⏩ 人文知の重要性を押しつけがましさ抜きに訴える時代潮流
⏩ 「正社員様の哲学」との批判も
⏩ 人文知はテクノロジー、住宅、金融について語るべきか
令和人文主義が、話題だ。論争の経緯は、人文ウォッチの植田将暉によってまとめられており、その中には自分のYouTubeも含まれている。
私は今年9月、令和人文主義の提唱者である谷川嘉浩をラジオに招き、令和人文主義についての雑感を話した。
総論として、このように人文知をめぐって議論が盛り上がることは良いことだと考える。ここで言う「良い」とは、概念として優れているという意味でも、議論の質が高いという意味でもなく、議論や概念の内実に関係なく、幅広く人文知、あるいは<人文的なもの>に関心が集まることは望ましい、程度の意味合いだ。
個人的には令和人文主義への批判に首肯する部分もあるし、より異なる論点を提示するべきだと考える点も多い。令和人文主義とは何であり、どのように批判されるべきなのだろうか。
令和人文主義とは何か
谷川が提唱した令和人文主義とは、以下のように定義される。
読書・出版界とビジネス界をまたいだ文化的潮流で、人文知の重要性を押しつけがましさ抜きに訴える姿勢に貫かれている
つまり特定の思想や主義主張を指すわけではなく、あくまでも「文化的潮流」を総称した概念だ。その意味で、同概念を「くくりとして完全に空虚で無意味」と述べる小池未樹の指摘には賛同する部分もあるが、中でも小池による次の指摘が重要だと考える。
「押し付けがましくなく語る」は、令和人文主義(と言われる人々)が持つ固有の特徴じゃなくて、最近の商業コンテンツ全般に求められる共通のフォーマット。(略)時代精神を見るとしたら、書き手のスタイルよりも「何が押し付けがましいとみなされがちなのか、その価値判断を醸成したものは何か」の部分だと思うし、そのファクターとしては商業コンテンツの「編集」の方のトレンドと、広告効果の最大化施策としてのアルゴリズム攻略の考え方の方が大きいと思う。
谷川によれば、令和人文主義という時代潮流は、教養主義の反動として立ち現れているという。
竹内洋が述べるように、教養主義とは、大正時代の旧制高等学校世代から1970年代の学生文化を指す。『三太郎の日記』や『善の研究』を読み、『世界』や『中央公論』などの総合雑誌、すなわちジャーナリズム市場に触れていた、戦前から戦後にかけての近現代日本におけるエリート学生文化の風景だ。
谷川は、こうした教養主義が「エリート主義的で、その他大勢とは違う自分を作って優越し、それを周囲に承認してもらうという雰囲気」に彩られていたのに対して、令和人文主義は「もう少し軽快な『教養』の捉え方をしている」と述べる。
令和人文主義に名前を挙げられた三宅香帆や深井龍之介、水野太貴らのコンテンツが、基本的に他者を激烈に批判したり、論ったりすることが少ないことを考えると、教養主義と対比として令和人文主義という時代潮流を読み解くことは、的を射ているように思える。
時代的な感性?
