green and white braille typewriter(Markus Winkler, Unsplash) , Illustration by The HEADLINE

キャンセルカルチャーとは何か?五輪開会式におけるクリエイターの辞任は「行き過ぎた対応」か

公開日 2021年07月24日 22:39,

更新日 2023年09月14日 17:31,

無料記事 / 社会

[本記事のまとめ]
  • キャンセルカルチャー批判は、その曖昧な用法や定義に起因しているケースが少なくない
  • 「周縁化された人々からの異議申し立て」としての起源は、十分理解されていない
  • 問題はキャンセルカルチャーの賛否ではなく、異議申し立てに対して十分な説明責任が果たされているか?処罰や問題化は不均衡ではないか?など個別に議論されるべき

今月20日、東京オリンピックの開会式で楽曲担当者の1人だったミュージシャンの小山田圭吾が辞任した。同氏は1994年1月号の雑誌『ロッキング・オン・ジャパン』および1995年8月号の『クイック・ジャパン』などに掲載されたインタビューで学生時代のいじめを告白しており、両誌編集長も謝罪する事態となっている。

一方、哲学者の東浩紀は「ぼくはまったく擁護派ではないんだけど、いじめがあったのは25年前ではなくおそらく35年くらい前で、それについて語ったのが25年前」と述べた上で「大昔の発言や行動記録を掘り出してネットで超法規的にリンチするのはよくない」と指摘して、「いくらいじめが嫌いでもこの糾弾には乗れない」と結論づけている。

またEXITのりんたろー。は「27年、40年と歩んできた道とか、後悔とか、成長とか、変化とかを全部にして、今を見ずにこの行為だけをクローズアップして、過去の彼に対して石を投げるということが果たして正しいのかという疑問はある」と述べて、過去の行為をいつまで問題化されるべきなのかを疑問視している。

加えて同22日、同じく開閉会式のショーディレクターを務めていた小林賢太郎も、過去にナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)を揶揄するネタをおこなっていたことが問題視され、解任される事態となった。相次ぐ事態に、元大阪府知事の橋下徹は「発言は世界標準で絶対に間違いで許されないが、過去誤った行為を行ったことで、その人の人生全てが許されないというのは違う」と述べている。

過去の発言・行動が10年20年後になって批判される事態は、近年しばしば見られており、それらはキャンセルカルチャーという言葉によって問題化されている。

一体、キャンセルカルチャーとは何であり、その問題点あるいは擁護すべき点は何なのだろうか?また、キャンセルカルチャーは「行き過ぎた対応として、批判的な文脈で語られることが多い」とも言われるが、そうであれば今回の小山田・小林の辞任は「行き過ぎた対応」なのだろうか?

キャンセルカルチャーとは何か

キャンセルカルチャー(Cancel culture)とは、時にコールアウトカルチャー(Call-out culture)とも呼ばれ(*1)、その意味は多義的に使われている。

たとえば批評家のベンジャミン・クリッツァーは「著名人の過去の言動やSNSの投稿を掘りかえして批判を行い、本人に謝罪を求めたり地位や権威を剥奪するように本人の所属機関に要求したりするような振る舞い」と説明している。

また「熱心な左派活動家が、ある規範から違反したと見なされる個人を永久に辱め・追放することによって、好ましくない表現の自由を抑圧しようとしている」という見方もある。

この用語は曖昧な意味で使われており、特に左派(リベラル)と右派(保守)と呼ばれる政治的な立場が異なる人(*2)にとっては相手を批判する文脈の中において使用される。

その不安定な定義にもかかわらず、キャンセルカルチャーが使用されるケースは急増している。Google Trends による過去5年の「Cancel culture」の検索動向によれば、2019年頃から使用が増加しており、2020年7月と2021年2月に関心のピークが確認できる。

過去5年間のCancel cultureの検索動向(Google Trends

(*1)両者の違いを主張する声もあり、それらは後述する。
(*2)左派=リベラル、右派=保守という区分には、多くの反論があるだろう。しかし本稿では、キャンセルカルチャーの議論に集中するため、構図を単純化する。リベラルについては、福祉政策や社会保障において再分配を重視する「経済的リベラリズム」というよりも、少数派の権利を重視する「文化的リベラル」を指す。また保守についても、米国においてネオコンから現在の共和党支持者まで、その内実は多様であるため、ひとまず「文化的リベラルを批判する人々」として定義する。一般向けのリベラリズムに関する概説書は、田中拓道『リベラルとは何か 17世紀の自由主義から現代日本まで』がある。また保守に関しては、宇野重規『保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで』がある。

トランプ前大統領の批判

2020年7月は、トランプ前大統領がキャンセルカルチャーを批判的に言及したことで注目が集まった時期だ。

同年5月のジョージ・フロイド事件以降、Black Lives Matter運動が盛り上がりを見せた米国では、人種的平等を求める声の高まりとともに、南北戦争で奴隷制維持のために戦った南部連合の指導者の彫像が引き下ろされる動きが生じた。前大統領は独立記念日の式典において、それらをキャンセルカルチャーだとして非難した。

2021年初頭のもう1つのピークも、トランプ大統領の動向に関連している。今年1月、米国議会暴動が起こり、その結果として前大統領のTwitterアカウントが削除された際、トランプ支持者らは「リベラルによるキャンセルカルチャー」だと盛んに批判した。

また2021年2月には、Disney+で配信中のドラマ『マンダロリアン』に出演していた総合格闘家で女優のジーナ・カラーノが、ナチスによるホロコーストに関連する発言などをもとに降板を余儀なくされた。カラーノはハリウッドでは珍しい共和党支持者であったことも相まり、トランプ支持者らによるキャンセルカルチャー批判はピークに達した。

『ハリーポッター』作者も

トランプ大統領による批判が注目された2020年7月にも、ハリウッドで同じくキャンセルカルチャーに関する議論が巻きおこった。

発端は同年6月、『ハリーポッター』シリーズの作者である J.K.ローリングが「生理がある人々のため、より平等なポストCOVID-19の世界を構築する」というタイトルの記事を揶揄したことだ。ローリングが「生理がある人」は「女性」であり、トランスジェンダーなどを含むべきではないという立場を示唆したことで、トランスジェンダーの人々への差別だとして大きな批判が沸き起こった。(*3)

