニー氏による性的な加害を受けたか質問を受けたが、4人とも疑惑を否定した。以下、前述した『女性自身』の記事から4人の答弁を引用する。
《青井輝彦君の答弁》
(略)
弁護士 学院をやめる原因の一つとして、いかがわしい事件があったと他の証人(前出)がいっていますが、あなたはそのことを知っていますか?
青井 なんのことか知りません。
弁護士 いかがわしいトラブルがおきて、学院では職員会議が開かれ、ご両親も呼ばれたはずですね?
青井 ‥‥‥‥。
弁護士 (念をおすように)ジャニー・喜多川さんとのトラブルですよ。
青井 ‥‥そんなことがあったら、ジャニーさんにはついていきません。
《中谷良君の答弁》
弁護士 学院をやめた原因が何か、知っていますか?
中谷 わかんない。
弁護士 学院内でワイセツ行為があったことは?
中谷 おぼえてません。
(略)
《真家ひろみ君の答弁》
弁護士 あなたと同級生の秋本勇蔵くんは、喜多川にいかがわしい行為をされましたがあなたは何もされませんでしたか?
真家 ‥‥‥‥。
弁護士 たとえば、うしろから、いきなりだきつかれたとか、いうようなことは?
真家 (口もとをひきしめて)おぼえていません!
《飯野おさみ君の答弁》
彼についても同様の質問が向けられた。神経質な彼は、しきりに手のひらにハンカチをおしつけては汗をぬぐいながら、前の3人と同じような答えかたをしていたが‥‥。途中で裁判長から「その件は本事件と論点がずれるのでそのへんで打ちきるように」との指示があったので、ついに”同性愛”問題は、あいまいな疑惑を残したままで終わった‥‥。(『女性自身』1967年9月25日号、41頁)
同じ記事で、学院の代表であった名和氏は「ジャニーズの4人は、ウソを答えている」と不満を募らせ「同性愛問題が途中で打ち切られたのは、ざんねんでたまりません」と続けた。同氏の日記によれば、「被害者が15名」おり、その中には初代「ジャニーズ」4名の名前も記されていたという。
ただし同記事には、1964年6月19日にメンバーの1人であり、裁判では性加害を否定していたあおい輝彦が、名和氏に被害を訴えていたことも記されている。以下、同記事から引用する。
ジャニーズの一人青井輝彦が「あんなこと(*10)をされて、ボクの一生はおしまいです」と名和氏のもとへ訴えてきたので、青井の両親をよんでこの問題を話しあったという。(略)青井の父親が怒って「そんなことが本当にあったのか」と、問いただしたところ、青井は「あった」と答えた。そして、39年(*11)6月28日ーーージャニー・喜多川氏が正式に新芸能学院をでた。その話しあいのとき、喜多川氏は、「ボク、オカマなんかしないもン」といった。しかし、喜多川氏が退席したあとで、ジャニーズの4人は全員、喜多川氏から、いかがわしい行為をされたことを認めた。(『女性自身』1967年9月25日号、41頁)
(*10)ジャニー氏による性加害のこと
(*11)昭和39年=1964年
覆された証言
そして、初代ジャニーズの別のメンバー、中谷良氏は自著『ジャニーズの逆襲』で裁判での証言に触れ、自身のそれが「偽り」であったとしている。自身の答弁を22年越しにひっくり返したのだ。以下、同書からの引用である。
私は興味津々で見詰める傍聴人たちに囲まれた中、一人、証言台に立つことになりました。
「ああ、なぜ、僕がこんなところにいるんだろう。どうしてさらし者にされなくてはならないのだろう。消えてしまいたい」
表面では冷静さを装うことができたはずですが、手のひらには冷汗がびっしりで、弁護士の言葉さえはっきりと聞き取れないくらいに鼓動は高鳴っていました。
そのたった数分が、長い長い責苦のようでした。
そして、前述のような答弁になったわけです。
私以外の3人もそれぞれ苦しんでいるのがわかりました。
中でも一番堂々としていたのがあおい輝彦。そして、一番動揺しているのがわかったのが飯野おさみ。彼はメンバーの中で特に正直者で嘘のつけない性格だったからでしょう。
嘘?
そうなのです。私たちは、この時に多くの人を、いや自分自身を偽ってしまったのです。
私は、それまでの人生で初めて、人間として卑怯な行為をしてしまったのです。(『ジャニーズの逆襲』1989年、データハウス、75-76頁)
そのうえ中谷氏は、答弁内容がジャニー氏の説得によって決められていた旨も述べている。
事前に答弁の言葉は決められていました。ジャニー喜多川氏が、それが自分たちにとって最高の手段であるのだと、みんなを説き伏せて‥‥‥。
たった17歳で、前途のある我々に、それ以外にどのような方法があったでしょうか。
真実だけが、自分を幸福に導いてくれるとは思えませんでした。自己防衛の念が、自分の心を閉じ込める手助けをしたのです。(『ジャニーズの逆襲』76頁)
中谷氏は同時に、自身が「偽りの証言」をしたことで「犠牲者を増やしてしまった」と後悔の念も口にした。
しかしその反面では、自分を裏切り、公判での厳粛な宣誓を破り、多くのファンをあざむいて、それからの何十年もを(*12)悔恨を背負って生きていかなければならなかったわけです。
結局は、ジャニー喜多川という男性の将来の手助けをして、野放しにした形になり、犠牲者を増やしてしまったのですから‥‥‥。
今だからこそ言える、いや、言わなくてはならない。
私は、裁判で嘘の証言をしてしまいました。
私も、ジャニーズのみんなも全員ジャニーの犠牲者だったのです。(『ジャニーズの逆襲』77頁)
くわえて中谷氏は、2000年1月、当時ジャニーズ事務所の様々な疑惑について報道していた『週刊文春』のインタビューに応じ、「違うことを言ってしまった」と語っている。
「子供ながらに、いやな裁判ということはありましたね。僕の場合、裁判やっている最中にあがっちゃって、何を言っていいのかわからなくて、それで違うことを言ってしまったんですよ。ジャニーさんがホモだというのは昔から変わらないことで、僕の中では終わっている話なんです」(『週刊文春』2000年1月27日号)
(*12)原文ママ
ジャニー氏の反論、疑惑を否定
当のジャニー氏は、差し向けられた疑惑を否定した。以下は、前述した『週刊サンケイ』による記事の中で、ジャニー氏が「わいせつ事件」を一蹴した部分だ。
わいせつ事件に関しては、本人の喜多川氏が、
「ボクがいったいなにをしたというんです。あんまり失礼だ。そんなことをいわれては、ボクとしても覚悟がある」とすわって話していた(『週刊サンケイ』1965年3月29日号、28頁)
また、前述した1967年の『女性自身』の記事でもジャニー氏は同様の反応を見せた。以下は、同記事におけるジャニー氏の反応だ。
9月12日午後4時。ジャニー・喜多川氏は日本テレビ”ゴールデン・ショー”のカラービデオどりに立ちあっていた。
(略)
記者が法廷で問題になった”同性愛”について質問をすると、いきなり、
「同性愛って何ですか?名和さんがいうわけですか?口にするのもきたならしい。そんな事実はないんですから。いいじゃないですか、いいたいようにいわせておけば‥‥いまに”ドロボウ”とでもいいだすんでしょうね」(『女性自身』1967年9月25日号、42頁)
さらにジャニー氏の弁護士も同じく疑惑を否定、初代ジャニーズと両親に確認したところ「一笑にふされ」た旨を語っている。