この区分に依拠した場合、強い批判を厭わない教養主義に対して、他者を傷つけない令和人文主義を呼び起こしているものは何であろうか。
飲茶は、それが時代的な感性だと述べる。
たとえば、私たちが「子供を怒鳴りつける親」「性的マイノリティを笑う芸人」「部員を殴る監督」を見たとき、事情や文脈に関係なく、瞬間的に「あ、無理……アウト……」と感じてしまうことがあるだろう。そこには理屈ではなく、もはや“時代的な感性”が働いている。
それを世代論として理解した場合、上の世代に位置づけられる教養主義者らの振る舞いを許容できない令和人文主義者は、「知識の間違いを攻撃的に指摘する知識人」や「酒を飲んで人の悪口を配信する知識人、「口汚い言葉で政治家を腐す知識人」のカウンターとして登場した。
火事と喧嘩は江戸の華であった400年前からBreakingDownまで、実態としても比喩としても、殴り合いは人々のアテンションを集めている。しかし、アテンション・エコノミーが限界に達した現在、それを醜悪に感じ、疲弊している人が増えていることも事実だろつ。他者を批判したり批判されない形で、知を消費したい人が増えていることは自然の成り行きであり、令和人文主義はその時代性に応えている。
非ビジネス系コンテンツへ
すべての時代潮流は、カウンターとして台頭する。
令和人文主義が対象とするカウンターを「教養主義」ではなく、「NewsPicks的なるもの」として理解するのは、編集者・箕輪厚介だ。
飲茶が「振る舞い」に注目しているのに対して、箕輪は基本的に「コンテンツの対象」に注目している。
宇野常寛が述べるように、2010年代後半の「若手起業家スタートアップ」ブームは終焉しつつある。スタートアップという用語は人口に膾炙したものの、「海の物とも山の物ともつかぬ若者が、アプリやメディアで一発当てる」ことは難しくなり、大手商社や金融機関、PEなどでキャリアを積んだ "大人" がスタート時から多くの資本を集める戦い方が一般化している。若者であっても、東大を卒業した若手がBtoBのAI開発に向かうなど、いわゆる「エリートの戦い」の様相を呈している。
2010年代から20年代前半までのビジネスブームは、スタートアップや起業が資本主義の論理としてもコンテンツとしても合理的であった時代に生まれた。少ない資本で事業を始め、大きな経済的リターンが期待できるのであれば、若者はそうしたゲームに熱狂する。ところが、近年のAIブームやディープテックへの関心は巨額の設備投資を必要とするため、「アセットライトなIT」という従来のルールが書き換わりつつある。
こうした時代の変化の中で、「努力すれば成功できる」や「成長してキャリアアップを」といったNewsPicks的価値観、いわゆる<自己責任的なビジネスの論理>に疲弊した人々が顕在化している。
2018年に『死ぬこと以外かすり傷』を記した箕輪が、2023年に『かすり傷も痛かった』を記し、社会的な価値観の変容を示唆している。
アメリカをはじめとする日本以外でも、いわゆる創業者神話(founder myth)が崩れ、反ハッスル文化(Anti-hustle movement)の湧き起こりなどが指摘されており、これは世界的な時代潮流だろう。
結果として若い世代は、ビジネスによる成長(と、その向う側にある経済的成功)という物語(ナラティブ)への信仰に懐疑心を持っている。結果として、自己の内面に向かい、静かに知を楽しむ形としての人文知コンテンツへのニーズが高まっていることは無関係ではないだろう。
アーキテクチャがすべてを決める
ただしより重要なことは、令和人文主義的な言説を定義づけている要素の1つに、ローレンス・レッシグが語るようなアーキテクチャがあることだ。
レッシグは、法や社会規範などと同様、ソフトウェアやハードウェア、そしてコードが人間の行動を制御する力を有していると指摘し、それらをアーキテクチャと呼ぶ。ここでは広範な意味合いで、ビッグテックのプラットフォーマー(Google、YouTube、TikTokなど)によるアルゴリズムや、それにともなうメディア環境などを指す。
冒頭の小池による指摘とも重なる部分があるが、令和人文主義者たちは主にネットの書き手・話し手だ。彼らはnoteの「スキ」の数やYouTubeのアルゴリズムに敏感であり、書籍が売れない時代に、数字を追うことを義務付けられた世代だ。その意味で、彼らの作るコンテンツは、時代性やプラットフォーマーによって多少なりとも規定されている。
その事例は多岐にわたるが、たとえば商業出版の苦境とは無縁ではないだろう。
商業出版、中でも総合雑誌の苦境は、出版業界の中でも際立っている。そうした業界の経済状況では、エッジの利いたコンテンツよりも、「安定感のある書き手」によるコンテンツが好まれる傾向が強い。
