リプロダクティブ・ヘルス・ライツとは何か?

政治・国際関係

公開日 2020/08/06 15:07,

更新日 2020/08/07 13:04

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2020年7月29日、NHKの番組に出演した日本産婦人科医会副会長の前田津紀夫が、緊急避妊薬についての「日本では若い女性に対する性教育、避妊も含めてちゃんと教育してあげられる場があまりに少ない」「“じゃあ次も使えばいいや”という安易な考えに流れてしまうことを心配している」と発言したことで、批判を集めた。彼の発言は、女性の受胎コントロールの権利を軽視しており、また性教育の不十分さを若い女性のみの問題としてしまい、男性への性教育の不十分さや避妊の責任を無視している点で問題がある。

一方で前田医師の指摘するように、日本の性教育はWHOやユネスコによる世界的な性教育のガイドラインに鑑みても教育内容が不十分であり、かつ先進的な教育をおこなう学校関係者はバッシングの対象となりやすい。

例えば、2003年に東京都日野市の都立七生養護学校での知的障害児への性教育に対し、保守系都議のバッシングを受けて都教育委員会が学校関係者を処分したことに対し、「こころとからだの学習」裁判がおこなわれた。2005年には、安倍晋三を座長に山谷えり子が事務局長を務める「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」が発足し、第2次男女共同参画参画基本計画の改定に影響を及ぼした。2018年には足立区の区立中学校でおこなわれていた性教育をめぐって都と足立区が対立するなど、日本では性教育を通じた性の知識に対するアクセスが制限され、かつ性教育そのものへの風当たりが強い状況が続いている。

こうした性にまつわる問題は、「リプロダクティブ・ヘルス・ライツ Reproductive Health Rights」という言葉とあわせて、世界的に議論がなされてきた。リプロダクティブ・ヘルス・ライツとは「性と生殖に関する諸権利」を意味しており、後述する歴史的背景から性を強調する点で「セクシュアル・アンド・リプロダクティブ・ヘルス・ライツ Sexual and Reproductive Health Rights」と言われることも多い(この含意をふまえて、以下ではSRHRと略記する)。

では、SRHRはどのような経緯で生まれ、どのように議論され、どういう点が重要とされているのだろうか。そして、SRHRを取り巻く現状と課題はどのようなものとなっているのだろうか。

セクシュアル・アンド・リプロダクティブ・ヘルツ・ライツとは何か

国連によれば、SRHRとは「すべての夫婦・個人が、子供の数・間隔・タイミングを自由に責任を持って決定し、そのための情報と手段を持つこと、また高い水準の性やリプロダクティブ・ヘルツ(生殖に関する健康)を実現するための権利」である。こうした権利の重要性は

人口政策における国家権力や宗教権力による「女性の性や生殖のコントロール」に対抗するため、人口政策の対象となった女性が60年代から理論と実践を通じて主張してきた権利が、理論のレベルで獲得されてきたもの

である。すなわち、定義・解釈がさまざまなSRHRであるが、これが国際的に認められるまでには、フェミニズムの大きな潮流が背景にあったと言え、同時に女性の性や生殖が国家や宗教によって侵害されてきた歴史の裏返しでもある。

後述するように、宗教的な理由から避妊が認められなかったり、国家が人口抑制を目指して個人の出産を制限する(たとえば一人っ子政策など)ことは、決して珍しくない。また、2017年に妊娠・出産前後に亡くなった女性は全世界でおよそ29万5000人となっており、特にサハラ以南のアフリカと南アジアでは高い割合を示している。

もちろん、SRHRは途上国のみの問題ではない。冒頭で述べたように、日本であっても前田医師の発言のように、医療関係者であってもSRHRへの理解が十分ではない事例は散見され、アメリカのように宗教・歴史的な背景が、中絶に関してさまざまな議論を呼び起こしている国もある。

ジェンダーに基づく暴力や児童婚・強制婚、そして女性性器切除(FGM)などの問題を解決し、妊娠・出産、性感染症などの適切な知識を得る上で、SRHRという概念が理解・浸透していくことは、非常に重要なのである。

歴史的背景

そもそも、SRHRはいつ頃から使われている言葉なのだろうか。

1945年に定められた国連憲章第1条3項には、「経済的、社会的、文化的または人道的性質を有する国際問題を解決することについて、並びに人種、性、言語または宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励することについて、国際協力を達成すること。」と記されている。つまり、性をめぐる人権および基本的自由を尊重する方針が定められたのである。しかし、当時はまだ性をめぐる人権および基本的自由がどのようなものであるか、具体的な内容が定められていなかった。