<ジャニーズおよびジャニー・喜多川氏の弁護士・旅河正美弁護士の言>
「こちらでは、まったく問題にしておりません。
私がジャニーズとその両親に問いただしたら、一笑にふされましたよ。
これは単なる憶測なんですが、名和さんは喜多川さんを追い出すために、たくさんいる子どもの一人ぐらいがいったことをとりあげて、中傷の材料にしたんではないでしょうかねえ。
喜多川さんのほうから名誉毀損で告訴したいという相談をうけているんですが、つまらないから、やめたほうがいいといってあるんです」(『女性自身』1967年9月25日号、42頁)
疑惑の再燃(1980年代)
次にジャニー氏の疑惑に目が向けられ、大きな反響を呼んだのは1980年代だ。当時のジャニーズ事務所からは、シブがき隊、少年隊、男闘呼組(おとこぐみ)などがデビューしており、1980年代末には、光GENJIもデビューした。この時期には、ジャニーズ事務所の元所属タレントが、ジャニー氏による性加害疑惑に言及する書籍を発表している(*13)。
『週刊現代』は1981年4月30日号に、「『たのきんトリオ』で大当たり 喜多川姉妹の異能」と題する記事を掲載、元ジャニーズ事務所所属のタレントによる証言をとりあげた。以下は、同記事の中で、そのタレントがジャニー氏からの接触を拒否したところ、冷遇されるようになったと語る部分だ。
「こんなことがありました。疲れ切ってうたた寝していると、ジャニーさんが寄ってきて体にさわったり、抱きしめたりするんです。『やめてくれッ』と叫んだら、ぼくは食事に差をつけられました。仕事から帰ってきても、夜食をつくってくれないんです。地方へ行って旅館に泊まると、ジャニーさんは男の子たちの部屋で寝ます。ぼくだけ別の部屋にしてもらったら、異分子扱いされてしまいました。ある種の閉鎖集団で、ぼくは自閉症みたいになってしまいました。事務所をやめたあとも、行く先々を尾行されました。あの中のことを、外で漏らされるのがこわいんでしょうか」(『週刊現代』1981年4月30日号、168頁)
同記事は、ジャニー氏に「取材を申し込んだが、いっさいノーコメント」だったため、ジャニー氏の姉メリー喜多川氏にインタビューをした。メリー氏も「噂」をいっさい否定したという。
(*13)北公次が1988年に『光GENJIへ』、中谷良が1989年に『ジャニーズの逆襲』を上梓している(後述)。
初の告白本出版(1988年)
1988年12月に元フォーリーブスのメンバー、北公次が前述した『光GENJIへ』を出版し、その中でジャニー氏との関係性を明らかにした。
また同書籍の公刊は、月刊誌『噂の眞相』でもとりあげられ、出版前の原稿が一部公開された。同誌は「当事者それも元人気アイドルみずからが告白したのはこれが初めてである」(1988年12月号、32頁)と付け加えた。
北氏は、自身がジャニー氏に「拾われ」、初代ジャニーズの付き人となってすぐの時期(1965年頃)からジャニー氏との関係が始まったと告白している。つまり、北氏が1968年にフォーリーブスの一員としてデビューするよりも前から、ジャニー氏による性加害を受けていたことになる。以下は、『光GENJIへ』の中でジャニー氏との関係が始まった当時を振り返っている部分だ。
ジャニー喜多川氏に拾われるかたちでジャニーズの付き人となったおれ(*14)は、ジャニー喜多川氏の勧めで四谷のお茶漬け屋の二階に住み込みを始めた。
(略)
そこの部屋に寝泊まりするようになって2日もたたないうちだっただろうか、あるできごとがおれの身にふりかかった。そしてその体験はそれ以後4年半にも渡りほぼ毎日続くのだった。このことは今まで誰にも話したこともなければ、手記に書いたこともない、おれが墓場に入るまで黙っていようとしたことだ。(『光GENJIへ』1988年、データハウス、98-100頁)
(*14)北氏のこと
続けて北氏は自らの身にふりかかった「あるできごと」を詳細に語り始める。
うすい布団に寝ているおれのもとへとジャニー喜多川さんがそっとやってきておれの寝ている布団の中に入り込んできた。
「えっ?」
男どうしが一緒の布団で寝るなんてことは寮生活でもなかったことだ。一瞬おれの頭の中に”同性愛”という言葉が浮かんだ。だがまさか‥‥‥。こんなハンサムな青年が‥‥‥。男と‥‥‥。
その夜はお互いのからだを密着させただけで寝たにとどまったが、翌日もその翌日もジャニーさんはおれの布団に入ってきた。そして段々おれのからだに接する態度が大胆になってくるではないか。
「コーちゃん、がんばるんだよ。きっとスターになれるんだからね、きみは。ぼくも一生懸命に応援するよ、そしてジャニーズにに(*15)負けないアイドルになるんだ」
熱い吐息を吐きかけおれのからだを優しく何度もさすってくる。マッサージと言えなくもなかったが、そのうちに手がおれの下半身に及んでくる。(『光GENJIへ』99-100頁)
(*15)原文ママ
北氏は、さらにジャニー氏からの行為がエスカレートしていったことを振り返っている。以下は、具体的な描写にまで踏み込んで北氏が記した箇所だ。
ジャニーさんがおれの首筋から頬にかけて口をつけてくる。その間もずっと男根がまさぐられていく。これがホモというやつなのか‥‥‥。
(略)
せつなくささやきかけるジャニーさんは、いつの間にかおれのパジャマを脱がせていき、舌で細いからだをなめまわしていく。指でおれの男根をまるでおもちのようにいじりまわし、そのうちに口にふくみ、しゃぶりだした。巧みな舌の動き、初めてのことではないな、これはきっと経験を積んだおとこの愛撫にちがいない。
(略)
「やめてください‥‥‥。ジャニーさん‥‥‥。いやですよ‥‥‥ぼく」
指と舌で巧みに男性器を刺激する。ジャニーさんも裸になり、おれのからだに密着してくる。両手でジャニーさんのからだを突き放そうとするが、上に乗ったジャニーさんは巧みにおれのからだを舌で愛撫しながら、手で勃起したペニスをしごき続ける。
心の中で必死に嫌がっても、巧みな技巧でおれはあっという間に放出してしまった。(『光GENJIへ』100-102頁)
ジャニー氏による性的な行為を受けたと語る北氏は、それを「生き地獄」と表現する。だが、それから逃れる選択肢はなかったともしている。
ジャニー喜多川さんがホモセクシャルの性癖があると知ったのは、その時だった。16歳のおれは女を知る前に男と性体験をしてしまったのだった。喜劇とも悲劇ともつかない複雑な心境に陥った。おれにもしホモの性癖があるならば、また多少なりとも両刀使いの素質があるのならば、あるいはこのジャニーさんとのホモ体験も我慢できたのかもしれない。しかしその気がまったくないおれには毎夜のジャニーさんの愛撫はまさに生き地獄だった。
嫌ならばさっさと部屋から出てしまえばいい、何度そう思ったことか。しかし東京で食いつなぎながらアイドルになるためには、ジャニー喜多川氏のもとで生活する以外に手段はなかった。
ジャニー喜多川氏の求愛は毎夜続いた。おんなのからだを知る前におれはいやという程男同士のからだを味わうはめになってしまったのだ。(『光GENJIへ』99-102頁)
北氏がフォーリーブスとして1968年にデビューして以降も、ジャニー氏との関係は継続していたという。同氏は、「いやだ」と思いつつも拒絶すれば「最期」だと信じて関係を断ち切ることはしなかったと回顧する。