『ハリーポッター』シリーズで主人公を演じた俳優ダニエル・ラドクリフは、以下のような記事を公開して、ローリングの主張に異議を唱えた。

トランスジェンダーの女性たちは、女性だ。これに反する声明は、トランスジェンダーの人々からアイデンティティや尊厳を奪い取ってしまい、この問題について、私や彼女よりもはるかに経験あるプロフェッショナルや専門的機関によるアドバイスにも反している。

同じく『ハリーポッター』シリーズのエマ・ワトソンも、Twitterで以下のように発言した。

トランスジェンダーの人々は、彼らが自認する通りの人であり、絶えずその認識に否定や疑義が投げかけられることなく生きる権利があります。

この騒動後、同年7月にローリングは1つのオープンレターに名前を連ねた。それは公正と公開討議についての書簡と題されたもので、以下のような内容が記されていた。(*4)

われわれの文化的諸制度は、いま試練の時を迎えている。人種的・社会的正義を求める強力な抗議活動によって、かねてから求められていた警察改革への道が開かれ、高等教育、ジャーナリズム、公益事業、芸術などを含むあらゆる分野を、より平等で包摂的にすべきだという要求が広がっている。しかし、こういった悪弊の清算は必要だが、それによって新たな道徳的態度と政治的コミットメントの組み合わせを強化し、イデオロギー的同調圧力を強める一方で、開かれた討議と異なった見解への寛容という規範を弱体化させている傾向がある。われわれは前者の展開には拍手を送るが、後者には反対の声を上げたい。

このオープンレターでは、キャンセルカルチャーという言葉そのものは使われていないが、その潮流を危惧した内容であることは明らかだ。ローリング以外にも、言語学者ノーム・チョムスキーや歴史学者フランシス・フクヤマ、心理学者スティーブン・ピンカーなどの著名学者などが名前を連ねており、ローリングの騒動に限らず、現在の言論状況について問題意識を有する知識人が幅広く存在していることを示した。

(*3)生理に関する問題は、女性に限らずトランスジェンダーやノンバイナリーなどの人々にとっても人権や公衆衛生上の危機であることは、本誌「生理の貧困とは何か?なぜ各国は対策を打ち出しているのか」で紹介している。
(*4)日本語訳は、雑誌『アステイオン』に掲載。

オバマ大統領の発言

このオープンレターに左派(リベラル)知識人が名前を連ねているように、キャンセルカルチャーを危惧するのは、右派だけではない。その代表的なものが、2019年10月のオバマ財団におけるイベントでオバマ元大統領がおこなった発言だ。

オバマ元大統領は「もし私が、誰かを『正しく物事を行わなかった』や『誤った動詞を使った』とツイートしたりハッシュタグをつけて非難すれば、良い気分になれるだろう」と述べ、こうした発言や振る舞いによって、自分がいかに政治的に目覚めた(Woke)人間であり、正しい立場であるかがアピールされる状況を批判した。

その上で「純粋な論理によって、一切の妥協を許さず、自らは常に政治的に正しいという立場は一刻も早く捨て去るべきであり、現実の世界が乱雑であいまいであることを認識すべき」だと述べた。最後に、オバマ元大統領はSNSによって誰かを批判することは「アクティビズムではなく、変化をもたらさない」と締めくくった。

元大統領のこの発言を「ブーマー」と批判する声もある。ブーマーとは米国において戦後(1946年)から1964年頃までに生まれたベビーブーム世代を指す言葉であり、ミレニアル世代やZ世代から見て、彼らの古い価値観を揶揄するような意味合いでも使われる。「Change」のメッセージと共に、若きリーダーとして初の黒人大統領となったオバマですら、SNSがもたらす変化については、古臭い認識しか持っていないという批判だ。

しかしながら、キャンセルカルチャーに批判的な目を向けるのは、何もブーマーだけではない。例えば2001年生まれでZ世代の一人である歌手ビリー・アイリッシュは、以下のように述べる

キャンセルカルチャーはクレイジーで、インターネットはただの荒らしの集まりだ。問題は、その多くが本当に楽しいということで、それこそが問題だ。だから誰も止めることができないのだろう。

このインタビュー後、ビリー・アイリッシュ自身がキャンセルカルチャーに巻き込まれた。13-14歳の頃のアイリッシュがアジア系のアクセントを模倣して、中国人への蔑称を口にしたとされる動画が公開されたことで、謝罪に追い込まれたのだ。この動画は編集されたものであり、批判は不適切であるという指摘も見られたが、彼女自身は「当時の私の無知さや年齢は、人を傷つけてしまった事実の言い訳にならない」と述べている。

いずれにしてもキャンセルカルチャーについては、政治的立場や世代を超えて一定の危機感が共有されているのだ

キャンセルカルチャーの歴史

キャンセルカルチャーの賛否を考える前に、その歴史について見ていこう。というのも、キャンセルカルチャーが語られる際、トランプ支持者らはしばしば「リベラルによる言論統制」という語り方をすることで、それに批判的な目を向けるからだ。

実際、共和党のジム・ジョーダン下院議員は「ニュースルームから大学のキャンパス、ソーシャルメディアの巨人まで、特定の政治演説を黙らせて検閲する危険な傾向」が生じており、合衆国憲法修正第1条の「言論の自由」のために「アメリカを席巻する、キャンセルカルチャーについて検討する必要がある」と述べている。(*5)

キャンセルカルチャーは、果たして近年のリベラルから生まれた言論統制なのだろうか? ― 答えはノーだ

(*5)この問題設定はそもそも不適当であるが、それは後述する。

キャンセルカルチャーの起源

陶片追放、魔女狩り、東ドイツにおける秘密警察への密告制度、そして公民権運動のボイコットのように、キャンセルカルチャーに"なぞらえられる"歴史的事象は数多くある。

しかしながら、どの歴史的事象になぞらえられるかは、キャンセルカルチャーへの賛否の立場に依存する。例えば、それを魔女狩りだと考える人は否定的な立場であり、黒人や人種・民族的マイノリティなどによるボイコットに近しいと考える人は、概ね肯定的な立場を取っている。つまり、それを何かになぞらえることにあまり意味はなく、キャンセルカルチャーそのものの起源を明らかにすることが重要だ。

何人かの研究者は、キャンセルカルチャーの起源について、政治学者ユルゲン・ハーバーマスによる「公共圏」と呼ばれる概念と関連付けながら理解している。「公共圏」とは、国家や市場とは異なり、市民や貴族が相互理解を目的として、自由かつ対等に議論をした空間を指す。例えばコーヒーハウスやサロン、読書会などでの議論、新聞の論説やラジオ番組などが含まれる。