テヘラン国際人権会議

具体的な生殖に関わる人権が言及されたのは、世界人権宣言20周年でおこなわれた、1968年のテヘラン国際人権会議だった。本会議を受けての行動計画には「家族計画に関する人権」という項目があり、家族と児童の保護、そして子どもの数や出産間隔を決める権利という、生殖にまつわる権利が提起された。また、性に関わる人権、特に女性の人権が言及されたのは、1979年に国連総会で採択された女性差別撤廃条約(CEDAW)である。この条約では、教育の権利や婚姻・家族関係をめぐる権利、妊娠・婚姻を理由にした差別的解雇の禁止、女子の売買や売買春の禁止を明記している。しかし、テヘラン行動計画やCEDAWのいずれでも、まだSRHRという言葉は使われていなかった。

1992年、ついにWHOによってSRHR(当時はリプロダクティブ・ヘルス)という言葉が定義されることとなった。WHOは、「リプロダクティブ・ヘルスとは、女性の全生涯にわたる健康において単に病気がない、あるいは病的状態にないということではなく、そのプロセスが身体的、精神的、肉体的に完全に良好な状態にあることをいう」とした上で、安全に子どもを産む権利や子どもの健全な教育、安全なセックスや出生調節を具体的な内容としている。

カイロ会議での提唱

そしてSRHRが公式に提唱されたのが、1994年にカイロでおこなわれた国際人口・開発会議(ICPD)である。カイロで提起された行動計画の中では、出生選択、受胎コントロールの情報と手段へのアクセス、最大限の性や生殖に関する健康の享受が権利として認められている。出生選択についてはテヘラン行動計画でも認められていたが、受胎コントロールは1984年にメキシコでおこなわれた国連人口会議で、家族計画・人口計画など、人口政策的な発想のもとで承認されていた。

なぜ受胎コントロールが、SRHRの権利として重要なのだろうか。その一端には、世界各国が直面している、宗教における中絶禁止という問題があるからである。母体の危機など例外を認めるケースはあるものの、多くの宗教は中絶に対して原則的に強い反対を示している。反対の詳細は宗教や宗派によってまちまちだが、特に注目を集めたのはキリスト教を背景とした、アメリカでの中絶を原則的に禁止する州の増加である。

2019年5月、保守的な州として知られるアラバマ州では、レイプや近親相姦といった性暴力による妊娠でも、妊娠何週目かを問わず中絶を認めない州法が成立した。州法成立の背景には、ケイ・アイビー州知事や賛成票を投じた共和党の州上院議員をはじめとする、保守系のクリスチャンの影響力があった。こうした州法はアラバマだけでなく、南部や中西部諸州でも成立し、受胎コントロールの権利を制限している。1973年に妊娠中の未婚女性の中絶手術で逮捕されたテキサス州の医師をめぐるロー対ウェイド事件の判決で、全米的に中絶の権利が認められて以降も、アメリカ国内ではいくつもの中絶の権利をめぐる裁判がおこなわれ、その度に女性の堕胎の権利を認める「プロチョイス派」と胎児の生命を優先する「プロライフ派」が激しい対立を繰り返してきた

先述のメキシコでの国連人口会議でも、ロー対ウェイド事件の判決以後ながら、アメリカは中絶を推進するプログラムには資金を提供しないと表明するなど、アメリカの中絶問題は宗教的にも歴史的にも根深い。こうした中絶の権利の制限は、安全ではない形での中絶を招くこととなり、ますます女性の身体をリスクに晒す結果にもつながる

しかし、カイロ行動計画で最も注目を集めたのは、最大限の性や生殖に関する健康の享受である。健康の享受そのものは世界人権宣言にも記された権利概念だが、人口・開発会議という人口政策的な場で初めて性や生殖の健康が定義されたことで、人口政策の焦点や主体が国家から個人、特に女性へパラダイムシフトしたとの見方もある。

こうした女性の権利への注目は、SRHRに新たな文脈をもたらすことにも繋がっていく。1995年に北京で開催された世界女性会議では、カイロ行動計画の内容をふまえつつ、性と生殖の権利が性暴力や強制、差別など、より広範な文脈へと拡張された。さらに、2006年のジョグジャカルタ原則により、性的指向や性自認についても文脈が広がり、HIV/AIDSやホルモン療法、性別適合手術なども議論の範疇に含まれるようになった。