相変わらずジャニーさんとの同棲生活は続いていた。毎晩二人は一緒の布団で寝て愛を確認しあう。
(略)
つかみかけていたアイドルの座から引きずり降ろされないために、いやだいやだと思っていても、夜の関係はやめなかった。ジャニーさんにかわいがられなくなったら最期だとあのときの少年は必死に信じていたのだ。(『光GENJIへ』123-124頁)
前述した月刊誌『噂の眞相』は1989年8月号の中で、「元ジャニーズ事務所にいた少年たち八名から告白された話の集約」を公開しており「ほぼ全員がジャニー喜多川から同じような被害をうけていることが判明した」と指摘している。
その話の中には、北氏の書籍を「真実」だとする少年の発言も掲載されている。以下、その部分を引用する。
元フォーリーブスの北公次さんの書いた『光GENJIへ』という本の中に書いてあるジャニーさんのワイセツな行為は、すべて真実だと僕自身の体験からいえることですし、その他にも大ぜいの少年が同様の被害を受けているのですから、みんなの証言でもハッキリ証明できることです。(『噂の眞相』1989年8月号、75頁)
また、元フォーリーブスのメンバー、青山孝氏は1999年に『週刊文春』のインタビューで、他のメンバーとともにメリー喜多川氏から呼び出されて北氏の書籍の内容について「口止めされた」と語っている。
(略)十年ぐらい前に一度、私(*16)と江木とおりもが、三人揃ってメリーさんから事務所に呼ばれたことがありました。一同、何事かと思ったのですが、その時は、公ちゃん(*17)の書いた本のことで、余計なことを言わないように、と口止めされたんです」
「私はそのとき、本の中身をまだ読んでいなかった。それでメリーさんの言うことに従ったんですが、後から読んでみて公ちゃんの苦しみはよくわかった。(略)(『週刊文春』1999年10月28日号、254-255頁)
(*16)青山氏のこと
(*17)北氏のこと
初代ジャニーズからの告白(1989年)
北氏による告白本出版の翌年、1989年に初代ジャニーズの中谷氏も『ジャニーズの逆襲』を公刊、自身もジャニー氏からの性加害を告白した。以下、同書から引用する。
その日は私(*18)一人だけでジャニーさん宅に出向いたのです。そして、いつものごとく、おしゃべりしながらテレビなど眺めていたのですが、そのうちにジャニーさんが私に近寄ったのです。
「そら、くすぐっちゃうぞ!」
ジャニーさんはふざけて私の脇腹をコチョコチョとくすぐってきました。それは、大人が子供によくやる悪ふざけ。私は、キャーキャーと笑いながらくすぐったいので必死で逃げようとしたのです。
その時のジャニーさんは異様に興奮した目をしていたのが気にかかってきました。そして、いつまでもくすぐっているのです。
「やだ!ジャニーさん。よしてェ!くすぐったいよう!」
「よーし、ここもくすぐってやる!」
ジャニーさんの手が半ズボンをはいた私の股間へと伸びてきたのです。もちろん、驚きはしましたが、それも悪ふざけだとしかとれませんでした。(『ジャニーズの逆襲』102-103頁)
(*18)中谷氏のこと
中谷氏は、初めてジャニー氏からの行為にあった時期について、自身が「11歳」だった「30年も前のこと」と述べている(これが正しければ、1950年代末に該当することになる)。そのため、性の知識もなく「いかがわしいだとかいった感情」すら抱くことはなかったと振り返る。
今からもう30年も前のことですから。そのころは現代のような情報社会ではなかったので、性の知識とて子供の耳に入るはずはありません。
(略)
そんな少年に、この青年と抱きあっている形がいやらしいだとか、いかがわしいだとかいった感情を持てるわけもないのです。
(略)
ジャニーさんは、私の股間をズボンの上から執拗にさすってきたのです。
「何するの?ジャニーさん。何か気持ち悪い」
「いや、気持ち悪くなんかないだろう。気持ち良いはずだよ。こうすると」
ジャニーさんは、ニヤリと意味ありげに笑って、ズボンの中から私の男性自身を探ったのです。
恥ずかしいことですが、私は抵抗することができませんでした。何しろ11歳なのですから。これから何が始まるのかという興味と、不思議な感覚に自分さえも驚いていて動けないという状態なわけです。(『ジャニーズの逆襲』103-105頁)
他の被害者への言及
北氏と中谷氏は、双方とも自身だけでなく他の「被害者」の存在に言及している。
北氏の言及
北氏は、自分以外にも被害者がいたことを語っている。同氏は他の所属タレントも、自身と同様の被害にあった話を聞いて「申し訳ない思い」をしたと述べる。
小坂まさるはおれ(*19)が大阪でコンサートに訪れた際、テレビに出演していた彼を見て、おもしろいやつだなあと思っておれ自身でスカウトしたので特に思い出深い男だ。
(略)
ところが彼もよく”あのこと”でおれにグチをこぼしにくるのだ。芸能界におれから誘ったこともあり、おれは申し訳ない思いで胸が苦しくなった。無口で人見知りしがちな内向的な少年、豊川譲(*20)もよく「ジャニーさんにせまられる」とこぼしていた。
ジャニーさんの寵愛はなにもおれだけではなかったのかーーー。おれのあとに合宿所に入ったアイドル予備軍もまたジャニーさんの性愛の対象になっていたのだった。
(略)
「ねえ、おとなのおとこの人ってみんなあんなことやるの?あのねえ‥‥‥ジャニーさんがメンソレータムもって部屋にくるの‥‥‥。みんなあんなことやってるの?ぼくはいやだよ、あんなこと‥‥‥。きもちわるいよ」
まだ小学3年生位だったその少年もそう告白をしていた。
(『光GENJIへ』147-148頁)
(*19)北氏のこと
(*20)原文ママ。豊川誕(じょう)名義で活動していた。
上の引用で「ジャニーさんにせまられる」とこぼしていた豊川誕(じょう)氏も、自著『ひとりぼっちの旅立ち』で「辛い仕事」としてジャニー氏との行為に言及している。同時にジャニー氏を恨む気持ちはなかったとも述べる。以下は、豊川氏が当時の「辛い仕事」を振り返っている部分だ。
辛い仕事があった。
夜である。
(略)
最初の一週間は自室のベッドを使うことはなかった。
では、どこで寝ていたのか。
ジャニーさんの部屋であった。
彼のベッドで毎晩、自由にされ続けたのだ。自分のやっていることが何であるかは分かっていたつもりだ。
(略)
ジャニーさんに、ベッドに誘われた時は正直、驚いた。だが、これから、この人に育ててもらわなければどうにもならないということも、僕は十分過ぎるほど、理解していたのである。
これも勉強。
そう自分に言い聞かせて、毎晩、ジャニーさんの相手を務めていたが、不思議と彼を恨む気持ちはなかったのである。(『ひとりぼっちの旅立ち』1997年、鹿砦社、60-61頁)
自著でジャニー氏からの性加害を告白した豊川氏だが、後に自身のブログで本の内容を否定した。同氏は「豊川誕が毎晩ジャニーさんに変なことをやられた」などということは「1度も言ってない」と語っている。また、「毎日毎晩ジャニさん(*21)に変なことされた等の文章」について「こんな話ししていない(*22)どころかジャニーさんメリーさんの悪口だけは絶対に書かないと私と約束をして確認してから取材」を受けたと明かしている。