安定感のある書き手とは、良質なアウトプットが約束されていることは当然として、ネットで一定の人気があることで売上が担保されていたり、物議を醸すことなく幅広い読み手に訴えかけることが出来るような書き手だ。
商業出版を取り巻く環境が変化する中、企業や媒体に'"余計なコスト"をもたらさない穏当な書き手が残っていくことは想像に難くない。
インターネットのアルゴリズムも同様だ。インターネットにおいては過激なコンテンツこそがアテンションを集めるというイメージが強いが、近年はビデオポッドキャストのようにユーザーのエンゲージメントが重視されるコンテンツも多い。
「アテンション過剰な時代だからこそ、ポッドキャストには可能性がある」と述べる野村高文は、それを「発信者の人間性が伝わりやすいメディア」として、エンゲージメントの重要性を示唆する。激しい言葉の応酬や非難、嘲笑が続く動画よりも、穏やかに長時間楽しめるコンテンツが人気を集めている背景だ。
こうしたアルゴリズムやメディア環境が、令和人文主義における論者のキャラクターや文体を規定している可能性は高い。
加えて演者同士のコラボが好まれるYoutubeでは、双方を批判し合うようなコンテンツの作り方には、あまり利がない。BreakingDownやREAL VALUEのようなコンテンツはさておき、過度な非難や揉め事を避けて、心地よい人間関係に収束させていくことが合理的となる。(BreakingDownやREAL VALUEですらも、対立する演者たちはコンテンツに出演し続けており、決定的な対立が生まれていないことが示唆されている)
論者同士の関係性が重視されることは、批評性の欠如や商業主義的な言説への収束をもたらすかもしれない。
大学全入時代が本格化して、知を語ることが一部のエリートの専売特許ではなくなった現在、教養の発信者たちもまた市場の論理に組み込まれている。
その是非は賛否あるだろうが、紛れもない事実としてプラットフォーマーやメディア、出版業界などの構造に規定されている知の形式が生まれている。
令和人文主義の問題点
令和人文主義をアーキテクチャーとの関係性から批判することも可能だろう。商業主義や批評性の欠如、閉ざされた関係性などは、すでに散見される批判だ。
それに加えて、ここでは2つの方向から令和人文主義の問題点を検討する。
正社員様の哲学
まず、すでに向けられている批判でもあるが、令和人文主義が誰のものか?という議論が存在している。
たとえば小峰ひずみは、令和人文主義を「正社員様の哲学」としたうえで、次のように述べる。
谷川さんの言う「令和人文主義」は格差の隠蔽を前提としています。私はそこにごまかしを感じざるを得ません。そのようなマーケティング用のネーミングなど、撤回したほうがよいのではないか。
またaoi smithは、「人文知が一番必要なのは、スーパーに行って、子ども育てて、地方の工場やサービス業で働いている人たち」だとした上で、「問題は、『人文知』って言葉が、いつの間にか『タワマン文学』とさして変わらないような性質を持ち始めてることだ」とする。
aoiは、小峰の述べるように令和人文主義が「正社員様の哲学」であることを認めつつ、
- 四大出て、大企業でホワイトカラーやってて、そこそこ再配分される側の「正社員様」向けの人文知。
- 90年代以降ずっと、「市民」という言葉を掲げながら、実際はインテリ中産階級の話として回ってきた「市民様」の教養。
の間には「シフト制で働いている人」や「地方の工場でラインに入っている人」、「介護・保育・医療・接客で感情労働している人」、「学歴も職歴も“語れるスペック”にならないまま、なんとか食えてる人」が存在しており、その哲学が抜け落ちていると指摘する。
両者は、令和人文主義について、教養主義のようにエリートによって独占される哲学だとして、それが包摂的ではないと考える意味で、問題意識を共有している。
学術的にどうなのか
しかし個人的には、より重要な問題は別にあると考える。
令和人文主義が「伝わりやすさ」や「わかりやすさ」を志向し、YouTubeや新書などに最適化されることで、学術的な厳密性を失い、ミスリードに繋がる危険性だ。
たとえばコテンラジオは、世界史データベースをつくろうとしている。そこには以下のように説明がある。
世界史に精通することで、初めて見えてくる人類の思考や行動のパターン。それは今を生きる私たちにとって、非常に貴重なケーススタディです。
深井龍之介は次のように述べている。
なぜなら、常識が変化するときは「昔の人はどう考えたのか?」と考えざるをえないから。かつては知識人や一部のエリート層だけが、歴史や哲学を使って考えていました。
個人的には、こうした歴史の扱い方に批判的だ。