しかし実際には、米国における黒人社会や女性たちなど「公共圏」から漏れる集団は多数存在していた。こうした人種、民族、あるいはジェンダー的なマイノリティたちが生み出した、独自の公共圏のことをナンシー・フレイザーは「対抗的公共圏(Subaltern Couterpublics)」と呼んだ。この対抗的公共圏が、キャンセルカルチャーの起源に大きく関係していると言われる。

対抗的公共圏から生まれたキャンセルカルチャー

例えばバージニア大学助教授のメレディス・クラークは、米国の歴史において「公共圏」から排除された黒人たちが、対抗する言論空間(黒人対抗的公共圏、Black Counterpublics)を生み出したことと関連付けながら、以下のように説明する。

社会の周縁部から響く反対意見を委縮させるツールとして、このフレーズが使われている状況を適切に読み解くためには、権力を持たない人々のコミュニケーションの歴史と実践に注目することが重要だ。

少なくとも米国においてキャンセルカルチャーの起源は、南北戦争から公民権運動にかけての歴史の流れの中で理解される必要がある。

黒人文化での使用

そのことは、黒人文化と関連する作品において「キャンセル」という用語が使用されてきた歴史からも示唆される。

人間を対象として「キャンセル」が使用された初期の例としては、1991年の映画『ニュージャックシティ』における「その女は用無しだ、次がいる(Cancel that bitch. I’ll buy another one.)」というセリフが知られる。また2014年のリアリティ番組『Love & Hip Hop: New York』でも、人に対して「キャンセル」という言葉が使われたことで、人口に膾炙していく。

その後、2015年前後から Black Twitter(SNS上のアフリカ系米国人のユーザーで構成されるコミュニティ)内で、キャンセルという用語が「行き過ぎた行動と見なされた著名人をボイコットする呼びかけ」の意味合いで使用されることが増え、現在のキャンセルカルチャーの用法が生まれ始めた

こうした歴史について、Washington Post 紙では以下のように紹介されている。

「キャンセル」と「ウォーク(Woke、目覚め)」は、黒人文化の中から生まれ、主流な白人文化に盗用され、そして叩かれて消し去られようとしている最新の事例だ。黒人の若者たちは、意識や行動を促すための真摯な言葉として、また時にはジョークを飛ばす手段として、何年にも渡ってこれらの言葉を使用してきた。

キャンセルの意味合いの変化

そして「キャンセル」という言葉は、対抗的な言論空間(黒人文化)から主流の文化圏(白人文化)へと広がる中で、その意味合いが変化してきた。

「Black Twitter」において、誰かを「キャンセル」すると宣言することは、広範なボイコットを呼びかけたり、公共圏から誰かを追い出すことではなく、あくまで個人的な決定として、そこから距離を置くという宣言に過ぎなかった。なぜなら、対抗的な言論空間には公共圏から誰かを追い出すような力もなければ、その実現可能性も低かったからだ。

わかりやすく言えば、「誰かが『キャンセル』されたということは、TV局の幹部に対して番組の打ち切りを要求するというよりも、チャンネルを変えて、友人やフォロワーにそれを伝えるようなもの」に過ぎなかった。別の言い方をすれば「私には強い力がないかもしれないが、私が持っている力はあなたを無視することだ」という意思表明に過ぎない。

現在、キャンセルカルチャーは「リベラルによる言論統制」や「行き過ぎた対応」の一環として語られることが多いが、それが米国における黒人文化や「黒人対抗的公共圏」の文脈から生まれた事実は覆い隠され、むしろ反対に「若いリベラルな黒人の価値観を嘲笑するための武器」と化している。キャンセルカルチャーへの賛否はさておき、この用語が政治的対立の一環ではなく、周縁化(6)された人々から生まれてきた歴史を忘れるべきではないだろう。

(6)中央に対して、辺境や周辺に位置づけられた人・集団・概念などを表す言葉。社会的に軽視されたり、無視されてきたものを指して使われることが多い。

コールアウト・カルチャーとの違い

キャンセルカルチャーの用法が変化してきたことを際立たせるのが、コールアウトカルチャーとの混同だ。冒頭で紹介したように、両者は同義に使用されるケースも多いが、それらを区別するべきだという声もある。たとえば Washington Post 紙は、両者を以下のように区分する。

  • キャンセルカルチャー = 控えめなチャンネル変更
  • コールアウトカルチャー = 公の説明責任を求める動き

しかしながら、現在多くの人が両者を混同して使用している。そのことは、米国の調査で、キャンセルカルチャーを説明責任と関連付けて理解する人が、49%にのぼることからも明らかだ。

この調査では、米国の18歳以上の 44% がキャンセルカルチャーという用語を「少し」あるいは「かなりの程度」聞いたことがあり、「全く」あるいは「あまり」聞いたことがない 55% と二分された。このうち聞いたことがある人々に、その用語の定義を訪ねたところ、上述のとおり半数近くの人が「行動の説明責任を果たすこと」と解釈した。ちなみに、14% は「言論や歴史の検閲」と理解して、12% は「他人に危害を加えるために用いられる意地悪な攻撃」だと理解している。

すなわち、黒人文化において「控えめなチャンネル変更」として立ち現れたキャンセルカルチャーは、現在では、元来コールアウトカルチャーとして理解されていた「公の説明責任を求める動き」として解釈されていると言える。

スミス大学客員教授のロレッタ J. ロスは、「コールアウト(Call-out)」ではなく「コールイン(Call-in)」という用語に呼びかけることで、相手の発言や振る舞いの問題点を指摘しつつ「敬意を持って、個人的な対話を試みる」ことの重要性を主張する。これはキャンセルカルチャーとコールアウトカルチャーの中間に位置するような概念と言えるが、いずれにしても両者の境界線は曖昧になりつつある。

ここまで見てきたように、「キャンセル」という用語自体は1990年代の黒人文化に起源を持っており、現在の用法となった2015年頃から現在までの短い期間ですら、意味合いが微妙に変化している。そのため、キャンセルカルチャーについて一括りに「リベラルによる言論統制」として語ることはミスリードだと言える。