(*21)原文ママ
(*22)原文ママ
中谷氏の言及
初代ジャニーズの中谷氏も、自身以外の人物たちが被害にあった旨を明かしている。同氏は、初代ジャニーズの他のメンバー3人とも「被害者だということが判明した」と述べる。ただ、当時は被害者意識というものがなかったともしている。以下は、中谷氏の書籍『ジャニーズの逆襲』からその部分を引用したものだ。
ジャニーズの3人のうちの誰かから(忘れた)こんな告白をされたのです。
「ねえ、ジャニーさんてちょっとおかしくないか?」
私(*23)はドキッとして、彼の目を見ました。
「‥‥‥どういうことで?」
「あの人ってオカマかなぁ‥‥‥。良ちゃん、変なことされなかったかい。僕さ、あそこをなめられちゃったんだよ。すごく変な気持ちになって‥‥‥それで‥‥‥」
驚きました。私だけではなかったのです。驚くと同時になぜかホッとしてしまったのを覚えています。
「そうか。みんなされたんだ。僕だけじゃないや。よかった」
それからみんなで話し合うと、どうやら全員、されたことに差はあれど、被害者だということが判明しました。(『ジャニーズの逆襲』108-109頁)
(*23)中谷氏のこと
しかし、その時点で4人に「被害者意識」はなかったとも述べている。これは中谷氏からすれば、前述の通り、11歳だったために性の知識もなく「いかがわしいだとかいった感情」すら抱くことはなかったとする記述が当てはまると思われる。
ただ、その時の我々に被害者意識というものはなく、変なおじさんなんだなーと笑う程度のものだったと思います。みんながされていると思うと、とりたてて怖い印象もなくなりましたから。(『ジャニーズの逆襲』108-109頁)
北氏と中谷氏の再会
他にも「被害者」がいたことを告白した両氏だが、お互いは「被害」にあっていることを当時知らなかったという。1988年に『光GENJIへ』を北氏が上梓した後、中谷氏と再会していたことが『ジャニーズの逆襲』で語られている。以下は、両氏が再会した際に、2人ともジャニー氏から「被害」にあっていたことを確認しあったと語る部分だ(会話は中谷氏から始まる)。
「それにしてもコーちゃん(*24)は変わらないね、最後にあってから、もう、何年になるだろう?」
「かれこれ15年以上になるよ」
「早いもんだね。ところで、今コーちゃんは何してるの?」
「本を出したの、知ってるでしょう?」
「えっ?そうなの?それどんな本?」
(略)
「俺(*25)とジャニーのことだよ。」
「えっ?コーちゃんもそんなことがあったのか?」
「良ちゃん気付かなかったのかい?」
「へえ‥‥‥コーちゃんもやられてたのか」
「コーちゃんも、って、それじゃ良ちゃんたちも?俺の前に犠牲者だったってこと?」(『ジャニーズの逆襲』176-177頁)
(*24)北氏のこと
(*25)北氏のこと
北、中谷両氏はお互いが「被害」にあっていることに気付かなかったと驚いたという。
我々はお互いに顔を見合わせて驚きました。私(*26)としては、ジャニーズのみんながいたずらされていたことしか目撃していないし、まさか後輩のコーちゃんにまでおよんでいたとは、あのころには気付かなかったのです。反対に、コーちゃんの話では、ジャニーズの付人として入った時からずっと自分だけがそれのお相手にされていたと思っていて、誰にも相談できずに、ましてや大スターであったジャニーズが自分と同じ立場であったとは思いもよらない事実だったのです。(『ジャニーズの逆襲』177-178頁)
(*26)中谷氏のこと
続く告白(1990年代)
1990年代に入ってからも、元事務所所属タレントたちによる告白が相次いだ。前述した豊川氏にくわえ、元ジャニーズJr. の平本淳也氏も『ジャニーズのすべて』3部作を1996年から出版した。平本氏は、本記事冒頭で述べたBBCのドキュメンタリー番組にも出演した人物だ。同氏は中学生で事務所に入所(1980年)以来、ジャニー氏との行為を目撃し自身も体験したという。
平本氏は「社長ジャニーさんとの同性愛行為」を「掟」と表現している(『ジャニーズのすべて2』1998年、鹿砦社、5頁)。以下は、同氏がそれに「遭遇」したと振り返る部分だ。
電気が消え安心して寝ていると、ジャニーさんは何を間違ったのか端っこにいる私(*27)を抱き寄せたのである。
(略)
腕枕をして足もからめてきた。この時は私は寝ておらず、私が寝ていないのをジャニーさんは知っていた。抱き締めながら「ユー(*28)、もうすぐデビューだね」と発した言葉と一緒に少し荒い鼻息が頬を撫でる。
(略)
「レッスンは大変だけど頑張って」「新しいグループにはユーがリーダーで頑張るんだよ」「来年にはもうユーは大スターだよ」とよだれがでるほど甘い夢のような話だった。これらをジャニーさんは小声で耳元でささやきながら手の平や腕のマッサージを施す。
「もっと気持ちのいいことしてあげる」と言われた時は心臓が爆発する思いだった。けれど何てことはなかった。私の足をとり足の指を鳴らすという、かつて経験のない方法のマッサージをしてくれた。(『ジャニーズのすべて』1996年、鹿砦社、109-111頁)
(*27)平本氏のこと
(*28)ジャニー氏は所属タレントのことをユーと呼ぶことが多かったとされる。
平本氏は、耳元で「おいしい話」を囁いてくるジャニー氏の行為が徐々にエスカレートするのを体感したと続ける。
おいしい話と気持ちの良いマッサージで気を良くしていると事が次第にエスカレートしてきた。
強く揉んだり指を鳴らしたりとテクニシャンのジャニーさんは、いつの間にか体を撫で回すようになり足を股に突っ込んで来た。
「ワァー」と絶叫した。しかし心の叫びであった。回りに寝ている二人にこの状況を知られたくはなかったのだ。何故と言われても説明のしようがないほどに恥ずかしいと直感的に感じたのであろう。
(略)
この夜がジャニーズ事務所で起こっている奇怪な出来事のプロローグ、「ホモとの遭遇」第一幕であった。(『ジャニーズのすべて』112頁)
その後平本氏は、デビューに至らないまま、事務所を退所した。自身では、ジャニー氏との行為を「中途半端」にしたことが「芸能界に向いていなかった」原因だと回顧している。以下は、それに言及している部分だ。
私(*29)が体験したジャニーさんとのベッドの中は結局中途半端で最後までには至らず、当然デビューのお預けを食らったまま、ジャニーズ事務所とお別れをした。
マッサージと誘惑の言葉から始まって、徐々にエスカレートする手の動き。その手の目指す場所は勿論性器だ。時によってはいきなりそこを攻められる場合もある。
私の場合は触られはしたが、何回も作戦を立てて逃げた。十七才を過ぎる頃にはもう誘ってもこなくなった。あのまま続きをクリアしていたら、今頃スターだったかも知れない。それともスターを通過してジャニーズに捨てられているかも知れない。どちらにしてもこの経験が中途半端なままであったということは、結果的には芸能界に向いていなかったのであろう。負け犬とも言えるし、断る勇気を持っていたと言うことにもなる。自分では「悪魔の囁きに乗らなかった」と良い方に納得しておかないとジャニーズ事務所にいた経験が悪い思い出として付きまとってくる。(『ジャニーズのすべて』144-145頁)