SDGsへの組み込み

一方で、人口・開発会議という場から議論が本格化したSRHRは、2000年に国連が提起した「ミレニアム開発目標」と、それを受け継いだ「持続可能な開発目標 SDGs」において、重要な達成目標のひとつとして扱われている。SRHRは貧困・福祉・教育・ジェンダーなど、複数の問題にまたがっており、その解決が開発目標の達成に資すると考えられている。

このように、SRHRはカイロでのICPD以降、さまざまな文脈へと広がりを見せながら議論されていくこととなっている。では、こうしたSRHRをめぐる議論のどういった点が重要なのだろうか。

何が重要なのか

SRHRを普遍的な人権として認めたICPDのカイロ行動計画と、ミレニアム開発目標やSDGsに鑑みると、SRHRの問題は、大きく分けて人権問題と経済開発という2つの文脈から生まれてきた。

まずは人権問題から見ていくこととしたい。SRHRは国連において、生命の権利や拷問から自由になる権利、健康の権利、プライバシーの権利、教育の権利、差別の禁止など、複数の人権との関連で位置づけられている。経済的、社会的及び文化的権利委員会(CESCR)と女性差別撤廃委員会(CEDAW)はともに、女性の健康に対する権利には、性と生殖に関する健康が含まれることを明確に示している。つまり、国家は、女性の性とリプロダクティブ・ヘルツ(生殖に関する健康)にまつわる権利を尊重、保護、履行する義務を負っているとみなしている。

では、人権としてのSRHRは、具体的にどのような状況下において重要と見なされているのだろうか。以下では各国の事例を紹介することとしたい。

さまざまな権利が絡み合うSRHRは、特に貧しい地域の女性たちに複合的な権利侵害として降りかかってくる。例えばナイジェリアでは、SRHRに関する知識不足から、女性の5人に1人が18歳までに出産し、57%が18歳より前に性行為を開始している。また妊娠中絶関連の合併症で入院した患者の80%は若い女性であり、性的に活発な若者の約10%が中絶を3回以上経験している。教育を受けていない女性は、中等教育以上の女性に比べて2倍の子どもがおり、同様に貧しい世帯の女性は、裕福な世帯の女性に比べて多くの子どもがいる。

また、ケニアでは毎年約6300人の女性が妊娠中または出産中に死亡し、うち17%が安全ではない中絶が原因である。こうした状況を受けて、ケニアの議会はSRHR関連法案を審議しているが、過去に宗教グループや一部の政治家、市民団体の反対で否決されたことがある。

SRHRに関する人権問題は、先進国でも起こっている。アメリカでは、アフリカ系アメリカ人女性が収入や教育に関わらず、白人女性と比べて妊娠合併症で死亡する可能性が3〜4倍高くなっており、またネイティブ・アメリカン女性に強制不妊をおこなってきた。こうしたSRHRをめぐる戦いにおいても、白人がモデル化され、有色人種やノンバイナリー・ジェンダーの人々が無視され排除される「ホワイトウォッシング」が起こっている

政府が主導して性差別的な人権侵害をおこなうケースもある。ポーランドでは、女性への暴力およびDVの防止を掲げたイスタンブール条約からの脱退を法務相が公言したことで、反対デモが起こった。同政府は、中絶や性教育の制限やLGBTQへの差別的対応もおこなっている。

こうした権利侵害は、女性だけの問題ではない。紛争が続くシリアでは、同性愛者や両性愛者とされる男性や少年、トランスジェンダー女性に対し、政府やISISなどの非国家武装グループによる(戦時)性暴力のリスクが高まっている。レイプをはじめとする性暴力はうつ病やPTSD、性感染症など心身ともに深刻な健康被害をもたらすが、被害を受けたサバイバーが恥や偏見への恐れなどからヘルスケア・サポートにアクセスできないケースも多い。

以上のような広範にわたる性差別的な人権問題を解決するためにも、SRHRは重要な視点となっている。

経済開発とSRHR

次に、経済開発の文脈はどうだろうか。

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著者
早稲田大学文学部卒業後、一橋大学大学院にて修士号(社会学)取得。現在、同大学院博士後期課程に在籍中。専門は社会調査・ジェンダー研究。Twitter : @keity_lied
The HEADLINE編集長。株式会社マイナースタジオを創業後、2015年に株式会社メンバーズ(東証一部)に企業売却。早稲田大学政治学研究科修士課程修了(政治学)。関心領域は、メディア論や政治思想など。Twitter : @ishiken_bot
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