キャンセルカルチャーの問題点

こうした経緯を踏まえた上で、その問題点は具体的に何なのだろうか?批判の論点も多様だが、大きく5つに整理できる。

不均衡な処罰

1つ目は、前述したオープンレターに記載されているように、キャンセルカルチャーが「不均衡な処罰」をもたらしていることだ。Harper’s Bazaar 誌のエラ・アレクサンダーは以下のように語る

キャンセル・カルチャーの問題は、あまりにも幅広くなりすぎて、ほぼ意味をなさなくなっていることだ。R・ケリーは何十年にもわたる性的暴行疑惑でキャンセルされたが、女優のジョディ・カマー(Jodie Comer)は共和党支持者と交際していることでキャンセルされた。釣り合いが取れない。重くも軽くも、非常に多くの様々な文脈で使われているために、あまりにも単純化され、危険かつもしくは有害な発言や行為に関わった人が反発に乗じるのを許して、重みがなくなっている。

長年の性的暴行によって禁固23年の有罪判決がくだされた映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインや、同じく長年にわたる未成年者への性的暴行や虐待によって収監されている歌手R.ケリーのように、「キャンセル」されることが妥当な人物もいる。

一方、The New York Times 紙の科学記者ドナルド・G・マクニール・ジュニアは、2019年に同紙が主催したペルー旅行で、高校生に対して人種的に不快な発言をしたと告発され、謝罪を求められた結果として辞任に至った。同紙の編集者は「人々が傷ついている、あなたが謝罪しなかったため、社員はあなたと一緒に働かないと主張している」と伝えたという。マクニールの辞任については賛否が別れており、科学記者であったマクニールがパンデミックにより注目を集めたため、今回の騒動に繋がったという見方もある。

また、米ニューヨークのセントラルパークで黒人男性から「命を脅かされている」と虚偽の通報をした白人のエイミー・クーパーは、その動画がオンラインで公開され、世界的な批判を浴びるとともに仕事を失った。クーパーの行為は明らかに人種差別的であったが、被害にあった黒人男性は「誰かの人生が、60秒の誤った判断によって定義されるべきかは分からない」という見解も示している。

彼らがキャンセルに値する人物か、その処罰は妥当かについては様々な見解があるだろうが、重要なことは性的暴行や虐待などの犯罪をおこなった人々は、司法によって裁かれているということだ。司法の処罰とは別に、企業が解雇したり、パブリック・シェイミング(社会的な吊し上げ)を与えることが、法による裁きが大原則となる法治国家において、妥当なあり方かは議論が分かれるだろう。

不均衡な問題化(価値観の変化・時効)

処罰に限らず、問題化そのものも不均衡に起こりうる。米TeenVogue 誌の新たな編集長になる予定だったアレクシー・マッキャモンドは、当時17歳だった10年前のツイートを掘り起こされて、編集長への道を絶たれた。彼女はアジア系や性的マイノリティーに対して差別的な発言をおこなっていたが、それは学生時代のことだった。

前述したように、ビリー・アイリッシュも10代前半の動画が掘り起こされて批判を集めている。アイリッシュ自身は年齢は関係ないと言っているものの、果たして若い頃の誤りにどこまで責任を負わされるべきかは議論があるだろう。

また10代に限らなくとも、Boeing(ボーイング)社のコミュニケーション担当上級副社長だったニール・ゴライトリーは、30年前に書いた性差別的な記事が原因で辞任している。ゴライトリーの記事には、戦争に女性が参加することで「平和、家庭、家族の女性的なイメージが破壊されるだろう」と記しており、これが同社の「多様性と包摂への強いコミットメント」に反していると指摘された。

今回の小山田圭吾の辞任に際しても、「時代が違う」「清廉潔白な人なんているのか」という声があがっていると指摘されており、この問題は広く認識されている。the Stranger 誌でケイティー・ハーツォグは、キャンセルカルチャーの問題点は、「更新のメカニズムや時効がないこと」だと述べる。その上で、以下のような専門家の指摘を紹介する。

文化的規範と価値観は常に流動的であるため、自分では反省することなく、当たり前のように思っていた文化的信念が罰せられることもある

加えて、こうした状況はスマートフォンの普及によって「全ての人の発言が永続的に記録されることを意味して、時には動画に記録されることもある」とされる。

この2つの論点は重要だ。単に「清廉潔白な人はいない」という話ではなく、過去では当たり前だと思っていた価値観が現在の基準によって裁かれる是非、そしてそれがデジタル上の証拠とともに永続的に残り続けることの問題点は、キャンセルカルチャーに限らず現代社会の大きな論点だと言える。

誹謗中傷との線引き

3つ目は、キャンセルカルチャーと誹謗中傷との線引きが曖昧だという点だ。もちろんこれは、キャンセルカルチャーの起源を考えると不当な批判だ。なぜなら、それは黒人対抗的公共圏と呼ばれる周縁化された人々からの異議申し立てであり、それを誹謗中傷と見なすことは、その異議申し立ての重要性を無効化してしまう。

しかしながら、それがパブリック・シェイミングとなっている現状、それは決して軽視されるべき問題ではない。メンタルヘルスの専門家スティーブン・ハッサンは、以下のように語る

キャンセルカルチャーは、犯罪の脅威やプライバシーの侵害(doxing)、人を自殺に追いやる場合、紛れもなく有害だ。人々は、それが前向きな社会的変化に影響を与えると考えているかもしれないが、ソーシャルメディアにおける大半のコメントの性質を考えると、そうではないことが示唆される。

不快感やシャーデンフロイデ(訳注:他人が引きずり降ろされた時の多幸感)、反対意見の否定的な特徴づけは、対話を奪っている。インターネット・プラットフォームは、強い感情的動機とクリックから心理的報酬が得られるように設計されており、キャンセルカルチャーとコールアウトカルチャーは、そのパラダイムに完全に適合している。コメントはすぐさま報酬を得ることができ、「荒らし」や「軽蔑すべき者」に向けられた不快で卑劣なコメントは、コメントした者に道徳的・知的な優越感を与える。「キャンセル」するという行為は、反対意見を検討したり、自己批判を加えることから自身を守るための「自己防衛」になる。

また、The New York Times 紙は10代の若者たちが、いじめのように「キャンセル」を使用しているケースを報告している。ある若者は、突然「私を無視して、全てをブロックして、見ないフリをされた」と述べている。日本でも、リアリティ番組『テラスハウス』に出演していた女性の自死に関連して、オンラインでの誹謗中傷が問題視されているが、彼女もまた番組内の言動によってパブリックシェイミングに晒された。