(*29)平本氏のこと
平本氏はさらに、「凄い光景」を目撃したという。同氏が「ホモ行為の終極シーン」とする出来事を記したのが、以下の部分だ。
やはり合宿所での出来事である。最初は寝ている状態で布団が小さく盛り上がっていたのが、次第に大きく膨れ上がり動きも激しくなった。私(*30)の踏みとどまった境界を隣の奴は越えている。そう思って興味と困惑の中眠ったふりをして観察していた。動きとともに激しい息が聞こえるようになり、かなりの興奮らしかった。
私には目の前の二人の激しい動きと荒い息、そして初めて見る光景に意識の全てが集中する。
「はずかしいよぉ!」と小声で声変わりのしていない少年の若々しい声が聞こえる。掛け布団がさらに大きく膨れ上がり、少年を抱きかかえていたジャニーさんが上半身を起こした。暗い部屋の窓明かりだけを頼りに薄目での観察が続く。ジャニーさんは私や他の人間も寝てはいないことを知っている。この行為をわざと見せるべく動きは大きくなるばかり。逃げようともしない少年は恥ずかしさの中でデビューのためのたった一つの手段に身を投じる気力を振り絞っているとも見える。
四つんばいになった少年の後からジャニーさんは行った。細かいところは見えないが、少年の「痛い!」という声が耳にこだました。
「まじかよ」‥‥‥心の中で絶句した。ホモ行為の終局シーンの目撃であった。私もまだ純な少年、見ている全てがショックであった。
これを受容しなければデビューはないと覚悟した、されるがままの少年の痛々しさ。
(略)
彼はこの日をスタートに「儀式」の全てを経験した。愛撫からキス、そしてアナル、フェラチオまでのされる方とする方。何カ月かすると彼はグループメンバーに入り今でも活躍している。
この行為をすればデビュー、そして拒否するならばいくら頑張ってもジュニアで終わる。そのことだけが頭の中に刻まれ渦巻いていた。(『ジャニーズのすべて』146-147頁)
(*30)平本氏のこと
ジャニー氏による「仕打ち」
さらに、平本氏は所属タレントに対するジャニー氏の「仕打ち」も目の当たりにしたと語っている。ジャニー氏に嫌われれば最後、居場所を失うことになるとしている。
この点は前回触れた、ジャニー氏に逆らえばステージの立ち位置が悪くなったりデビューできなくなる、とした裁判の基となった『週刊文春』の記事とも整合する。以下は、その「仕打ち」を受けた、ある少年について平本氏が振り返っている部分だ。
あるレッスンの日、ジャニーさんが来る前に「ホモ」の噂で盛り上がっていた。安藤君はそのことについて全く知らない様子で皆に色々と質問し聞き回っていた。運が悪かった。ちょうどジャニーさんがドアを開けて入ってきたのはその最中。噂をしている中心人物に彼が押し上げられてしまった。
一気に嫌われものとなった彼の行き先は踊れば端っこの、テレビ番組で踊っていても画面に映らないような位置となり、たった一つのデビューチャンスのドラマや映画のオーディションさえ受けさせてはもらえない、ただのジュニア(*31)の頭数とされてしまった。こうなっては味噌粕である。後には、バク転を一生懸命教えてあげた植草(*32)にまで嫌われ東山(*33)にもどつかれ、とうとうジュニアを去ってしまった。ジャニーさんの気をそこねるとこのようになってしまうのだ。(『ジャニーズのすべて』118-119頁)
(*31)ジャニーズ事務所所属の若手タレントで、CDデビュー前のメンバーたちを総称するときに用いられる。
(*32)アイドルグループ、少年隊の元メンバー植草克秀氏のこと
(*33)少年隊の元メンバー、東山紀之氏のこと
事務所を去った「安藤君」という少年だが、後に『ジャニーズのすべて2』の中で「元ジュニアたちの告白」に登場し、上記の場面について自ら語った。彼は、「直接の被害はなかった」ものの「間接的には結局被害を被った」としている。以下は、その箇所の引用だ。
あるきっかけで一瞬にしてジャニーズを去る羽目になってしまった。
それはやっぱりジャニーさんの性癖なんだ。(略)ホモに関して直接の被害はなかったけど、間接的には結局被害を被った。
レッスンの始まる前に、ボク(*34)はジャニーさんの性癖がどういうものかジュニアの連中に聞いて回っていたんだ。そしたら運悪くジャニーさんがドアを開けて入ってきちゃった。「あっちゃー、やばい!」と心で叫んだけど時はすでに遅く、ボクがそんなこと聞いて回ったことを知ったジャニーさんの目はとても恐ろしかった。レッスンスタジオは、シーンと静まりキツーイ緊張感が漂っていた。少し離れた淳也(*35)もボクを見て「バカ」と口が動いている。(略)もう誰もどうすることも何も言えなくて、ボビー(*36)が「さぁ始めるよ」と言うまでの間、ずっとこのままの状態だった。
ここからボクはジャニーさんに嫌われて見えないいじめが始まってしまったのだ。(『ジャニーズのすべて2』135-136頁)
(*34)安藤氏のこと
(*35)平本氏のこと
(*36)振付師のこと
安藤氏は後に、「決定的」な出来事に直面した結果、事務所を離れる決断をしたと続ける。
そして決定的なのが来た。踊りもバク転もできたボクは大概は良い位置でステージに立てたし、ボビーもボクをよく選んでくれた。しかし当時多かったシブがき隊(*37)のバックは完全に外され、「レッツゴーアイドル」という番組(*38)のオープニングメンバーにボビーの指示でメンバー入りできたのに、ちっとも映っていない状態にされてしまうし、完全にいじめである。そう感じたボクは、もうジャニーズからデビューするのは不可能だなと思い、ジャニーズを去ることにした。(『ジャニーズのすべて2』、136-137頁)
(*37)1982年デビューの3人組グループ
(*38)1982年から1986年までテレビ東京で放送された歌謡バラエティ番組
『週刊文春』による連載報道(1999年〜2000年)
そして、もっとも大きくジャニー氏の疑惑を追求していたのが週刊誌『週刊文春』だ。同誌は1999年10月から2000年2月にかけて14週にわたり「追及」キャンペーンを開催した。2000年の3月、4月にも断続的に記事を掲載し、数々の元ジャニーズJr. による証言などを取り上げ、ジャニー氏による性加害疑惑を報道した。
中には、性加害疑惑とは別の問題(事務所所属のタレントによる飲酒や喫煙、万引きなど)を扱った記事もあるが、ほとんどの記事でジャニー氏の疑惑に触れている。
1999年11月には、名誉毀損を理由として、ジャニーズ事務所が『週刊文春』の発行元である文藝春秋を提訴した。こうして開始した裁判は2004年まで続き、ジャニー氏による性加害の「真実性が認められる」旨の判決が確定している。裁判の詳細については、以下の記事で詳報している。
『週刊文春』は「追求」記事の第3弾、第5弾、第7弾の記事についてアーカイブを公開している。ただ前述のように、他の記事でもジャニー氏の「犠牲者」たちにインタビューをおこなっている。たとえば、第2弾「ジャニーズの少年たちが耐える『おぞましい』環境」(1999年11月4日号)という記事の中で、元Jr. でジャニー氏から数回「セクハラ行為」を受けた、当時高校生の少年の発言が紹介された。時期としては、1990年代末に該当すると思われる。