コテンラジオは、ある歴史の出来事や人物の行動から、普遍的な法則である「理論」を導き出そうとしている。「理論」の構築は、社会科学にとっては批判されることではなく、むしろ科学(サイエンス)を志向する上で目指される方法だ。
しかし深井らは、科学をめぐる方法論にあまり自覚的ではないままに「人類の思考や行動のパターン」を明らかにしているように思える。
たとえば、ソクラテスの「無知の知」について次のように述べる。
ソクラテスが言ったのは「お前ら、なんか分かったつもりで論破しようとしてるけど、ホントは何も分かってないよね」と。有名な言葉、無知の知。「自分が思考ができてる、知見が溜まってる、ってそれ思ってるつもりでしょ、今はもうとりあえず一回全部それを捨て去ってゼロベースで考えろよ」みたいなことを言ったんです。(略)
ソクラテスは「ソフィストは何でもわかってる前提で喋ってるよねと、何か分かってそれで人を説得するということに君たちは集中してるけど違うだろうと。おまえは何もわかってないんだ、だから俺が今から質問するからそれに気付け」(と言った)
しかし哲学者の納富信留は、「無知の知」が典拠となる文献の『プラトン対話篇』にまったく現われないだけでなく、その哲学的な解釈も「知らないということを、知っている」のではなく、「知らないことを、知らないと思う」ことであると指摘する。
一見すると、両者の違いはほとんどないように見える。しかし納富は、「不知を高次から捉える二重の知ではなく、不知をそのとおり不知とする、一重の思いなのである」(P. 259)として、通俗的なソクラテス理解が不十分であることを指摘する。
ソクラテスは、「自分が『知っている』と思いこんでしまっている者は、もう学ぶ必要はないと考え、それ以上の探究を行なわない。そのような固な『無知』こそ、私たちの知を愛する途を閉ざす恐るべき害悪である」(P. 259)と考えるからこそ、 「知らないということを、知っている」のではなく、単に「知らないことを、知らないと思う」のだ。
こうした通俗的なソクラテス理解のままに「人類の思考や行動のパターン」を導き出そうとすれば、どうなるだろうか。それは不適当な「理論」になってしまうだろう。
歴史と理論の関係については、保城広至が優れた入門書を著しており、その中で社会科学を学ぶ者であれば1度は触れてきたであろうKKV論争(*)以降の方法論論争に目を配りながら、歴史学者がどのように理論に接近するのかを検討している。
保城は、社会科学者が自らの理論に都合のよい研究や資料を断片的に取捨選択することで、歴史家から批判を浴びたことなどを踏まえて、イシュー・ 時間 ・ 空間という三つの限定を課したうえでの理論化が望ましい(これを「中範囲の理論の構築」と呼ぶ)と主張する。
こうした自制的な姿勢は、世界史に精通すれば「人類の思考や行動のパターン」が見えてくると考える、いわば広範囲の理論の構築とは線引きされるだろう。
深井は、次のように述べる。
あなたが直面するのと同じような悩みに、過去にぶつかった人は絶対にいるはずです。ならば、彼らが残したものを利用しない手はありません。常に選択を迫られる現代人にとって、教養は必要不可欠なものなのです。 選択の自由がない時代なら、教養の使い道はあまりなかったかもしれません。 しかし、現代人は違います。 それが、僕がこの時代に教養が必要であると考える理由の一つです。(P.173-174)
自らの抱える悩みを軽くしたり相対化するために、過去の人々が直面した悩みを参照することは、学問ではなく一種のセラピーである。それは、セラピーの軽視や事象の良し悪しではなく、単純に役割が違うことを意味する。現在の学びのために過去の事象を参照することは、歴史の消費の一形態としては良いだろうが、それをもってして「人文学」や「歴史学」であると定義することは、慎重になるべきだろう。(*)
もちろんこれに対して、コテンラジオは「人文学」や「歴史学」を標榜しておらず、知への入口を提供しているだけだという反論もあるだろう。しかし、コテンラジオは株式会社サイバーエージェントとともに「人文知を意思決定に取り入れ、広告会社として社会課題の解像度を上げる」人文知研究所を設立している。こうした歴史認識が社会的にも広まった場合、いわゆる司馬史観にもとづいて企業や社会の意思決定が進んでしまうように、アカデミックな歴史学が誤解されてしまったり、ミスリードな理解が普及する危惧もある。
ここで言いたいことは、コテンラジオが学術的に不十分であるから問題だ、ということではない。人文知が社会と接点を持つときには、それがどのように消費されるかに自覚的になるべきであるし、そうした議論も重要だということだ。