コメディアンのサラ・シルバーマンは、こうした状況を「正義のポルノ(Righteousness porn)」と呼んでいる。

キャンセルカルチャーの起源の1つとして知られ、ソーシャルメディアを通じたパブリック・シェイミングの1つであるジャスティン・サッコ事件は、「正義のポルノ」が暴走するケースをよく表している。30歳のサッコは、2013年の休暇中に家族を訪ねるため、英国から南アフリカのケープタウンに向かっていた。

国際線の搭乗前、「アフリカに行ってくる、エイズに感染しないと良い。冗談、だって私は白人だから」というツイートをおこなった。彼女は11時間のフライトの間、Twitterを見ることが出来なかったが、その間にわずか170人のフォロワーしか抱えていなかった彼女の話題は、世界のトレンドで1位となった。そして彼女の偏見や人種差別的なジョークに対して非難が集まったほか、「#HasJustineLandedYet(ジャスティンはまだ着陸していないのか)」というハッシュタグが生まれた

これは彼女が11時間のフライトの間、世界規模の炎上に気づいていないことを揶揄するもので、単に彼女の無知や無理解を責めるだけでなく、炎上した相手ならばどのように批判しても良いというネットの不文律が確立した瞬間でもあった。

議論の萎縮

4つ目も、前述したオープンレターに記載されているが、キャンセルカルチャーが議論の萎縮を生むという問題だ。

例えば、言論の自由の範疇に含まれるであろうトピックで謝罪に至ったケースとしては、「カナダ人でなければドナルド・トランプに投票した」と発言した歌手シャナイア・トゥエインが、批判を集めて弁解を余儀なくされたケースがある。

ただし、キャンセルカルチャーが合衆国憲法修正第1条の「言論の自由」に反するという主張は誤っている。なぜなら修正第1条は、「言論の自由」を抑圧する政府に対して課せられるものであり、民間企業または個人による行動には適用されないからだ。キャンセルカルチャーが周縁化された人々の異議申し立てとして表れた歴史を無視して、修正第1条を誤って解釈することでリベラルを批判する動きは、この用語が政治的な問題と化していることを表している。

とはいえ、ここまで挙げたような3つの論点が、議論の萎縮を生み出していると主張されるのは事実だ。政治学者のヤシャ・モンクは、前述のオープンレターに署名をした後に以下のように述べている。

もし、この当たり障りないオープンレターに署名した人々を辱め、解雇しようとする狂気じみた試みを見て、現在の知的雰囲気が、非常に不健全であることに納得しないのであれば、あなたは真実を認めるよりも、その時々の宣伝文句をオウムのように唱えることに没頭しているだろう。

資本主義との関係

そして5つ目は、討論の問題が資本主義の問題にすり替わっていることだ。これはVoxの元編集長であり、現在はThe New York Times 紙でコラムニストをつとめるエズラ・クラインによって指摘されている。クラインによれば「キャンセル」が決定されるプロセスは、「社会的な評決」ではなく「組織の利己的な行動」だと言う。なぜならそれは

キャンセル(ここでは、実際に仕事や生計を失うこととして定義される)は、従業員の言論違反が、雇用主の利益、影響力、または評判を脅かす世間の注目を集めたときに発生する

ためだ。すなわち、企業は悪い評判を避けるために発言の内実を考慮せず、純粋にPRの観点、言い換えれば経済的インセンティブのみで行動するのだ。この結果「急いで会議が招集され、上級管理職が集められ、人々が解雇される」状況が生まれている。

たしかに「社会的制裁は、社会変革の重要なメカニズムであり、それらは利用される必要がある」が、問題は「誰かが言ったそのたった1つの酷い発言が、オンライン・アイデンティティを定義するようになり、それが将来の経済的機会や政治的立場、そして個人的な機会を定義すること」なのだ。

この問題は、資本主義と結託して広範な弊害を生み出している。The Atlantic のヘレン・ルイスは以下のように語る

組織内部で権力を持っている人は、派手で進歩的なジェスチャーが大好きで、人種差別を嘆く、厳粛でモノクロのソーシャルメディア投稿ばかりをおこなう。― 取締役会に1人目の女性を任命する。オンラインの怒りを集めた低い職位の従業員を解雇する、など ― なぜなら彼らは、権力者の力を維持する助けになるからだ。白人男性、裕福、そして高学歴のトップという不均衡な人々は、自らが椅子を譲ることはない。

シングルマザーや(低所得の)運転手がキャンセルカルチャーの犠牲となっているが、Woke capitalism(大企業などが社会正義などに「目覚める」状況)は、既存の権力者や経営者を利しているだけであり、構造的な変革に繋がりづらくなっているという指摘だ。

ここまで大きく5つの批判について見てきた。これらだけを見ると、冒頭で示した小山田や小林の辞任についても、不適切であると結論づけたくなるかもしれない。しかしながら両氏の行為については、一方は明らかに暴力行為・人権侵害であり、もう一方は国際的にその揶揄は決して許されないホロコーストの問題であり、いずれも五輪の理念から反している。これを踏まえても、両氏を「キャンセル」することは問題なのだろうか?

この疑問を念頭に、キャンセルカルチャーを擁護する見解を見ていこう。

キャンセルカルチャーの擁護

キャンセルカルチャーを擁護する見解は、大きく3つに分けられる。

説明責任の求め

まず前述したように、キャンセルカルチャーは説明責任と関連付けて理解されており、その重要性は強く認識されている。ただし、それは単に「キャンセルカルチャー」という用語を「アカウンタビリティーカルチャー」に言い換えれば良いという単純な話ではなく、公人と私人の区別、どのような被害がもたらされたのかなのかを慎重に検討する必要がある

南メソジスト大学准教授のジェレド・シュローダーは、説明責任を求める声は「インターネットが生まれるずっと前から存在しており、公的な説明責任は民主主義の一部」だと述べる

説明責任の文化は、言論の自由や一般市民の参加、より望ましい組合を作るための努力など、古くからある重要な米国の理想を達成するための、新たなツールなのだ。

前述したように、政府はどのような言論を主張する個人あるいは機関についても、憲法修正第1条にもとづいて規制することは殆どない。しかしそのことは、彼らが「説明責任から逃れられること」を意味するわけではない。司法によって裁かれる発言(例えば生命を脅かす脅迫など)でなかったとしても、ヘイトスピーチや差別的発言は社会的な責任を伴う。それらは時に、解雇や糾弾などの「結果」をもたらすこともあり、それはキャンセルカルチャー以前から存在する、当然の帰結なのだ。