「恐ろしかった」と語る少年は、以下のように発言している。
「ジャニーさんは、腹から声を出す感じで、ユーって呼びかけてくるんだけど、『ユー、来なよ』と、合宿所に誘われて食事をとると、今度は、『ユー、寝ちゃいなよ』。この一言が恐ろしかった。(『週刊文春』1999年11月4日号、192頁)
続けて彼は、自身が寝ようとすると、寝室にジャニー氏が入ってきて性的な加害行為を受け、恐怖を覚えたと口にする。
寝たら寝たで、部屋にいきなり入ってきて、俺が一人で寝ているとその横に入り込んでくるんですよ。どこかにいって変なものを持ってきたなあ、と思ったら、ヌルヌルしたものを尻に塗られて、そこに最初は指を、それから性器を入れてきましたからね。いや、怖くて後ろは見られませんでしたけど。痛い、痛い、ものすごく痛いですよ。(『週刊文春』1999年11月4日号、192-193頁)
行為が終わると、ジャニー氏は欲しいものはないか聞いてきたという。翌朝、少年が起床するとお金が置いてあったと振り返った。
終わって『何が欲しい?』と聞かれたので、『何もいらない』と答えました。そうしたら、『何かあるでしょ』って。で、朝、起きたら五万円が置いてあったんです。他のジュニアがいた場所でも、同様の行為を受けていますし、その場にいたジュニアの名前も挙げられますよ‥‥‥」(『週刊文春』1999年11月4日号、193頁)
第3弾「ジャニーズの少年たちが『悪魔の館』で強いられる”行為”」(1999年11月11日号)では、中学生時代に「合宿所で寝ていると」ジャニー氏から「セクハラ行為」を受けたと語る少年の声が紹介されている。以下、その少年による発言を記事から引用する。
「その時は、二階の右側の部屋に寝ていたと思います。バスタオルを下に敷いて、ヌルヌルしたものをお尻に塗られた。仰向けになっていると足を開いて、まず指を入れてきて、それから‥‥‥。痛い、痛いというと、痛い? なんて訊いてきて、でもジャニーは行為をやめないんですよ」(『週刊文春』1999年11月11日号)
この少年は、誰かの側で寝るようにしたが、ジャニー氏に呼ばれ一人にさせられることもあったという。そして、ジャニー氏から肛門性交を含む「行為」を受け続け、「逆らえない」状態だったと語る。
「ジャニーさんは、自分の局部にも僕の性器を入れるんです。仰向けになっていると、後ろ向きに僕の上に座って‥‥‥。そのまま、反転して、うつ伏せになると、僕が上になる。そのまま、ジャニーさんは局部を閉めたりゆるめたりする。気持ち悪いですよ。ジャニーさんの背中が目の前にあるんですよ。色白でたぷたぷして‥‥‥。
でも、逆らえないですよ。やっぱりデビューしたいじゃないですか。それで、しょうがないですね。しょうがないしかなかったんです‥‥‥」(『週刊文春』1999年11月11日号)
他にも、第6弾「ジャニーズOBが決起 ホモセクハラの『犠牲者たち』」(1999年12月2日号)という記事の中では、1970年代に活躍したというOBに取材をしている。あるOBはジャニー氏による「セクハラ行為」を「悲痛な声で訴えた」という。
OBが訴える。
「間違って欲しくないのは、ジャニーさんが同性愛者だということが問題なのではない。抵抗もできない少年に無理に行為を強いていることが問われているんです」(『週刊文春』1999年12月2日号、195頁)
この人物は、13歳でジャニー氏にスカウトされた際に、両親への挨拶のため同氏が自宅に泊まったこともあると語った。そのときに、同氏から受けたと語る経験が以下にあたる。
「忘れたくても忘れられない。両親が、僕と同じ部屋にジャニーさんの布団を敷いたんだけど、その夜にいきなりジャニーさんが、口で性器を‥‥‥。信じられないでしょう。隣の部屋には両親が寝ていたんですよ。まだ射精をする年齢でもないし、何が何だかわからない。親にも話せなくて、苦しかっただけです」(『週刊文春』1999年12月2日号、195-196頁)
別のOBは、ジャニー氏からの行為をどうにか回避しようとしていたと語る。以下にその発言を引用する。
別のOBの話ーーー。
「六本木のマンション(*39)は、四十坪か五十坪あるような大きなもので、川﨑麻世さん、トシちゃん(田原俊彦)やマッチ(近藤真彦)なんかが住んでいた。トシちゃんは、食堂で寝ていた。デビュー前の男の子は、十畳ぐらいの部屋に布団を敷いてザコ寝なんです」
その部屋に、多い時で六、七人の少年たちが寝ていたが、当時もジャニー喜多川氏との熾烈な攻防があったという。
「入り口が引き戸になっていて、その前が一番危ないというので、寝る場所の取り合いだったね。シブがき隊や少年隊のメンバーには、ジャニーさんに気に入られたいのか、Tシャツ短パンで、そういう場所に好んで寝る奴もいた。でも、そういう奴がいないときには、じゃんけんで寝る場所を決めたんです。
部屋にはソファもあって、その上が一番安全です。危なそうなときにはパンツを二枚はいて、その上からギュウギュウにベルトを締めて寝てたよ。いっぱい着て寝てたから、ジャニーさんに『ユー、暑くないのか?』と不思議がられたこともあった。
(*39)当時、ジャニー氏の自宅があったのは東京港区六本木のアークヒルズという高層マンションだった。「合宿所」とも呼ばれるその場所で所属タレントは寝泊まりやレッスンをしていた。
このOBは続けて、当時もっともジャニー氏の行為を「警戒」し「嫌がって」いたメンバーの話もしている。
一番ジャニーさんを警戒していたのは、グループSのメンバーの一人で、やっぱりパンツ二枚にベルトをしてた。本当に嫌がってたよ。
でも、そいつが十六歳の時に俺に近づいてきて、『ついに昨日やられちゃった』って。真剣に泣(*40)が入ってたね。俺、別の奴が、隣でジャニーさんにやられるのを、何回も見てるよ。ある時、ジャニーさんと目が合ったことがあって、ジャニーさんは無言でクッションを積んで、視界を遮ろうとしていた」(『週刊文春』1999年12月2日号、196頁)
(*40)原文ママ
2000年に入ると、『週刊文春』は中谷氏の「偽証」に関するインタビュー(同年1月27日号)、ファンからの「意見」を公開する記事(同年2月3日号)を発表した。中谷氏は前述した1967年の口頭弁論で、ジャニー氏からの行為について「わかんない」と答えたが、後に自著『ジャニーズの逆襲』で「嘘の証言をしてしまった」と述べている。後者では、『週刊文春』による一連の報道を読んだファンからの投書が紹介され、「自分の好きなJr. がセクハラ行為をされてると思うと悲しいです」といったものや「現Jr. たちが心配です。そのためにも徹底的にジャニー氏を追求して欲しいです」といった声が並んでいる。
続けて、日本のメディアが報じないことへの批判的な記事を出し、連載キャンペーンが終わっている(同年2月10日号、2月17日号)。
その後も散発的に、自身の息子が被害にあったと語る母親の告白(同年3月23日号)、国会での言及(後述)に関する記事を掲載した(同年4月27日号、5月4日・11日号)。
海外メディアによる報道(2000年1月、2005年)
2000年1月には、『週刊文春』による一連の報道を受けて、海外メディアも疑惑に言及し始めるようになる。