実際、コテンラジオは人文知と社会の接点になっているだけでなく、学術研究の裾野を拡げているだろう。これらは十分に肯定的な側面であり、従来総合雑誌などのジャーナリズムがおこなってきた仕事を継承しつつ、現代の形に生まれ変わらせている。コテンラジオは他にも、歴史を「昔の人はどう考えたのか?」の材料として用いるだけでなく、価値を相対化するための道具としても用いている。深井はこれをメタ認知と呼んでいるが、それは歴史を学ぶ1つの重要な意義だと言える。(*)
(*)キング、コヘイン、ヴァーバの共著『社会科学のリサーチ・デザイン』を中心とした、社会科学における方法論をめぐる議論。
(*)たとえばリン・ハント『人権を創造する』などの仕事は、こうした方法論に該当するだろう。
概念化の意味
以上のような批判があったとしても、令和人文主義のような概念が提起される意義は大きいと考える。
こうした概念化には、「気に食わない具体的な誰かについて名前を出さずに悪口を言うための手段になるか、抽象化された藁人形をみんなで叩いて満足するためのレッテルにしかならない」という指摘もあるが、時代潮流や時代精神を分析するうえで、何らかの概念化を試みることは重要だろう。
むしろ、立ち上がり当初は粗い概念であったとしても、議論は徐々に洗練されていくはずであるし、その過程こそが思いがけない歴史的記録になり得るからだ。「ニューアカ」や「新人類」であっても、単なるレッテルのように消費されていた瞬間も少なくない。
にもかかわらず、令和人文主義、というより<令和人文主義>的な昨今の人文知は、現在の社会的文脈において乗り越えなくてはならない課題に正面から向き合っていないように思える。そして、そのことは令和人文主義が抱える最も大きな課題だ。
テクノロジー・住宅・金融
現代の人文知が乗り越えるべき課題とは、先進国において格差が拡大し、中間層が剥落しているという問題だ。つまり、資本主義の問題であると言える。これはaoiや小峰の問題意識と共通する部分は多いものの、批判の方向性は真逆である。
aoi smithや小峰は、正社員と非正規雇用を線引きし、前者を人文知について考えるような経済的・精神的余裕がある人々として定義づける。しかし、それは幻想だ。現代の正社員の多くは、人文知について考える余裕を持っていない。別の言い方をすれば、「働いていると本が読めない」のだ。
またaoiは、「自分の暮らしを、自分の言葉で説明できること」や「感情を“自分一人のせい”にしないための地図」を持つことが重要だと考え、令和人文主義ではない哲学が必要だと述べる。しかし有り体に言ってしまえば、それは目眩ましに過ぎない。哲学は私たちの生活を彩り、認識を変えてくれるが、大半の認識の変化は腹を満たしてくれない。
令和人文主義は、人々が苦しい生活の中で、少しでも資本主義の螺旋階段を忘れさせる息抜きになるかもしれないが、根本的な解決はもたらしてくれない。私たちをコンテンツの洪水に溺れさせるアルゴリズムと同様、そこで展開される人文的なコンテンツもまた、ただ目眩ましに過ぎない側面に過ぎない。もちろん、精神的な充足は重要だ。しかし「人文知を考える」のではなく「人文知で考える」ならば、それをコンテンツとしてのみ消費しているわけにはいかない。
では、何が必要なのだろうか。
それは人文知を通じて、テクノロジーと住宅、金融について語ることだ。
まずテクノロジーについて、私は人文学者がテクノロジーを理解し、語りはじめることに2つの意味を見出している。1つは、ここまで見てきたようにテクノロジーが規定する社会を理解するための学術的価値だ。もう1つは、テクノロジーを理解することで資本主義に対峙するための道具的価値だ。
学術的価値については、著書『カウンターエリート』でも記載したように、現代社会はテクノロジーによって規定されていることを踏まえる必要がある。OpenAIのサム・アルトマン、PayPalやOpenAI、Palantirの共同創業者でもあるピーター・ティール、SpaceXやTeslaのイーロン・マスクらは、良くも悪くも私たちの社会と未来を規定している。
そして意外なことに、こうしたテックエリートの側には人文知がある。サム・アルトマンの評伝には、効果的利他主義が多くの紙幅が割かれているが、これはピーター・シンガーやウィリアム・マッカスキルが牽引する倫理学の議論だ。
彼らが、単なるスノッブな鼻持ちならないエリート意識から人文知や効果的利他主義について語っている可能性も大いにある。とはいえ、シリコンバレーやアメリカのテック業界が人文知と密接に関わりながら成長してきたことも事実だ。この点については、The HEADLINE シニアリサーチャーの金子侑輝がカリフォルニア現代思想として人文ウォッチ内で説明している。