社会変革のためのツール

キャンセルカルチャーが黒人対抗的公共圏から生まれてきた経緯を考えても、説明責任を求める新たな形態であることを考えても、それが「周縁化された人々の異議申し立て」という性質を持っていることは明らかだ。そしてそれは社会変革のための重要なツールとなっている。

ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授のシャクンタラ・バナジは、以下のように語る

他人をいじめたり、「キャンセル」していると非難される人々の多くは、歴史的に周縁化され、抑圧されたグループの出身者であり、しばしばこうしたグループが交差している。このことは、彼らが常に正しいことを意味するわけではないが、根底にある異議申し立てが正当なものであることを示唆している。

またバージニア大学助教授のメレディス・クラークも、同様の指摘をおこなう。

政治家、評論家、著名人、学者、そして一般の人々は、キャンセルされることを実害に似たモラル・パニックとして物語化し、検閲や口封じに対する根拠のない恐怖と結びつけることで、この起源に奇妙なひねりを加えてきた。しかし、キャンセルされるということは、一般的に有名人やブランド、その他の手の届かない人物のために用意された呼称であり、正義のための最後のアピールとして読まれるべきだ。

こうした指摘は、キャンセルカルチャーが視野に入れる領域を明確にする。すなわち、人種や民族、ジェンダーなど周縁化されてきたマイノリティからの異議申し立てについて、それを抑圧した、あるいは不当に権利を侵害したと見なされる人々は、その発言や行動に対して、説明責任が求められるということだ。

その最も顕著な例が、#MeToo そしてBlack Lives Matter という社会正義を求める2つの強力な潮流だ。従来であれば、女性や黒人からの異議申し立ての殆どは黙殺されてきたが、その説明責任を求める声が、インターネットによって急速に、そして広範に広がったことで社会はそれを無視することができなくなった。この変化は、明らかに社会変革をもたらしている。

経験的データの不足

そして最後に、キャンセルカルチャーが社会を覆っているという経験的証拠が不足しているという論点がある。

ハーバード大学ケネディスクールのピッパ・ノリスによれば、米国など脱工業化社会においては、政治的右派(保守)の自己認識を持つ政治学者が「キャンセルカルチャーの悪化」を感じており、対象的に78の開発途上国における大学などでは、政治的左派(リベラル)の自己認識を持つ学者がそれを感じているという。ノリスはこの対比を説明するためには、より多くの研究が必要だと認めつつ「社会的孤立や地位の喪失を恐れて、人々が一般的な社会的規範に反して自らの本心を表明することを躊躇する状況」があると指摘する。

すなわち、特定の社会においてリベラルあるいは保守がキャンセルカルチャーを過度に促進させているのではなく、そもそも人間は、自分が属する社会における主流の規範から逸脱した発言をすることを嫌うものだという見解だ。

言い換えれば、政治学者のロナルド・イングルハートが指摘するように、生命の危機が脅かされる可能性が低い国では、ジェンダー平等や性的マイノリティーの保護などリベラルな価値観が強まっていくが、こうした国で右派(保守)が「行き過ぎたキャンセルカルチャー」を危惧するのは、当然の帰結ということになる。この場合、「キャンセルカルチャーが社会を覆っている」という前提自体が問い直される必要があるだろう。

また経験的データの不足に関しては、「キャンセル」された人々は本当に職を失ったり、不均衡な処罰を受けているのか?という議論もある。

The New York Times 紙のジョナ・エンゲル・ブロムウィッチは、キャンセルカルチャーが「ほとんどの場合、コンセプチュアルであったり、社会的なパフォーマンスに過ぎない」と指摘した上で、批判を浴びたYouTuberのローガン・ポールも歌手のカニエ・ウェストも、その後も商業的に成功し続けていると述べる。

実際、キャンセルカルチャーを批判する人々は、マイノリティが受ける圧力や脅迫などについては無頓着だという批判もある。Time 誌でサラ・ハギは、以下のように述べている。

私は、人種差別やイスラム恐怖症について頻繁に書いてきたが、これまで数え切れないほど生命に関わる脅迫や解雇の要求、人種差別的な侮辱を受けてきた。しかし「キャンセル・カルチャー」を問題視する人たちが、言論を萎縮させる効果があると述べる時、彼らはそうした状況までは想定していない。彼らは、私を黙らせるために「キャンセル・カルチャー」という言葉を使い、私がある行動やジョークについて非人間的だと感じる理由を考えようとしていない。そのため、私は1つの結論を導き出した ― 彼らは、私が自らへの抑圧に対して、無力であることを望んでいるのだ。

こうした経験的データの不足は、キャンセルカルチャーそのものを擁護する論理とは異なるものの、批判の妥当性や前提の実証性を問い直す論点として、注目する必要があるだろう。

キャンセルカルチャーをどのように運用するべきか?

ここまでキャンセルカルチャーの賛否を見てきたが、それらを概観するといくつかの論点が浮かび上がってくる。

  1. キャンセルカルチャー批判は、その曖昧な用法や定義に起因しているケースが少なくない
  2. 「周縁化された人々からの異議申し立て」としての起源は、十分理解されていない
  3. 問題はキャンセルカルチャーの賛否ではなく、異議申し立てに対して十分な説明責任が果たされているか?処罰や問題化は不均衡ではないか?など個別に議論されるべき

特に3点目については、The New York Times 紙のジョナ・ブロムウィッチが以下のように語る

キャンセル・カルチャーのせいにされてしまう1つ1つの事件には、それぞれの特殊性がある。それぞれにディテールがあり、文脈がある。この言葉は、このした複雑で微妙な物語それぞれに対して、信じられないほど広範に使用されてしまっているが、それらは本来、個別の観点から解明されるべきものだ。

すなわち、問題はキャンセルカルチャーそのものではなく、その運用の成否だと言える。言い換えれば、キャンセルカルチャーは問題なのか?と問いかけるべきではなくキャンセルカルチャーはどのように運用されるべきか?が問われるべきなのだ。

そこで最後に、個人的見解としてキャンセルカルチャーの適切な運用を行うための、暫定的な提案をおこなっていく。これらは専門家の統一した見解ではなく、あくまで筆者の個人的見解であることに注意してほしい。まずこの提案は大きく3つのセクションに分かれる。