同年1月29日、The New York Times(NYT)紙は、”In Japan, Tarnisihng a Star Maker”(「日本では、スターメーカーに汚点がつく」)と題した記事の中で、”sexual abuse”(「性的虐待」)という表現を用いてジャニー氏による性加害疑惑に触れた。
NYTは『週刊文春』を通じて、雑誌連載でインタビューされた少年たちに接触を図ったが、ほとんどを拒絶されている。ただ1970年代、10代のメンバーの一員だったとする人物(取材当時40代)が名前を出さないことを条件にインタビューに応じた。その男性はインタビューの中で、12歳の新人時代、ジャニー氏に「レイプ」(raped)されたと話したという。具体的に「レイプ」という表現が使われたのは、この記事が初めてだった。
このNYTによる報道には『週刊文春』も反応、「NYタイムスも報じた ジャニー喜多川『性的児童虐待』」(2000年2月10日号)とする記事を出した。
やや時系列が前後するが、2005年には英Observer紙が「J-Popの夢工場」とする記事を掲載し、ジャニー氏による性加害疑惑が取り沙汰されてきたことに言及している。北氏が「レイプされた」(raped)ことを『光GENJIへ』で語り、平本氏が『ジャニーズのすべて』で「噂」(rumors)に触れ、『週刊文春』が連載報道で「芸能界のモンスター」を追及してきたと同記事は述べている。
国会での言及(2000年4月)
さらにジャニー氏に対する疑惑は、2000年4月13日の「第147回国会 青少年問題に関する特別委員会」でも取り上げられた。
以下は、衆議院議員(当時)の阪上善秀氏(自民党)が、ジャニー氏による「セクハラ疑惑」について、政府参考人(厚生省児童家庭局長)の真野章氏に質問をした箇所だ。
報道によれば、ジャニー喜多川社長は、少年たちを自宅やコンサート先のホテルに招いて、いかがわしい行為を繰り返しておるという内容のものであります。なぜ少年たちがこんな行為に耐え忍んでいるかといえば、ジャニー喜多川社長に逆らうと、テレビやコンサートで目立たない場所に立たされたり、デビューに差し支えるからというのであります。
続けて、阪上氏は「独自の調査」で手に入れたという、元事務所所属の少年の母親の手紙を読み上げる。そこには、ジャニー氏からの行為を拒めば「次から呼ばれなくなるから我慢しろ」と先輩から教えられた内容が綴られていたという。以下、続けて引用する。
私は独自の調査で、ジャニーズ事務所に所属していたことのある少年の母親の手紙を手に入れました。少し長くなりますが、御紹介をさせていただきます。
うちの現在高校二年生の息子も、中三の冬にオーディションに合格し、約一年間ジャニーズジュニアをしていましたが、事務所からのコンタクトがなくなり、自然にやめたような形になりました(*41)。ずっと後になって息子から聞いたのは、オーディションに受かってから初めてレッスンに行ったとき、先輩のジュニアから、もしジャニー喜多川さんから、ユー、今夜はホテルに泊まりなさいと言われたとき、多分ホモされるかもしれないけれども、それを断ったら次から呼ばれなくなるから我慢しろと教えられたそうであります。息子はジャニーさんの好みでなかったらしく一度も誘われなかったので、清い体でやめることができましたが、何人かはこの行為を受け、お金をもらっていたそうであります。今テレビでにこにこして踊っているジュニアたちは、陰ではそんなつらい思いをしておるかと思うとかわいそうです。
こういう内容であります。こういうことが事務所でまかり通っているわけであります。
(*41)この話に従うと、少年が被害を受けたのは1990年代末にあたる。
そして、阪上氏はジャニー氏が「児童を預かる立場」で「性的な行為を強要」したことが「児童虐待に当たるのでは」ないかと質問した。
ジャニー喜多川氏は、親や親権者にかわって児童を預かる立場であります。児童から信頼を受け、児童に対して一定の権力を持っている人物が、その児童に対して性的な行為を強要する。もしこれが事実とすれば、これは児童虐待に当たるのではありませんか。
こうした国会での質疑についても、海外メディアは言及していた。前述した The New York Times 紙は、2000年4月14日にも記事を掲載した。同紙は「68歳の喜多川氏が調査されていることを、役人や政府機関が公に認めたのはこれが初めてだった」としている。また、AP通信も同年4月15日に記事を配信、国会で「音楽界の大御所」の性加害疑惑に言及があったことを伝えている。
ジャニー氏の出廷(2001年)
海外メディアの報道についても、ジャニー氏はノーコメントを貫いていた。しかしながら、月刊誌『噂の眞相』(2002年8月号)は、ジャニー氏側と『週刊文春』とが係争中であった2001年7月、大阪地方裁判所の法廷にジャニー氏本人が姿を見せたという内容を報じた。以下、同誌から引用する。
この法廷ではさらに驚くべきことが起きている。他でもない、この証言の当事者、ジャニー喜多川本人がこの非公開の法廷の場で元ジュニアたちの証言に耳を傾けていたのである。(『噂の眞相』2002年8月号、36頁)
ジャニー氏による性加害を告白した元Jr. の証言のあと、ジャニー氏本人も証言台に立ち、全面否定したと伝えている。
ジャニー喜多川は、Aクン、Bクン(*42)が「嘘をついている!」と非難。逆にジュニア同士の”ホモ関係”さえ匂わす証言までしたというのだ。
さらに10年程前、元フォーリーブスの北公次がジャニー喜多川のホモセクハラを告発した著書『光GENJIへ』に関しても、こんな身勝手な証言を続けたという。
「北公次はそんなこと(ホモセクハラ行為を受けた事実)は言わない。あれはゴーストライターが勝手に書いたものだ」(『噂の眞相』2002年、8月号、37頁)
(*42)ジャニー氏から性加害を受けたと証言したジュニアを記事では仮にA、Bと名付けている。
最後の告白本(2005年3月)
そして、ジャニー氏による性加害を告白した本の中で、現状おそらく最後のものと目されるのが、元ジャニーズJr. の木山将吾氏が2005年3月に上梓した著作『SMAPへ』(鹿砦社)だ。
木山氏の著作においても、歴代の告白と同様の行為を受けたと語られている。同氏は、1980年代半ばに事務所に所属しており、2年間近く在籍していたという。同氏も「合宿所」と呼ばれる都内の「マンション」で、ジャニー氏からの行為を受けたと語る。以下、ジャニー氏に泡風呂に誘われた木山氏が「奇妙な行為」をされた場面を振り返っている。
「YOU!アワ風呂なんて始めて(*43)でしょ? この中で石鹸をつけて洗うんだよ」
と、あっけにとられている僕(*44)を湯船に誘導し、そして、いきなり石鹸を持った手で僕の背中を洗い出したのである。それはもう絶妙のタイミングで、僕には返答する間もなかった。
背中から胸、腰に手が来たとき、さすがに僕は自然に股間を両手で覆った。ジャニーさんはそれを無視して、尻からも、ふくらはぎからも足の指先まで僕の全身を泡でいっぱいにしながら、まるで幼児を洗う母親のように洗うのだ。(『SMAPへ』38頁)
(*43)原文ママ
(*44)木山氏のこと
続けて木山氏は、初めて「『ホモ行為』を見た」と語る場面を描写している。