ここで言いたいことは、人文知と密接に関わっているからテクノロジーを理解するべきという話ではない。むしろ、こうしたテックエリートのつくりあげる世界は、明らかに格差を生み出し、テクノ封建制と呼ばれる状況を作り出している。にもかかわらず、テックエリートによって規定された世界の仕組みを理解することは重要だ。
なぜなら、彼らが世界を規定しているのは「テックエリートだから」ではなく、「テクノロジーにbet(賭けた)したエリートだから」だ。東浩紀が、ミシェル・フーコーよりもアラン・ケイが教養になるべきだと考えるように、現代社会の構造や行方を理解するうえでテクノロジーは欠かすことが出来ない。
封建制を作り上げ、格差を拡大させる元凶の1つであるテックエリートも、テクノロジーが社会を規定していることに自覚的だ。自らをビルダー階級と名乗るPalantirの共同創業者であるジョー・ロンズデールは、政治や社会的課題に積極的に関与している。
ロンズデールは、自身やオープンAIのサム・アルトマン、決済会社ストライプの共同創業者パトリック・コリソンをビルダー階級と定義して、政府の役割から経済成長、テクノロジーの未来まで幅広い議論を好んでいる。彼らが、世界が停滞していると憂慮していること、「資本と頭脳があれば、社会の進歩を再起動(リブート)できる」という信念を持っている(P.128)
一方、テクノロジーの道具的価値については、嫌悪感を抱く人は多いかもしれないが、端的にキャリアや資本主義、賃金を考えるうえで重要だ。
テクノロジーの理解は、今を生きる私たちの世界を理解することや「自分の暮らしを、自分の言葉で説明できること」だけでなく、就業機会の拡大や賃金上昇につながる。テクノロジー業界にいようがいまいが、ソフトウェアをつくっていようが製造業に従事していようが、金融業界やエネルギー業界にいようが、テクノロジーの理解は多くの人に機会をもたらす。
こうした主張は、再び令和人文主義からNewsPicks的価値観への回帰を促しているように見えるかもしれない。しかし、「自分の暮らしを、自分の言葉で説明できること」では十分ではない。自分の暮らしをより良いものにするためには、端的に資本が必要なのだ。
ナンシー・フレイザーが述べるように、カーニバル資本主義が進行している現在、労働組合や社会運動の再強化も重要だ。しかし個人が生き延びるためには、プラクティカル(実践的)な知も重要だ。労働争議や組合、社会運動は中長期的に社会を変革していくが、多くの人にとって重要なことは明日の飯を食うことだ。
ただし学術的価値と道具的価値の境界は曖昧だ。AGI(汎用的人工知能)に賭け、核融合などのエネルギー分野に財を投じ、人間の寿命を延ばそうとするサム・アルトマンについて、「ここはサムの世界だ。そして私たちは皆、その中で生きている」と語られることがある。
アルトマンの描く未来が見えるならば、それは現代社会や未来を規定する世界観の一端に触れる事になるし、その未来に投資できるならば(文字通りの投資に限らず、そういった業界で働くことも含めて)、資本主義に対峙するうえで有用な武器を手に入れることが出来るだろう。
住宅、金融
労働者にとって、住宅や金融はより実践的な意味を持っている。本記事はあくまで令和人文主義についての議論であるため、そこには深堀りしないが、マルクスからデイヴィッド・マッデン、アーロン ・ベナナフに至るまで、住宅や労働をめぐる議論は過小評価されている。
まず住宅は、多くの人々の生活費の1/3を占めるものであるにもかかわらず、正面から哲学やリベラルの問題になることが少ない。
現在、日本を始めとして世界各地で市民を襲っている不動産価格の上昇は、NY市長に当選したゾーラン・マムダニをはじめとする一部の左派政治家にとっての主要な議題だが、政策的にも哲学的にも、そして個人の最適な生存戦略としても議論は十分ではない。戦後の格差拡大の一因として住宅の供給不足をあげる論者もいる中で、この問題をめぐる人文知は不足している。
そして金融についても、新たな哲学が求められている。
テクノロジーとの関係性で言えば、2010年代から2020年代はS&P500の時代であった。しかし、現在の株式市場はマグニフィセント・セブンに牽引され、AIをめぐる大規模投資が新たな「レジームチェンジ」を引き起こそうとしている。
これは単なる株式市場の話ではなく、NISAなどを通じて資産防衛を「国家から求められている」市民様がどのように生き抜いていくべきかという指針の問題だ。我々の世界はどんな位置にあり、どこに向かい、そしてどのように資本を振り向けたら、自分の暮らしをより良いものに出来るだろうか?投資家がアメリカン・ダイナミズムを謳って防衛テックに投資する時代、Anduril Industriesに投資することは倫理的に許容されるのだろうか?