  1. ケースを分類する
  2. 説明責任を果たす(キャンセルされた人)
  3. 処罰を「説明」する(利害関係者)

これは現在のキャンセルカルチャーが「非難」と「処罰」という大きく2つのプロセスから成り立っていることを考えると、より慎重なプロセスを求めている。以下では、それらを順番に見ていこう。

1. ケースを分類する

まずキャンセルカルチャーの対象について分類を行う。これは前述したUSA Todayのデビッド・オリバーによる説明責任に関する記述を参照している。

  公人 私人
犯罪行為 A(司法による判断) B(司法による判断)
人権侵害
時効になった犯罪行為など
C(社会的な説明責任) D(社会的な説明責任)
議論を呼ぶ発言 E(社会的な説明責任) F(なし、もしくは個人的な説明責任)


ここで言う公人とは、政治家や官僚などに限らず、影響力のある経済人や著名人などが含まれ、私人とはそれ以外を指す。この区別は現在決して自明ではないが、キャンセルカルチャーの対象となった人物が果たすべき説明責任の広さを定義することを意味している。

また、犯罪行為と人権侵害、議論を呼ぶ発言の線引きも自明ではない。しかしながら、これらをある程度まで区別しなければ、キャンセルカルチャーに関する議論は、単純な是非の問題になってしまい、その運用はますます難しくなってしまう。

その上でパターンAとBは、公人・私人による犯罪行為だ。ここには性的暴行や虐待などが含まれ、基本的には司法の場において裁かれる範疇となる。処罰の一部として社会的制裁が含まれる場合もあるが、推定無罪の原則を忘れてはならず、罪が確定する前に何かしらの制裁が加えられるべきではない。これらは、公人であろうが私人であろうが、基本的にはキャンセルカルチャーの範囲外にあると言える。

C・Dは、人権侵害および時効になった犯罪行為などが該当する。過去の性的暴行などは司法によって裁かれることもあるが、#MeToo 以降でも刑事裁判になったケースは非常に少ない。また小山田のケースのように、司法に持ち込まれなかったり、時効が成立している場合も、これらに含まれる。この場合、公人・私人問わず、いずれも説明責任が求められる。重要なことは、説明責任と処罰は別である点だが、それらは後述する。

最後にE・Fは、議論を呼ぶ発言であり、例えばトランプ大統領の支持や差別的な発言などが含まれる。注目すべきは、Fについて説明責任が「なし・もしくは個人的な説明責任」に限定されることだ。私人において、直接的な被害者がいる場合(D)は社会的な説明責任が求められるものの、そうではない場合(F)は線引きがされる。その人に、個人的な説明責任を求める(ロレッタ J. ロスの言う「コールイン(Call-in))ことは自由だが、パブリック・シェイミングに至った場合は、懲罰が不均衡だと言える。

2. 説明責任を果たす(キャンセルされた人)

次にC・D・Eの場合、社会的な説明責任を果たすことが求められる。重要なことは「キャンセルされる前」に、キャンセルされた人が説明責任を果たすことだ。

具体的には、なぜそういった発言・行為をおこなったのか?それはどのような文脈であり、客観的に見て問題があったのか否か?現在、その発言・行為についてどのように考えているのか?もしそれが誤りであったならば、どのような反省・学びのプロセスを実行しているのか?などが明らかにされる必要がある。

オバマ元大統領が述べるように「現実の世界が乱雑であいまいであることを認識」するならば、キャンセルを求める人や利害関係者(たとえば雇用主や友人など)は、この説明に必ず耳を傾ける必要がある。

キャンセルカルチャーは、相手とのオープンな対話を経ずに、判断ミスによって発言権を奪われることに大きな問題点があるため、このプロセスは重要だ。ここでは、キャンセルされた側も処罰をする側も「自らのコンフォートゾーン(居心地の良い場所)を離れ、きまりの悪い会話をして、『ある程度の不快感』を持つ」ことが求められる。

3. 処罰を「説明」する(利害関係者)

そして最終的に、利害関係者によって処罰が決定される。しかしより重要なことは、処罰する側も「説明責任を負う」ことだ。Politicoのデレク・ロバートソンは、「キャンセル」がカルチャーになってしまっている状況を以下のように説明する。

作家ロクサーヌ・ゲイは、Mother Jones 誌とのインタビューの中で「キャンセルカルチャー」を「結果の文化」と再定義して、「キャンセル」とは「ミスをした時に、私たちには誰しも、結果が伴うべきだ」という現実に過ぎないと述べている。しかし「ミス」の定義は検討されておらず、キャンセルする側、おそらくゲイと同じような政治的見解を持つ人々によって決定されることを意味する。

このようにして、「キャンセル」は「カルチャー」を生み出している。ネット上の暴徒に恥をかかされることを恐れる人々は、そのような「ミス」を避けようと動機付けられるからだ。文化的・知的異端性を理由に、ファンダムやリバタリアンのリストサーブ(参加者)、インディーロック音楽のフォーラムなどから、事実上「キャンセル」されることがある。しかし、どのようなものが有害で受け入れがたい人種差別や性差別として認定されるかのパラメーターが、強力な機関で影響力のある地位を占めている、極度にリベラルな人々によって設定されると、その影響は必然的にカルチャーに浸透することになる。

この「カルチャー化」を避けるためには、いかなるプロセスで処罰が決定したのか?なぜそれが説明責任に対して妥当な重さであるのか?利害関係者の責任はないのか?など、処罰についての説明責任を果たす必要がある。

被害者の不在

重要なこととして、ここまでのプロセスは「被害者の不在」によって成り立っている。AからDには本来、明確な被害者が存在しているが、キャンセルカルチャーにおいてはそれが問題化されることは少ない。なぜならキャンセルカルチャーという手段が取られるのは、被害者がリアルタイムで異議申し立てをすることが難しいケースであることが大半だからだ。

利害関係者による処罰の決定に際して、被害者の声を直接的に聞けることが望ましいが、それが原理的に難しいことは、キャンセルカルチャーの困難さを理解する上で、留意しておくべきポイントだろう。

以上、キャンセルカルチャーの適切な運用について大きく3つのプロセスから提案してきた。現実的にこれらを実行できるか疑問の思う人は多いだろう。しかしながら、オンラインハラスメントやパブリックシェイミングが問題化する現在、広範な意味を持ってしまったキャンセルカルチャーに、具体的で実現可能性のある対応策を検討していく必要性は高い。

特に本プロセスでは、処罰を決定する側の説明責任を求めることで、エズラ・クラインの言う「組織の利己的な行動」を避ける狙いがある。炎上に対して、反射的に組織が「キャンセル」をおこなうことは、説明責任の欠如を生み出し、それを有害な「カルチャー」にする懸念がある。

何十年も前の発言・行動を問題化するべきか?