荒い息遣いが聞こえた。それと同時に、ジャニーさんの硬くなった股間が太もものあたりに当たるのがわかった。勃っている!ジャニーさんは息を荒くしたまま、僕の手を握り、慌てた様子で奥の部屋まで僕を誘導した。
バスルームのある部屋まで行くと、そこに僕を押し込め、鍵をかけた。かけると同時に僕の背後から再度抱きつき、そのうち、硬いままの股間を摺り寄せてくる。まるで発情した犬のように。一方、僕はいきなりの行為に声も出ないまま、かたまってしまった。身動きがとれないのだ。十五歳の少年が父親より年上のおじいさんに体を押し付けられて股間を摺り寄せられる‥‥‥いま起こっている現実がどうしても理解できなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ」
ジャニーさんも無言のままで、しばらく股間を服の上からこすりつけていたが、ふいに、
「あ‥‥‥ふぅ〜」
と、息を抜いた。
イッたんだ、ジャニーさん。僕は初めて、大人の男性がイッたのを見た。
(略)
信じられなかった。まるで電車の中の痴漢みたいだ。それに「ホモ行為」を見たのは初めてだった。(『SMAPへ』54-55頁)
ただ木山氏は、自身が「性的虐待」にあっている自覚がなかったともしている。
「よくわからない‥‥‥なんなんだ、これは?」それが、正直な感想だった。それに、あまりに突飛な出来事だったから、そのときもまだ、自分が性的虐待の対象になっているとは思っていなかった。(『SMAPへ』55頁)
木山氏が疑問を口にする余裕もないまま、ジャニー氏による行為はエスカレートしたという。他のJr. たちも風呂付の大部屋で寝かされ、ジャニー氏が「全員を犯して」いたと記している。
ジュニアたちは風呂付の大部屋でみんなで寝かされた。ジャニーさんは律儀にも、全員と一緒にお風呂に入り、彼らの体をすべて洗う。そして、その後は暗くした部屋にしのびこみ、今度は一人ずつ、全員を犯していくのだ。みんな、隣の仲間が寝ている中で、ジャニーに精液を吸われているのである。(『SMAPへ』62頁)
木山氏は、ジャニー氏による行為を「儀式」とたとえ、それを終えなければ少年たちはデビューできなかったと語る。
僕にフェラチオをして、いつものように、暖かいお絞りで僕の性器を丁寧にふき終わった後、隣のベッドの新人の中学生の男の子のもとへ移動した。
「ああ‥‥‥いや‥‥‥何するの?」
少年は何も知らなかったらしく、小さな声で抵抗する。それを止めることなどできはしない。彼だってアイドルになりたいかもしれないじゃないか。ここではこの儀式を終えないとデビューできないんだから。
(略)
彼との行為が終わっても、ジャニーさんは僕らを襲うのをやめない。すでに次のベッドへ向かっている。彼も寝たふりをしているが、寝てなどいない。このジャニーの香水と息遣い、そして、立ち込める若い精液の匂いが彼を寝かしてなどくれないだろう。(『SMAPへ』62-63頁)
2010年代〜20年代
2010年代は、解散したグループSMAPの元メンバーへの圧力が主な報道になっていった。現在は新しい地図のメンバーである、香取慎吾・草彅剛・稲垣吾郎を地上波に出演させないように圧力をかけたとして、独占禁止法違反のおそれで事務所は注意処分を下された。
ただ実は、性加害疑惑に対する告白は続いていた。月刊漫画雑誌『本当にあった愉快な話』(竹書房)で2014年5月から開始した連載企画「Jr. メモリーズ〜もしも記憶が確かなら〜」において、元ジャニーズJr. の告白が漫画によって描かれている。この元Jr. は1980年代に事務所に所属していた人物で「原宿表参道沿いにあったマンション」の部屋でジャニー氏の性加害にあったとしている。
2019年7月9日にジャニー氏が逝去した後、米国のエンタメニュースサイト Variety は、生前ジャニー氏に対する疑惑が複数回浮上していたことを報じた。その中では、北氏による「露骨な手記」の公表、「性的虐待」(sexual abuse)を記述した『週刊文春』の報道があったことを紹介している。
2021年1月には、ジャニーズJr. のグループである 7 MEN 侍の元メンバーだった前田航気氏が、海外向けエンタメニュースサイト「ARAMA! JAPAN」でのインタビューにおいて、ジャニー氏から性的行為を受けたことを明かしたという。その後、該当箇所は編集された模様であり、発言の確認をすることはできない。しかし、インタビューをしたテイラー・ロナルド氏は、「ジャニー喜多川による性的虐待」に関する話を聞いたとツイートしている。
そして2023年に入ってからは、冒頭で述べたBBCのドキュメンタリーや、『週刊文春』による報道が続いている。
結論
以上、記述してきたジャニー氏による性加害疑惑に関する報道や証言は、部分的なものに過ぎない。
ここまで見てきたように、ジャニー氏による性加害行為の疑惑は、1960年代から存続してきた。主に週刊誌によって取り上げられてきた疑惑は、事務所の元所属タレントが相次いで告白したうえ、2000年には国会に持ち出され、海外メディアも報じるところとなった。
しかし、ジャニーズ事務所側は「聖域なきコンプライアンス順守の徹底、偏りのない中立的な専門家の協力を得てのガバナンス体制の強化」といったコメントを発表するのみで、本問題に踏み込んだ対応を見せていない。
近年、世界的に #MeToo 運動が巻き起こり、エンタメ業界における性暴力の蔓延が問題化されてきた。映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタイン氏、元ロック歌手のゲーリー・グリッター氏など、性加害疑惑に問われた者たちは次々と逮捕された。韓国においても、バーニング・サン事件などによって、性接待の問題が表面化している。
ジャニー氏の性加害は、2004年の裁判で「真実性が認められた」が、それは民事裁判でのことだ。刑事裁判にかけられることなくジャニー氏は逝去したため、罪に問われることもないままだった。
加えて、本問題が表面化してこなかった背景には、事務所の対応のみならず、新聞やテレビなど報道機関の責任も大きいと言えるだろう。実際、冒頭で述べたカウアン氏の記者会見を民放キー局はいまだに報じていない。
およそ60年に及ぶ問題は、いまだ終結していないのだ。
(4月14日22時17分追記)
以下の通り、本文に誤りがありました。お詫びして訂正いたします。
- 「公判」と記している箇所が複数ありますが、これは刑事裁判で使われる用語であり、本問題で扱われる民事裁判においては「口頭弁論」とすべき部分でした。ただし引用部分は原文ママとなります。
- 「新芸能学院」の説明を「芸能プロダクション」と記している箇所がありますが、正しくは「芸能学校の新芸能学院」でした。
(4月18日12時10分追記)
- 「ジャニーズJr. のグループである 7 MEN 侍の元メンバーだった前田航気氏が、海外向けエンタメニュースサイト「ARAMA! JAPAN」でのインタビューにおいて、ジャニー氏から性的行為を受けたことを明かした」とありますが、前田氏が明かしたとされるのは、複数のジャニーズJr. メンバーがジャニー氏と関係を持つことをのぞんだ、という内容でした。