誰もが株式市場にアクセスし、資本家になれる時代に、格差拡大を憂い、労働争議や運動 "だけ" を求めていれば、それは知識人としての責務を果たしていると言えるだろうか。
マネージャー層の知識
ジェラール・デュメニルやドミニク・レヴィが述べるように、現在の社会は、マルクスが想定したような労働者と資本家のみで構成されている世界ではない。両者の間にはマネージャー階層と呼ばれる、企業や国家の管理・運営を担う専門職・管理職層が存在している。彼らは、指示に従う労働者ではないものの資本を所有しているわけでもない中間的な階層であり、企業の管理職やエンジニア、コンサルタント、会計士、金融専門職などが該当する。
個人的な私見としては、このマネージャー階層はテクノロジーと住宅、金融について独占的に知識を持っている。問題視すべきは、令和人文主義でも「正社員様の哲学」でも「市民様の哲学」でもなく、この「マネージャー層の知識」が、ある程度のMoat(堀)によって守られていることだ。
なぜなら、こうした知識の民主化に本来的に貢献するはずのメディア(報道機関)は、長らく「正社員様の哲学」や「市民様の哲学」の論理が強い、メディアや広告代理店業界の人間によって固められてきたからだ。1970年代から2000年代前半頃のメディア・広告業界におけるエリートは、いわゆる「教養」や「クリエイティブ」の言語を操り、彼らの「知」は教養主義に下支えされていた。
そのためTVや新聞などのオールドメディアで「正社員様の哲学」や「市民様の哲学」が特集されることはあっても、「マネージャー層の知識」が語られることはほとんどない。それらは新自由主義や自己責任、"ハック" として侮蔑や批判の対象であったものの、大真面目に議論すべき哲学的論点は存在しないと思われていた。
しかしながら、そこには従来の人文知が軽視してきた重要な論点があり、令和人文主義が無視すべきではない議題が多数広がっている。
いまこそ知識人は、テクノロジーと住宅、金融について語る必要がある。マルクスがそうであったように、思想や人文知は、我々の気を逸らすために存在するのではなく、我々の生活を改善するために存在するからだ。
人文学とビジネスの加速へ
私は、「正社員様の哲学」どころか「マネージャー層の哲学」こそが重要だと考えている。これは人文学とビジネスを架橋している意味で、令和人文主義の系譜に連なるのかもしれないが、その架橋を "加速" しているため、aoiや小峰からはむしろ強い批判対象となるだろう。悪名高い効果的加速主義を想起する人も少なくないはずだ。
そうした批判が想定され得るにもかかわらず、私は人文知がもっとテクノロジーや住宅、金融について哲学するべきだと考えている。マルクスは、次のように語る。
たしかに一つの社会は、その社会の運動をつかさどる自然法則を知ったからといって──そして近代社会の経済的運動法則を明らかにすることこそ、この著作の究極目的なのだが──、自然な発展段階を飛び越えたり、それに無効宣告を下したりすることはできない。しかしそれによって陣痛の期間を短縮し、痛みを緩和することはできる。(P.18)
知識人は、社会が痛みによって苦しんでいる時、その痛みを短縮し、緩和する責任がある。ビルダー階級という呼び名は傲慢に聞こえるかもしれないが、カウンターエリートの時代、エリートには自ら手を動かして何かをビルド(構築する)し、社会をより良い方向に変革する責任がある。その対象は、政治のデジタル基盤かもしれないし、社会保障制度かもしれないし、オールドメディアに代表される言論空間かもしれない。いまこそ、「人文知を考える」のではなく「人文知で考える」時期に来ているのだ。
人文知の楽しみから活用へ
補足的ではあるが、最後に重要な論点を再確認しておこう。
令和人文主義と筆者の明確な違いは、前者が主に「人文知を楽しんでいこう」というスタンスを取っているのに対して、筆者はそれを「活用していこう」という強いポジションを取っていることだ。
大昔、「職が減っていく文系院生は、今後いかにサバイブしていくべきか」という記事を書いたが、私はその頃から一貫して、人文知を「役立てる」ことを志向している。逆に言えば、「役に立つとか関係ない」という立場には批判的だ。