ところで、本プロセスでは「どれほど過去の事象であるか」を問題化の基準に含んでいない。直感的には、5年前の行動・発言と25年前のそれについて、同じように問題化されることに違和感があるかもしれない。

しかしながら、キャンセルカルチャーが「周縁化された人々の異議申し立て」という性質を持っていることを考えれば、それが長い時間が経過しているか否かは、あまり関係がない。なぜならマイノリティや周縁化された人々からの異議申し立てが、すぐに適切な問題化や処罰に繋がっていく可能性は、歴史的に見ても低いからだ。それらが妥当な異議申し立てであると認められるためには、時には10年20年もの時間が必要となる。

ただし処罰において、経過した時間やその後の対応などが考慮されることはあるだろう。たとえば5年前に起こった事件と25年前に起こった事件について、経過した時間以外の条件が全く同じであれば、前者の方がより問題視されることが多いはずだ。(たとえば性的暴行であれば経過した時間が短ければ司法で裁かれる可能性が高いため、時効が経過してしまった問題より重い処罰になるかもしれない)また学びや反省のプロセスが十分に実行されているならば、追加的な懲罰は避けられるべきかもしれない。

清廉潔白な人はいない

また「清廉潔白な人はいない」論についても触れておこう。それは事実であり、誰もがキャンセルカルチャーに晒されるリスクを負っている。10年20年前の発言・行動が問題化されることは、直感的には理解し難い事かもしれない。

しかしながら、だからこそ「キャンセルされた人」の説明責任と処罰、処罰の説明責任が分離されることの重要性は大きいのだ。誰にでも起こり得ることだからこそ、その事実を当人がどのように振り返り、そのことを踏まえて処罰の妥当性が決められる必要はある。「清廉潔白な人はいない」からこそ、キャンセルされた人を含む全ての関係者が、感情や社会的風潮に流されずに説明責任を果たす必要がある。

ただし繰り返しになるが、「清廉潔白な人はいない」からといって、それが周縁化された人々の異議申し立てを無効化するわけではない。

小山田・小林の辞任は「行き過ぎた対応」か?

最後に、提案したプロセスにもとづいて小山田・小林の辞任が「行き過ぎた対応」であったのかを考えていこう。

まず小山田・小林ともに「公人」に分類される。五輪には東京都から約7,720億円、国からは予算の2,210億円と約7,720億円が支出されており、合わせて2兆円近い費用が支出されている。巨額の公費が投入されるイベントの主要な関係者であれば、公人として認識されるべきだろう。

その上で、小山田のケースは「人権侵害・時効になった犯罪行為など」に該当すると思われ、Cに分類されることから社会的な説明責任が求められる。また小林のケースは、確かにホロコーストそのものは人類の歴史における、特異な人道に対する罪として認識されているものの、その揶揄であることを考えるとEに分類される。その結果、こちらも社会的な説明責任が求められる。

実際、小山田小林ともに謝罪をおこなっており、いずれも一定度の説明責任を果たしていると言える。しかしながら問題は、利害関係者による処罰の説明責任にある。小山田については当初、留任を決定していたにもかかわらず後に辞任を受け入れるという対応の迷走が目立った。

また小林については小山田よりも厳格な措置であったが、その理由については「外交上の問題もあり早急に対応するため解任することになった」と説明されるのみであり、外交上の問題によって対応が異なることの妥当性は説明されていない。特に後者については、エズラ・クラインの言う「組織の利己的な行動」であると言え、妥当な処罰であるかは議論の余地がある。

このように小山田・小林の辞任については、利害関係者が処罰について十分に「説明」していないことから、「行き過ぎた対応」であるかを判断することができない状況が生まれており、そのことが問題であると言える。五輪直前の出来事であり難しい部分もあったはずが、批判が集まれば十分な説明や議論がないまま「キャンセル」される前例となってしまった。

おわりに

ここまでキャンセルカルチャーについて、包括的に検討してきた。現時点で確実に言えることは、キャンセルカルチャーという用語の広がりに比して、その背景や賛否の論点などは十分に検討されていないということだ。

すでにいくつかの指摘があるように、それは対抗的公共圏あるいは周縁化された人々から生まれてきた異議申し立てのプロセスであるにもかかわらず、むしろその批判を無効化するための「政治的道具」として揶揄されている状況が生まれている。この事自体が、権力の非対称性がある中で異議申し立てをすることの困難さを表していると言えるだろう。

そして、キャンセルカルチャーが「行き過ぎた対応」であるか否かの以前に、その適切な運用を妨げているのは、こうした前提の無知・無理解であると言えるし、その意味で場当たり的な対応をおこなう利害関係者の責任は大きい。炎上やパブリックシェイミングが社会問題として周知される中、こうした議論がイデオロギー問わず深まっていく必要性はますます強くなっている。

本記事は、ライセンスにもとづいた非営利目的、あるいは社会的意義・影響力の観点から無料で公開されているコンテンツです。良質なコンテンツをお届けするため、メンバーシップに参加しませんか?

いますぐ無料トライアル

または

メンバーシップについて知る
この記事の特集

混乱の中の東京五輪

✍🏻 著者
編集長 / 早稲田大学招聘講師
1989年東京都生まれ。2015年、起業した会社を東証一部上場企業に売却後、2020年に本誌立ち上げ。早稲田大学政治学研究科 修士課程修了(政治学)。日テレ系『DayDay.』火曜日コメンテーターの他、『スッキリ』(月曜日)、Abema TV『ABEMAヒルズ』、現代ビジネス、TBS系『サンデー・ジャポン』などでもニュース解説。関心領域は、メディアや政治思想、近代東アジアなど。
最新情報を受け取る

ニュースレターやTwitterをチェックして、最新の記事やニュースを受け取ってください。

🎀 おすすめの記事

わたしたちについて

法人サポーターのお願い

👑 法人サポーター

🔥 いま読まれている記事

ニュースレターを受け取る