一般的に、人文知に有用性を求める議論は、近視眼的で新自由主義的であり、その価値を理解していない愚かなものだと思われている。ベンジャミン・クリッツァーは、有用性の問題から逃げる人文学関係者の問題点を次のように述べる。
「人文学は何の役に立つのか?」という問いがなされること自体になんらかの憤慨や心外を感じており、そのような問いは的外れであるだけでなく、非道徳的で反社会的なものであるとも思っているようだ。(略)
人文学を専攻する人たちの間では、問いに答えることよりも、問いをズラしたり問いの前提を問い直すこと(つまり、問いに答えないこと)の方が知的で高尚であり、格好いいとされることが多い。逆に、問いに対して正面から答えることは野暮で格好が悪いことであるとされるのだ。
しかし、人文学の有用性に正面から答えることは重要だ。それは人文学の生存戦略として以上に、真摯な財の分配という意味合いが強い。
あなたが功利主義の立場に与していようがいまいが、100万円が手元にあった時に、それを今すぐ手術が必要な子どもの手術代に使うか、平安時代の和歌の研究費に使うかを選ぶ必要に迫られたら、何らかの選択をせざるを得ない。国家予算も手元の100万円も、財の分配でありことに変わりない。
このアナロジーは、和歌の研究を軽視しているわけではなく、もちろん長期主義の立場(前述した効果的利他主義やマッカスキルらの研究を参照)から研究費に投じるべきだと考える立場もあり得る。しかし、いますぐに使い道を決めなくてはならない状況で、「そもそも二択であるべきかを問い直すことが〜」と問い直しをおこなっても意味がない。その意味で、我々は人文学がどのように役立つかを説明する倫理的義務を負っている。
冒頭の動画で述べたように、筆者は人文知について多くの国民が「資金を投じるべきだ」と考え、国家予算を投じることに正当性が生まれるためには、何らかの有用性の説明が必要だと考えている。令和人文主義者は、多くの人が楽しみを理解すればマーケットが拡がると考えているかもしれないが、この分野の市場原理に対しては懐疑的だ。
しかし、その説明責任を果たすことは決して困難ではないとも感じている。
ESGやSDGsの盛り上がるの中で、かつてないほど人権や権利意識、環境正義などの議論は盛り上がっており、前述したような効果的利他主義の議論がテクノロジーと結びついている。国際関係が19世紀の様相を呈している現在、優秀な地域研究者を確保しておくことは、間違いなく国益に適っている。くずし字のデータはAI研究に活用されるかもしれないし、中世の妖怪の研究が自然災害との関係性や地域コミュニティの文化的価値の向上につながるかもしれない。
私は、明確にこの価値観に基づいてメディアを運営し、自身もメディア露出している。なぜならニュースは、人文知がもっともマネタイズされやすい瞬間であるからだ。ロシアによるウクライナ侵攻が始まった瞬間、ウクライナ研究者やNATO研究者がメディアに引っ張りだことになったし、パンデミックはワクチン摂取の優先順位を決めるという医療倫理の専門家のニーズを高めた。自らが人文知で儲けたいという話ではなく、こうしたニュースにまつわるコンテンツの中に様々な専門家を起用することで、より多様で幅広い人文知の有用性が社会から認められるのではないかと考えている。
人文知が「我々の生活を改善するために存在する」という私の立場は、極端な位置にある。結局のところ、人々の関心の輪を拡げていく令和人文主義も、私の立場も、両方やっていけば良いのではないか、という結論になるだろう。
しかし社会が貧しくなり、中間層が剥落している現在、国家予算の"無駄"には厳しい目が向けられている。その意味で、令和人文主義という形で人文知のあり方をめぐる議論が広がっていることは極めて望ましいことだろう。
その先に人文知の必要性を認めるかは、民主主義社会である限り国民に委ねられている。ただその国民の選択に際して、人文知が楽しみのためではなく「役に立つ」側面があることは、十分に広まってほしいとは願っている。